2024.5.3.Fri
今日のおじさん語録
「雑草という植物はない。/昭和天皇」
特集/ぼくのおじさん物語 『濱田庄司』 2

「濱田窯」三代目
濱田友緒が語る!
民藝をつくったおじさん
濱田庄司って
どんな人?

撮影・文/山下英介

赤峰幸生さんも憧れるという〝民藝運動の生みの親にして実践者〟濱田庄司。彼はいったいどんな人で、どんなセンスの持ち主で、益子という土地でどんなことをやろうとしていたんだろう・・・? その疑問を解き明かすべく、「ぼくのおじさん」は栃木県益子市にある「濱田庄司記念益子参考館」へ。濱田庄司のお孫さんであり、世界的陶芸家として知られる濱田友緒さんに、じっくりとお話をうかがってきた。

濱田庄司は
太陽だった!

世界的な陶芸家であると同時に、益子焼を代表する窯元である濱田窯の代表や「濱田庄司記念益子参考館」の館長としての顔も持つ濱田友緒さん。その面影は、濱田庄司さんを彷彿させる!
ズバリ、民藝運動の巨匠である濱田庄司さんは、友緒さんにとって、どんなおじいちゃんだったんですか?

濱田友緒 なんというか、太陽のような人でしたね。

太陽、ですか!

濱田 私が生まれた時、庄司は「日本民藝館」や「大阪日本民藝館」の館長を務めていましたから、オフィシャルな仕事で益子を留守にしていることが多かったと思うんですよ。なのに常に私のことを見てくれているようなインパクトがあったし、彼がいるところだけが光っているというか。

やっぱりカリスマ性のある方だったんですね。

濱田 オーラがあるというんですかね。背は高くなかったですが、体格はずっしりして声も大きくて明るくて、その存在感はすごかったです。

民藝の巨頭の家に生まれたという、特殊な家庭環境は、子供心に感じていたんですか?

濱田 私は10歳のときに庄司と別れたんですが、お葬式は「町葬」だったんです。体育館にしつらえた祭壇に巨大な顔写真のパネルと菊の花が飾られて、まるで政治家の葬儀のような光景でした。そのときに初めて、濱田庄司が社会的にも特別な人だったということを実感しましたね。

濱田庄司が自宅や工房の一部を改築して1977年に開館した壮大な民藝の美術館が、「濱田庄司記念益子参考館」。「参考館」という名前には、自身が蒐集した名品たちを、一般の方々にも〝参考〟にしてもらいたいという意味が込められている。様々な企画展やイベントもやっているので、ぜひ遊びに行ってみよう!
 
住所/栃木県芳賀郡益子町益子3388
TEL/0258―72―5300
開館時間/9:30〜17:00(入館は16:30まで)
入館料/1000円
休館日/月曜日、年末年始、ほか臨時休館あり
「益子参考館」がもともとご自宅だったという時点で一般家庭とはかけ離れているわけですが(笑)、やっぱり暮らしそのものも、特殊なものだったんですか?

濱田 一般家庭とはだいぶスケールは違っていましたね。住み込みのお弟子さんや女中さんがいたので、食事にしてもまずは子供が食べて、次に男衆。それが終わったら女中さん、最後に庄司・・・みたいな感じだったようです。

女中さんがいたんですか・・・なんだか大正時代の朝ドラみたいですけど、濱田さんは1967年生まれなんですよね? 現代とは思えない生活だなあ。

濱田 お風呂も五右衛門風呂だったし、暖房は火鉢と、炭を使うこたつでした。かと思えば冷蔵庫やテレビ、扇風機といった家電の類は最新のアメリカ製品を使っていましたから、モダンな感覚も備えていたわけです。庄司は海外事情にも通じていましたから、日本の暮らしの中で必要なものとそうじゃないものを、峻別(しゅんべつ)していたんだと思います。

ただ、友緒少年にとっては、そんな濱田庄司の哲学とかは当然理解できないわけですよね?

濱田 とにかく広い敷地に、大きな家がたくさんあるという感じでしょうか。友達も遊びに来るんですが、隠れんぼなんかし始めたら、絶対に終わらないんです(笑)。

濱田庄司が惚れ込み購入、移築した建物で構成されている「濱田庄司記念益子参考館」。民藝精神を体現する歴史的建造物や家具、世界中から蒐集した美術工芸品、そして庭に溢れる四季折々の草花・・・。まさに自然の美に溢れた空間だ。
下手したら捜索願いものですね(笑)。濱田家の食卓はどんなものだったんですか?

濱田 大皿料理で、ビュッフェのように各々取っていくのが基本でした。料理は和・洋・中さまざまです。京都の食材も多かったし、沖縄のゴーヤチャンプルーやイギリスのパイのように、珍しいものも食べていました。

食卓にも、濱田庄司さんの生きてきた道が再現されていたんですね!

濱田 庄司は酒こそ飲みませんでしたが食欲旺盛で、食べることをとても大切にしていました。あとは甘いものも大好きでしたね。うちには職人や弟子、女中さんに加えて、大工さんや庭師さんがほぼ常駐していたし、畑仕事をやってくれていた農家さんも出入りしていましたから、お茶の時間になるとあっという間に30人は集まるんです。だから地元のお菓子屋さんには、毎日100個の饅頭をつくってもらっていたそうですよ。

確かにすごいスケール!

濱田 1960年代といったらまだお菓子は贅沢品ですから、濱田邸に行けば甘いものが食えると話題になっていたそうです。お茶の時間や昼食を狙って若い職人や作家さんが押し寄せたり(笑)。庄司は職人の仕事を尊敬していましたし、当然彼らをねぎらいたい、という気持ちもあったでしょうね。

ホームスパンを愛した
民藝の巨匠

個人的に好きなファッションの話を伺いたいのですが、民藝の巨匠の方々って、みんなすごくお洒落ですよね? 柳宗悦さんや河井寛次郎さんが着ているホームスパンのジャケットとか、今売っていたらほしいくらいです。濱田さんは、着物姿の写真ばかりが残っていますが、どんな格好をされていたんですか?

濱田 いつも藍染の作務衣を着ていましたね。益子に今もある、日下田(ひげた)藍染工房で染めたものでした。冬になるとホームスパンの半纏(はんてん)です。



益子で200年以上続く〝紺屋〟日下田藍染工房で染めた作務衣。72個の藍甕(あいがめ)が並ぶ茅葺き屋根の工房は、栃木県の文化財に指定されている。こちらも民藝運動とはゆかりの深い工房だ。
岩手県の農村で大正期から織られていたホームスパンを、世界に誇る民藝織物に育てた作家、及川全三(1892〜1985)の生地で仕立てた半纏やニットタイ。その深みのある複雑な色合いは絶品だ。もともと小学校の教員だった彼を草木染めによる織物の世界に誘ったのは、ほかならぬ柳宗悦だった。及川が染織を始めた1930年代、すでにホームスパンの発祥地だった英国でも、天然染料による毛織物は珍しくなっていたという。
なんと、ホームスパン製の半纏なんですね! 質感も素晴らしいけど、これはあったかそうだなあ。

濱田 益子ではあったかくないと凍え死にますからね(笑)。ホームスパンは、岩手の及川全三さんという方が織ったものです。

及川全三さんという方は、柳さんや濱田さんと親交を持ち、岩手県でホームスパンを広めた方ですよね。そうか、当時のホームスパンって、こういう手触りなのか・・・。素晴らしい。洋服はあまり着られなかったんですか? 

濱田 東京に出るときはスーツにハット姿でした。うちは祖母も着物派で、一着も洋服は持っていませんでしたね。

奥さんとの仲はよかったんですか?

濱田 すごくよかったと思います。庄司は男のロマンが先走って次々とモノを買ってしまうわけですが(笑)、それって当時の家庭においてはそうとう女性の負担になりますよね。そんな夫を支えた祖母は立派だなあと。

濱田庄司が愛用していたパナマハットやソフト帽。メーカー名は不明だったが、いずれも一流の舶来品だ。民藝の巨匠たちは、ファッションセンスにおいても、当時の最先端を走っていた。
人間国宝・濱田庄司の妻である和枝さん。
なんだか身につまされるなあ(笑)。それにしても、濱田さんはファッションにおいても、かなりの達人だったんですね。

〝世界の濱田〟を
継ぐということ

こういった環境の中で、友緒さんは自然に作陶の道に入られたんですか?

濱田 1970年代は民藝運動のピークで、濱田庄司の活躍も相まって〝世界の益子〟と言われていた時代だったんですよ。私が通っていた小学校でも、クラスの男子の三分の一が「世界一の陶芸家になりたい」と書いていました。そんな雰囲気の中で窯元の息子をやっていたら、ごく自然にそういう気持ちになりますよね。私は子供の頃から職人が嫌がるくらい工房に遊びに行っていましたが、今にして思えばそれも父や祖父に導かれたのかもしれませんね。

濱田庄司さんに作陶を教えてもらったりしたことはあったんですか?

濱田 庄司に招かれると5枚くらいお皿が用意されていて、「どっちが早く描けるか競争しよう」みたいなことはありました。男の子としては燃えるシチュエーションですよね(笑)。そうするとうまいこと負けてくれて、「これはたいしたもんだ」とか、褒めてくれるんです。ただ、それは決してお世辞じゃなくて、大人には描けない線に対して、本当に感心しているわけです。

その感覚はすごく民藝的ですね。やっぱりかなり影響されたんですか?

濱田 そうですね。祖父からはつくる喜びや、アーティストとしての心持ちを教わりました。技術的には職人肌だった父・晋作から受けた影響のほうが強いかもしれませんが。大きな光を放って笑う祖父の横を、眉間にしわ寄せた父が黙って通り過ぎていく・・・みたいな光景をよく見ましたけど(笑)。

なるほど、ふたりから影響を受けて今の濱田友緒がいるわけですね。友緒さんから見た濱田庄司の陶芸って、どんなものなんですか?

濱田 軸はズレていないけれど、動きがある。本人も、「止まっているのに動いているように見えるものが一番いい」と言っていました。しっかりと立っているのに確かに動きがあるというのは、芸当ですよね。

アートや民藝の世界のみならず、益子においても偉大な存在である濱田家を継ぐということに、プレッシャーを感じたり、投げ出したい気持ちになったりしたことはなかったですか?

濱田 それはあまり思わなかったです。子供の頃からいいものを見続けていることもあるけれど、この環境、材料、技術を最初からつくろうとしたら大変じゃないですか。うちには伝統技術を受け継いでいるスタッフもいますし、その中で仕事ができるメリットや幸福感のほうが優っていますね。

ただ、ご自分の作陶活動だけじゃなくて、この巨大な「参考館」を維持していく大変さもありますよね?
「濱田庄司記念益子参考館」において「上ん台(うえんだい)」と言われる4号館は、1942年に隣村の豪農から購入、移築した巨大な母家に濱田庄司が手を加えた館。世界中から集めた民藝品も相まって、モダンなセンスを感じさせる空間に仕立て上げている。傷みやすい茅葺き屋根をはじめ、その広大な施設を維持するためには、入館料だけでは全然間に合わないとか。この貴重な空間を次世代に伝えるために、ぜひ皆さんもご寄付を!

濱田 もちろんそうですが、建てた人よりは楽ですよ。だって庄司はこの家をどこかの庄屋さんに行って頭を下げて、これをくださいと言って持ってきたわけですからね。当時の持ち主にとっては晴天の霹靂ですよ(笑)。

確かに空前絶後ですね(笑)。それは人徳というか、〝太陽〟と称される濱田さんだからなしえたことなんでしょうか。

濱田 濱田は民藝運動の主翼として活動しつつ、大邸宅を10棟移築して、ひと山開墾して、そこを自分の色に染めたわけです。しかも主な仕事である陶芸活動の合間に。ふと自分を振り返ると、部屋ひとつ、庭の草1本きれいに整えるのだってなかなか大変ですから、そのエネルギーたるや想像もつきません。陶芸家としての自分は、いつか父や祖父を追い越したいと思っていますが、私もさすがにそこまではできません(笑)。

その凄まじいパワーに、人やモノや資金が引き寄せられたわけですよね。

濱田 そう。無理やりではなく、自然に集まってきたんです。

民藝運動はどうして
社会を変えられたのか?

そこが不思議なところで、まだ30歳くらいの青年だった濱田庄司、柳宗悦、河井寛次郎が提唱し始めた民藝運動が、どうして社会を変えるほどのムーブメントになり得たのか、わからないんです。民藝という思想は、当時においてはかなりカウンターカルチャー的というか、斬新な思想だったのでしょうか?
青春期の濱田庄司は、東京工業高等学校の窯業科を経て、京都の陶磁器試験場で釉薬を研究。この頃に生涯の盟友となる河井寛次郎や柳宗悦、バーナード・リーチらと出会っている。

濱田 彼らが早くから海外の事情を知っていたという点では、新しかったですね。19世紀から20世紀前半の欧米は、産業革命による大量生産、大量消費社会の真っ只中です。夏目漱石の世代は、それに大いに影響を受け、わが国に導入することに力を注いだわけですが、濱田庄司の世代は、ただ影響を受けるだけでは終わらなかった。西洋文明の素晴らしさは認めた上で、日本ならではの美の心を見出すに至ったわけです。各地の手仕事が生み出す、健やかな美しさという。ですから復興運動でもあったんでしょうね。

なるほど。モダンな感覚を持っていたからこそ、そこに気づけたんでしょうね。だって今まで存在しなかった〝民藝〟という言葉、そして概念をつくっちゃうわけですもんね。

濱田 今では、民藝という言葉が3人の造語だということを知らない人も増えましたけどね(笑)。でも、確かにこの言葉が生まれた時に、民藝運動は始まったんです。

民藝の3大スターが集合した貴重なスナップ写真は、当時の朝鮮で撮られたもの。左から河井寛次郎、柳宗悦、濱田庄司。それぞれのスタイルも実に魅力的だ。
コピーセンスも抜群ですね。3人はルックスもキャラが立ってますし(笑)、今でいうインフルエンサー的な存在だったのかなあ。

濱田 柳宗悦が極めて優秀な思想家であり文筆家だったので、彼の文章によるアピールは大きかったでしょうね。けれど、当時の田舎の職人さんは文字が読めない人も多かったでしょうから、「柳先生のハナシは難しくてわからん」で終わっちゃうこともある(笑)。そこで濱田庄司が、民藝の体現者としての役割を果たすわけです。

英国から帰ってきたエリートかつ最先端の陶芸家が、益子という田舎町に移住しちゃうわけですからね。しかしなんで益子だったんでしょう? だって今よりもずっと地理的なアドバンテージは低かったですよね?

濱田 盟友の柳宗悦さんや河井寛次郎さんは都市をベースに活動していましたし、当時の益子は〝二流の産地〟なんてイメージでしたから、ふたりからは「帰国したら東京か京都で仕事をしたほうがいい」って言われていたようです。庄司がそんな声を振り切って益子に移住したのは、英国のセント・アイブス暮しの中で、田舎の健やかな営みを味わえたことが大きかったんじゃないですかね。自然の中で職人たちと触れ合いながら作陶するという楽しさ。民藝運動が始まる前から、すでに庄司は〝民衆的工芸〟の感覚をすでに持っていたんだと思います。そして今でもそうですが、庄司が移住した1930年の益子は、窯業よりは農業の村でした。主要な幹線道路や列車の駅が通っていない、極めて保守的な地域でしたから、庄司が住み始めた頃は、完全に腫れ物扱いされたそうです。「濱田とはあんまり付き合うなよ」みたいな。でも、益子はこのままじゃダメだと思っている若者たちが集まってくるんです。

京都をベースに活動した民藝の巨頭にして芸術家、河井寛次郎と。東山区五条坂にある民藝館「河井寛次郎記念館」も必見だ!
それはどうして?

濱田 庄司が住み始めた頃は、益子のあたりにも近代的なインフラが整い始めていたんです。ガスや電気が通ると、土鍋のような火を使う器は不要になります。そして水道が通ると、大きな水瓶は不要になります。今までの窯業における主力商品が、需要をなくしつつあったんですよ。そこに濱田庄司がやってきて、これからはテーブルウエアをつくろうなんて言いだすわけです。

現代的なライフスタイルに移行しつつあったんですね。

濱田 庄司の言う通りにつくったお茶碗、お皿、花瓶のようなものが売れるという噂になって、若い人がどんどん集まるようになりました。でも、庄司が偉いのは、そこで「今の益子はダメだ」とか「俺が益子を変える」みたいなことは絶対に言わない。「益子は本当に素晴らしい土地で、ここに住むだけでいい仕事ができる」なんて書くんですよ。そういう人だったから、みんなの警戒心が薄まったんでしょうね。

そうか〜。偉ぶらない人だったんですね。

濱田 問屋への依存体質を改めて、町内に販売店をつくって一般の人たちに器を販売したことも、庄司のアドバイスによるものです。それによって、益子焼は信楽風や瀬戸風から脱却して、独自の個性を持ち始め、V字回復するに至ったんです。この時代の潮流についていけずに滅びた産地もけっこうありますから、庄司が移住したのはいいタイミングだったんでしょうね。もしかしたら、庄司が埼玉県の飯能に移住してたら、飯能焼が残っていたかもしれませんよ(笑)。

確かに。でも噂によると、益子の職人さんからは、濱田庄司はヘタクソ扱いされていたとか(笑)?

濱田 水瓶もすり鉢もつくれないし、叩き上げの職人から見たら、基本を外しているわけですよ。だって庄司は、大学で窯業理論を勉強して、京都の陶磁器試験場に就職してから、ようやくろくろを回したわけですから、そりゃあね。ベテランの職人からは、濱田に行くと下手が移るって言われていたそうです(笑)。

そもそもいわゆる民藝の職人じゃないですからね(笑)。

濱田 庄司は湯呑みを20個つくるなら、全部違う形にする陶芸家ですからね。でも、若い人たちはそれがいいんだって、だんだんわかってくる。中には勘違いして、庄司のマネをしてわざわざ不揃いにつくっちゃう職人さんもいたそうですが(笑)。

濱田さんは職人にやる気を出させる天才ですね! 保守的な田舎に溶け込みながら、すごくいい風をもたらしたんだなあ。

一流への階段は
正面玄関から駆け上れ

英国人陶芸家であるバーナード・リーチと長年にわたり親交を結んだ濱田庄司。1920年にリーチがイギリスのセント・アイブスに登り窯を開いたときは、彼も同行。ロンドンでも個展を開き成功した。このとき濱田が着ているスモックのような服は、現地の漁師が着ているワークウエアだったという。濱田窯と縁の深いビームスフェニカでは、こちらにインスパイアされたスモックを定番品としてつくっているのだが、これがなかなか格好いい。
濱田窯の敷地内には、バーナード・リーチのためにつくった部屋や、彼のために用意した工房が。濱田庄司とリーチの友情が伺える。
ちょっと話は変わりますが、濱田庄司さんがここに集められているような美術工芸品を収集できたり、25歳くらいでバーナード・リーチとともに渡英できたのは、やっぱり支援者がいたからなんですか? それとも実家からの援助ですか?

濱田 庄司がイギリスに渡ることや美術品の収集が出来たのは、活動に賛同し応援してくれた近親者や支援者の援助があってのことです。

民藝運動の中心人物である柳宗悦さんは、スポンサーを集めてくるのがうまかったと聞きますが。

濱田 でも、柳さんは理論家で非常に気丈な方だったので、そういう人たちを怒らせちゃうこともあったそうなんですよ(笑)。その点庄司はスポンサーの方々との付き合いがうまかった。アサヒビールの初代社長である山本為三郎や、大原美術館の創設者である大原孫三郎も、濱田が連れてきたスポンサーで、彼らの尽力があってこそ「日本民藝館」が生まれたんですから。

本当にすごい人なんだなあ。やっぱり生来の明るさが成功の秘訣だったのでしょうか?

濱田 明るくて行動力はあるんですが、決して無謀なタイプではなく、むしろ慎重かつ繊細な人だったと思います。大物に会うときもいきなり直接ぶつかるわけではなく、きちんと紹介状を書いてもらっていましたし。一流の階段を駆け上がるには、事前に礼儀を尽くし、準備をした上で、堂々と正面玄関から入らなくてはいけませんから。

堂々と正面玄関から! それはぼくたちにとっても参考になる話ですね。

濱田 益子に入るときも、まずは町で一番の名士である地主さんのもとに、挨拶に行くんです。当然都会で優秀なキャリアを持つイギリス帰りの有望な若者が来るとなったら、地主さんだって奥の上座の絹座布団に案内するわけですが、それは町の人々にとっても大きなインパクトですよね? そこでまず一度成功しちゃうわけです。濱田はそういう人付き合いを打算なく、生涯にわたって続けられた人でした。当然、その裏には努力もあったと思いますよ。

現代の暮しにこそ
民藝の思想は必要だ



ヨーロッパ、沖縄、朝鮮、日本etc.・・・。世界中の名品が分け隔てなくミックスされ、それが見事に調和している「濱田庄司記念益子参考館」の空間。もちろん規模こそ比較にならないけど、ぼくたちの生活にも参考にできる点が多々あるのだ。
友緒さんは、濱田庄司さん的な収集癖はお持ちなんですか?

濱田 多少はあるんですが、まず虚しくなっちゃうのは、ここにいいものが揃っているので、市場に転がっているものを買っても意味がないという。今さら美術工芸品を集めると言っても、ここに究極の答えがありますから、数万円のものを買ってきても・・・ね(苦笑)。ですから、私は100円から買える絵葉書を集めています。もう1万枚になるかな。あとは応援という意味で、若い作家さんの作品を買うことも多いですね。

幸か不幸かわかりませんが、この環境で育ったら目も肥えちゃいますよね(笑)。

濱田 つくるのは目ですから、目が養われているということは、作陶する上では重要なことなんですけどね。

自然に養われた目なわけですから、羨ましい限りです。都会で暮らすぼくたちなんて、たとえ1億円の新築マンションをローンで買えたところで合板のフローリングにビニール製の壁紙に囲まれた空間だったりしますから、切なくなってきますよ(涙)。

濱田 家が壊れるのとローンを払い終わるのはどっちが先なんだという(笑)。でも、そういう都市生活が主流になったからこそ、民藝ブームとも言われる今の状況があるのかもしれません。民藝的な住まいや暮らしの中に民藝があるんじゃなくて、コンパクトでモダンなマンションやIKEAの家具にだって、民藝の器は合うんですよという。つまり敷居を下げたわけです。そういう生活をしている若い人たちの中から、いつかは民藝的な暮らしをしたいと思う人もいるでしょう。濱田庄司の生み出した民藝は、現代人の夢も提案しているんですよね。

ぼくたちの生活に民藝がなかったらと想像すると、とても寂しく感じちゃいますね。そう考えると、本当に偉大な方だなあ。

濱田 大人になった今の意識で接してみたかったな、とつくづく思いますね(笑)。

濱田友緒

1967年生まれ。栃木県益子町をベースに活躍する陶芸家。濱田庄司、濱田晋作の跡を継ぐ濱田窯三代目当主であり、2012年からは濱田庄司記念益子参考館の館長も務める。世界各地での個展、講演、陶芸実演などを通して、益子焼の新たな世界を切り拓く。ロエベのクリエイティブ・ディレクターとして知られるジョナサン・アンダーソンも、濱田友緒さんの作品のファンだ。

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