〝アウトドア〟という
概念をつくったおじさん
油井昌由樹が語る
「俺のアウトドア」
「俺の70's」
撮影・文/山下英介
「ぼくのおじさん」が1970年代を語る上で、欠かしてはならないキーワードが〝アウトドア〟。実は日本におけるアウトドアカルチャーは、この時代に開花したといっても過言ではないのだ。ここではその先駆者となった人物、油井昌由樹(ゆいまさゆき)さんを紹介しよう。アウトドア以外にも、編集者や俳優など様々な顔をもつ油井さんの生き方そのものが、自由すぎる70年代のスピリッツを体現しているのだ! 1箇所たりとも油井さんの修正依頼が入らなかった(意外とこれは珍しい)、100%の生搾りインタビューをご賞味あれ。
〝アウトドア〟の立役者は
最先端のシティボーイだった

初っ端から今回のテーマに関わる質問ですが、油井さんにとって「1976年」ってどんな時代でしたか?
油井昌由樹 「1976年」に限ったことじゃないけれど、1970年代って、人類史上もっとも安心感のあった時代なんじゃないかな。
安心感? 不安とかドキドキではなく?
油井 そうだね。将来はちゃんと来る。世の中はこのままある、という。
今は世の中がよくなっていくことに希望を持てない若者って、けっこう多いと思うんですが。
油井 それは俺も否定できない。だから今、俺自身が70年代を克明に表現した本をつくってるのよ。これによって、若い人たちが今の時代に希望を感じられるかもしれない。大事なことの筆頭って希望だろう? そういう意味では、今日はあの時代を詳細に思い出せるから、楽しみにしてきたよ。
もともと油井さんは神奈川県の人ですよね? てことは、横須賀や本牧あたりの米軍基地が遊び場だったとか?
油井 そうだね。俺は鎌倉生まれの横浜育ちだったから。ただ、いちばん遊んでたのは西麻布の基地だったかな。あの金網の中にはいると、途端にトヨタのマーク2だってカッコよくなっちゃうんだ(笑)。
音楽にせよ、ファッションにせよ、1970年代のカルチャーの担い手って、多くは〝米軍基地に出入りできた人〟だったんですよね。ある種の特権階級というか。

油井 カルチャーとしてそこに厳然としてあったからね。俺の場合は、うちのばあさんの親友が本牧にあった米軍基地のエリア1で、出入りの商人をやってたから、つながりがあったんだよ。俺は当時、なにか面白いバイトを経験したいと思っていたときだったから、たぶん給料は安かったと思うんだけど、基地の中でエアコンや冷蔵庫を設置するアルバイトをやっていた。仕事で軍人の家に行くと、今まで飲んだことないようなコーヒーや紅茶が出てくるんだ。あのとき、黒人兵がドラッグストアに得意がって買いに来るコンドームがあったんだけど、それが4XL。あんなの女の子に見せたらパンツ穿いて帰っちゃうよ(笑)。
ああ、サイズが(笑)。
油井 俺、もともと医者の息子だから、ガキの頃からポルノグラフィーって全然興味がないんだ。だからどしたの?って感じ。
ご実家は開業医だったんですよね?
油井 そう。デパートの外商が毎週来てたからね。GT-Rがほしいって言ったら、数日後には玄関に置いてあるような家だった。
じゃあ当然、跡を継げみたいな話にはなりますよね?
油井 ひとりっ子だから間違いなくあったけど、中学校の作文ではすでに「医者にはなりません」って宣言してたよ。だってお袋がかわいそうだったもん。うちの親父は患者を連れてきて、ウチに泊めたりしてたからさ。からだじゅうカビの生えた若いやつとか、しょっちゅうウチにいたよ。で、そんな状況なのにアルバイトで大洋漁業の漁船に乗って半年くらいいなくなっちゃう。でもその間患者の世話をするのはお袋なんだよ? よく「医者なんてバカよ」って言ってたな。
そういう環境でドロップアウトしちゃうんですか?
油井 いや、違うな。割と先輩や先生のウケはいいタイプだった。赤坂にできたばかりの「ビブロス」や「ムゲン」みたいなディスコで、毎晩GI(米兵)たちと遊んでたし、あれだけ生意気やって、よく死ななかったなと思うけど。俺が青春時代を過ごした1960年代後半のことを思い出すと、いつもまわりがガラガラ、ガラガラと音を立てて、ついていけないくらい世の中が変わっていたような気がするんだ。それに対して1970年代に入ると、途端に将来に対する不安がなくなっていった。
面白いこと探しの旅で
見つけた〝俺のアウトドア〟

それが不思議なんですよね。1970年代の社会って冷戦やベトナム戦争、公害、みたいな多くの社会問題を抱えていて、音楽や映画も退廃的な作品ばかりというイメージもありますが。
油井 それでも将来は明るかったね。人類は自ら傷を治していい方向に向かっていくんだ、と誰もが信じていた。単純というかピュアすぎたかもしれないけど。
やっぱりファッションへの目覚めは、アメリカだったんですか?
油井 そうだね。西部劇が大好きで、ジョン・ウェインは親戚のおじさんみたいな気がしている。
いわゆるVANみたいなブランドもお好きだったんですか?
油井 俺、石津(謙介)さんとか仲良かったけど、あんまり認めてなかったよ。いいとか悪いとかじゃなくて、こっちはブルックスブラザーズ着ているわけだからさ、なにがVANだって。
当時から本物を着ていた人たちからすると、やっぱり認められない存在だったんでしょうか。
油井 ボタンダウンシャツひとつとっても、ステッチから何から違ったよな。
そういう意味では、上の世代の人たちにとっては、油井さんの存在は脅威に映っていたんですかね?
油井 どうだろうな。そういうこと思っている時点でどうかって話だけど。ただ、俺たちもその時点では、自分がやってることが本物かどうかはわかっていなかったんだよ。
1971年になると、油井さんは突如として世界一周旅行に出掛けてしまうんですよね。それも、本物を探す旅みたいな感覚だったんですか?
油井 ベトナム戦争が終結に向かったことで赤坂からGIがいなくなって、突然東京が面白くなくなったんだよね。それでヤツらに会うために、アラスカ州のアンカレッジを起点に世界を旅したんです。でも俺はこの街で、今まで全く知らなかったアウトドアというライフスタイルを見つけて、ファッションも生き方も、全てが変わってしまった。泊まっていたホテルの隣がアウトドアショップだったんだけど、その店先でコールマンのランタンが輝いているんだよ。カルチャーショックだったね。それで俺は今まで着ていたパンタロンやテロテロのシャツなんか脱ぎ捨てて、リーバイス501にワークブーツなんか履いて、バックパックを背負って旅するようになったんだ。
それまでの日本には〝アウトドア〟という概念はなかったんですか?
油井 要するに、それまでの日本におけるキャンプって、〝ビバーク〟だったんですよ。翌日もっと上に行くための通過点という。そういうことじゃなくて〝この生活〟自体に目を付けたのは、日本では俺が最初だった。まあ、こんなことどう言っても自慢話みたいに聞こえちゃうんだろうけど、現実に俺しかやってなかったことだから、仕方ないんだけどね。
そうか、当時のキャンプって、山登りの過程にあるものだったんですね。
油井 そもそも俺、山登りなんて大っ嫌いだから(笑)。誰かおんぶしろって感じだよ。
アウトドアの先駆者は山登りが大嫌い!
油井 俺なんて交番でお巡りさんにジョイントに火をつけてもらってたくらいだし、向こうじゃお洒落なゲイのカップルの家に行けば、すでにテーブルにコーク引いてあるくらいの感じだったから。ラインも長いし、もう鼻血でちゃうよって(笑)。

いわゆるナチュラル志向っていうわけでもないんですね(笑)。
油井 俺なんて美味けりゃ亀だって食うし、そっちじゃないんだよ、カルチャーが。アウトドアのときに使う敷物とか食器に対して、こっちの方がカッコいいじゃんって言い出したのが、俺のアウトドア。当時はみんな、台所で使ってるような食器を持ってきてたんだから。
じゃあ、パタゴニアあたりとは相容れない?
油井 そうね。まあ、あそこも三分の一くらいは商売だろうけど、イヴォンのものの考え方の基礎はよくわかるよ。ただ、あいつは人類の未来を考えているのに対して、俺なんててめえのことしか考えてない(笑)。
そういえば、のちに出版される『Made in U.S.A catalog』のアイデアソースになった、『Whole Earth Catalog』の編集部にも行ったことがあるとか。
油井 というか、俺は旅行中に『Whole Earth Catalog』の存在を知って、その日本版を出版しようと思ってたんだよ。向こうの編集部からも大歓迎という許可をもらったんだけど、いざ日本で調べたら「地球丸」と言う出版社がすでに商標を取っていたんだ。でも、一緒にやろうと誘ったら、予算だなんだと言って動かなかった。あれはもったいなかったね。
やっぱりあれは特別な雑誌でしたか?
油井 『Whole Earth Catalog』は、俺たちが憧れて、一生懸命目を皿にして見ていた世界観の宝庫なんだよな。のちにGAPみたいなブランドがたくさんできて、そのカルチャーは終わっていくんだけど。そういえば、その頃は気づかなかったけど、俺が行った時の編集部には、のちにApple社を創業したスティーブ・ジョブズもいたみたいだね。当時の西海岸には、そういう会社がたくさんあって面白かったよ。
東京で最も尖った
アウトドアショップが
「スポーツトレイン」だった

それで帰国後にオープンしたのが、アウトドアグッズの輸入販売ショップ「スポーツトレイン」というわけですね。
油井 そうだね。開店資金はなぜか三井銀行が貸してくれたんだけど、よく考えたらウチは開業医だったから、銀行だってお得意だったんだよね。ただ、このお店をつくったのは俺だけじゃなくて、友達だった庄司竹志といっしょなんだけど。
「スポーツトレイン」といえば油井さんのイメージがありますが、共同経営者の方がいらしたんですよね?
油井 もう30年ほど前に死んじゃったけど、あいつは絶対表には出てこなかったからね。でも俺にとっては、人生で最も大切な出来事が、あいつとの出会いだったと思う。あいつが今でも生きていたら、東京はもっと違った形になっていたんじゃないかなあ・・・。とにかくそこらへんのやつを束にしても、あいつの魅力の指先も描けないよ。
本当に魅力的な人だったんですね。
油井 初めて会ったのは19か20歳の頃かな。お互いの共通の友達から「油井くんにぴったりの面白いヤツがいるから」と言われて出会ったの。新宿のビルの3階が彼の部屋だったんだけど、まず土足なんだよね。で、入ったらそこにはLPが6枚かかるオートチェンジャーのコロンビア製レコードプレイヤーがあったんだけど、これって俺が持ってるのと同じモデルで、さらにいいヤツなんだよ。まあ驚くくらい俺と趣味が似ていて、その日のうちにヤツをウチに連れてきて、1週間は泊まっていかせたね。それからは1日と空けずにずっと一緒にいたから、女房よりも一緒にいた時間は長かったかもしれない。だって朝10時から夜10時まで店開けて、そこからキャンプが始まるんだから(笑)。
そんな東京の最先端の若者ふたりがつくった「スポーツトレイン」の経営は、初めから順調だったんでしょうか?
油井 いや、最初の2年間は誰にも相手されなかった。
そもそも「スポーツトレイン」の場所って、なんで西麻布だったんですか? あんまりアウトドアのイメージはないですよね。夜の街というか・・・。
油井 そっちが中心だからね、俺(笑)。もともとあそこは俺たちが行きつけにしていた釣り道具屋で、やめるときにそのまま引き継いだの。当時の西麻布は今もある「北海園」とか、数軒の中華料理屋があるくらいだったかな。低地だったから今みたいに金持ちは住んでなくて、労働者の街だったよ。
そんな場所になんでお店を構えたんですか?
油井 駅からも遠いし、ここにわざわざ人が来るっていうことは、絶対に何か買っていくだろう、という素人考えだね。まあ、実際はそんなことはなかったけど。
やっぱりきっと、最初は業界人の溜まり場というか、サロンみたいな場所だったんですかね。
油井 どうしたってそうなるよね。カメラマンやデザイナーみたいな自由業の連中がウチで待ち合わせたり、店が終わった後もパーフェクションのストーブをみんなで囲んで遊んでいるような場所だったかな。だから、若い連中にとっては敷居が高くて入りにくかったそうだよ。3回くらい改装したけど、そのたびにさらに敷居を高くしちゃうんだ。当時はみんなバイクで集まってたから、店の前がバイクだらけになって、近所のおばさんが勘違いして「自転車パンクしました」って持ってくるんだよ(笑)。直してあげてたけどさ。

サロン的な意味では、ちょっと「キャンティ」とか「月光荘」とかに共通するところがありますね。
油井 確かに、俺はどちらも好きだったからね。
それが約10年で「スポーツトレイン」は最先端のショップになって、西麻布も業界人の街になっていくわけですね!
油井 それは雑誌のおかげだよね。「スポーツトレイン」がしょっちゅう載ってたから、ブームになっちゃった。1976年に『POPEYE』ができて、俺が書くようになったことも大きかったかな。小さい写真だからキャプションも短くて、「エディバのワクブはスポトレにある」しか書けないんだけど(笑)、それでも売れちゃうんだよ。
当時の雑誌の影響は絶大でしたもんね!
油井 修学旅行生が地図持ってお金握りしめてナイフを買いに来るようになったからね。「このナイフください」って22万円もするラブレスのナイフなんか指さしてくるんだけど「お前、こんな高いもの買わないでいいから、肥後守あたりから積み上げていかないとダメだよ」って、俺は売らねえんだ。親から手紙が来たよ。「売ってあげてください」って。
まさにブームですね! 当時いちばん売れたものってなんですか?
油井 イムコのオイルライターかな。350円。最初はあれが1日1個しか売れなくてね。その後売れるようになってから、自分のところでライターをつくろうと思ったら、型代だけで700万円とかするんだね。それで断念して、今度はベンチをつくり始めた。今度は「いいベンチがあれば世の中はよくなる」なんて言ってね。まあ、なんといい加減なことか(笑)。
いっときは本屋さんだったこともあるとか?
油井 そうだよ。いろんなメーカーからカタログが送られてくるでしょう。あれは当然タダなんだけど、日本のお客さんは1,500円でも2,000円でも買ってくれるじゃん。もちろん同時に輸入の仕方も教えるけど、仕入れはタダ。それじゃあもう本屋にするしかないと思って、10坪のお店に10万冊カタログを置いてたね。
カタログの本屋、今あっても楽しそうですねえ!
油井 〝参加できる〟っていうのがいいよね。元気があるメディアやお店って、それを買う買わないはさておき、参加したくなるんだよ。
いや〜、70年代の「スポーツトレイン」がどんな場所だったのか、見てみたくなりますね。
油井 小説家の池波正太郎さんが、俺の書いた本『アウトドアショップ風まかせ』を読んで、「TVドラマで『スポーツトレイン物語』をやらないか」って誘ってくれたくらいだからね。もちろん俺が主演で(笑)。残念ながら間もなく亡くなっちゃって、その話も流れてしまったけど。
今は「スポーツトレイン」は営業されていないんですか?
油井 やってない。同じ建物の2階でやってた「After The Sunset」というバーは、今は息子がやっていて、俺も月に3回くらいは顔を出すけど。今は改めてアウトドアの輸入販売をやろうと思って、再構築中といったところかな。たとえば俺が今まで突き詰めてきた「アックスなら世界のどれが一番いいのか」みたいなことを、美術館つくるくらいの感覚でやってみたいと思っている。どうしても日本のものばかり買っちゃうかなっていう懸念はあるけどね。
今やってることが
夕方には記事になる
熱狂の時代の雑誌づくり

先ほども『POPEYE』のことに触れましたが、油井さんは編集者だった時代もあるんですよね?
油井 西麻布の「スポーツトレイン」に、(石川)次郎さんや木滑(良久)さんが毎日来てたから、それで自然とね。彼らの平凡企画センターは六本木に事務所があったでしょ? 当時の彼らは、1974年に発行される『SKI LIFE』をつくっていたんだよね。
そうか、ご近所さんだったんですね。
油井 そこで次郎さんに相談されて、誌面の後半を『Whole Earth Catalog』みたいにカタログの転載で埋めよう、というアイデアを出したんだ。発行元のアメリカのメーカーにも、ちゃんと連絡をとって。2号目からは自分でノルディックスキーをやったり、色々と記事を書いたよ。そんなふうに『Made in U.S.A catalog』とか『POPEYE』とかいろいろ手伝っていたら、編集が面白くなっちゃって。

いわゆる編集技術は石川次郎さんに教わったんですか?
油井 全く記憶がないなあ。なんだかんだ見ながら学んだんじゃない? 俺が編集で一番自信を持ったのは、こんなに小さな写真と短いキャプションでも、ちゃんと読者には伝わるということだったかな。だから写真も文字もできる限りぶち込んだよ。まだ目もよかったんだね(笑)。木滑さんは本当にすごい人で、「取材行きたいんだけど」「いくらだ」「これくらい」「じゃあ帰りに経理まで寄ってけ」ってことで、その日にキャッシュで300万円仮払い。その分広告を持ってくるパワーがあったんだろうね。
それはすごい(笑)。油井さんのように、他業種から来た人が編集の仕事をするようなケースって、昔は多かったんですか?
油井 編集って面白いからね。いろいろある素材をどうやって組み立てるかによって、全く違ったものになってくる。人生そのものが編集だよね。当時の「平凡企画センター」はすごかったなあ。夕方に行くとみんながゴロゴロ寝てて、その後メシに行って飲みに行って、明け方に帰ってきて原稿書いてたんだから(笑)。
携帯電話もファックスもない時代、どんなふうに編集の仕事をやっていたのか、全く想像もつきません!
油井 なんとかなったんだろうね。「スポーツトレイン」を始めた頃も、ファックスどころかクレジットカードもなかったから、適当に計算して輸入すると、釣り銭が3ドルとか返ってくるんだよ。それを換金するのに、手数料2,500円(笑)。それのいたちごっこだったね。クレジットカードが登場して、本当に楽になった。
「スポーツトレイン」と編集の仕事は、どういう配分でやられていたんですか?
油井 そんなこと、全く考えたこともなかったよ。今やってることが夕方には文章や写真になっていく。そんな現在進行形が、ずっと続いていったという感じかな。なにかを楽しみにずっと待ってるなんて、田舎くさいことはやらない。今やるべきこと、やりたいことがあればそっちに行っちゃうんだ。『Made in U.S.A catalog』の取材も、お姉ちゃんのケツ追っかけるのに忙しかったから断っちゃったし。
それはもったいないなあ。
油井 次郎さんは俺が欲しいもの、面白いものと思ったものを全部取材して買ってやろうと思っていたみたいだから、断るの大変だったね(笑)。まあやったらやったで違った形の表現ができていたかもしれないけど。
自分の好きなことや遊んでいることが、自然とお店や雑誌になっていった、という感じなんですかね。
油井 だから大事なのは野生、アウトドアだね。俺、体にいいとか悪いとかでメシ食わないから。うまいかまずいかどっちかだよ。
世の中で最先端のショップがあって、それを宣伝するメディアもある。もはや無敵な感じもしますが、たとえば「スポーツトレイン」をのちにオープンした「ビームス」みたいな企業にしたいと思ったことはありますか?
油井 正直いうと、オープンしたときの「ビームス」には何も感じなかった。まあ、俺は会議とかも嫌いだし、面倒くさかったんだろうね(笑)。
L.L.BEANにしてもレッドウイングにしても、油井さんが日本で初めて紹介したブランドなわけですが、それを大きなビジネスにしようという思いはありませんでしたか?
油井 俺の場合は、俺自身もまわりの奴らも、みんな楽しいことだけやってきたからカネのことなんて考えなかったかな。ただ、俺は「スポーツトレイン」の初期はアメリカの小売店で買ってきたものをそのまま日本に持ち帰って、値段を付けていたわけじゃん。でもさ、後からそれを卸値で仕入れる商社は、価格だけは俺の店に揃えるんだよ。
格好のネタ元になっていたわけですね(笑)。L.L.BEANに関しては、日本法人の社長になるかならないかみたいな話もあったそうですが・・・。
油井 社長かどうかはわからないけど、とりあえずそのテーブルには着いたよね。たださ、俺にとってのL.L.BEANって、トートバッグとメインハンティングシューズ、あとフィールドコートしかないんだよ。それ以外、特にポロシャツなんてひどかったからね(笑)。
そのメインハンティングシューズが、修理サービスを終了するということですが、油井さんが惚れ込んで世の中に伝えた世界観が、全く別のものになりつつあるという現実はありますよね。
油井 ・・・最悪だね。俺が初めて訪ねていったときは、まだ個人経営の会社で、創業者のお孫さんが社長だったけど。まあ、俺の家の前に賽銭箱でも置いておきたいよな(笑)。
〝面白さ〟を求めた結果
黒澤明に出会った

でも「スポーツトレイン」と編集の仕事をバリバリされていた油井さんは1980年代になると、突如として俳優に転身されちゃうんですよね? これはどういういきさつだったんですか?
油井 1979年は「スポーツトレイン」創業7年目で、7年目の浮気というか(笑)、そんな状況に飽きたんだろうね。社会も、アウトドアブームも、なにもかも面白くなくなってしまった。そんなときに出会ったのが黒澤明ですよ。
それがよくわからないんです(笑)。
油井 ビール飲みながら夕刊読んでたら、たまたまラテ欄に新作の出演者を一般公募しているという広告が出ていたんだよ。これ、面白そうじゃねえかと。それで自分でも不思議だったのが、まだオーディションも受けてないのに、「スポーツトレイン」で俺の代わりを雇っちゃうんだよ。俺、1年抜けることになるから頑張ってやれよ、って(笑)。
よっぽど確信があったんですね。
油井 16,000人の応募者の中から選ばれて初めてお目にかかったその日から、1998年に亡くなるその日まで、俺は毎日黒澤さんと一緒にいたんです。公私問わずね。

あの頃でいえば〝黒澤天皇〟と呼ばれていたような絶対権力者ですよね? 油井さんのどこが琴線に触れたんでしょうか。
油井 あの人が普通だったってことに気がついたからだろうね、たぶん。当時のメディアや周りの連中は、みんな黒澤明を〝怒鳴って怒ってなんでも言うこと聞かせる〟というふうに捉えていたわけですよ。ただ黒澤さん本人はそんな状況に悩んでいた。実際のところ壮絶に生々しい撮影現場だったんだけど、俺だけは地に足がついていたんだよね。まあスピルバーグやルーカスだって、黒澤明の前では直立不動なわけだから、仕方ないんだけどさ。
油井さんはそういう偉い人に臆することがなかったということですかね?
油井 人を偉いと思わないと言うか、〝偉い〟ということを求めていないんだよね。俺が求めているのは〝面白い〟ことだからさ。俺にとって黒澤明は、あくまで〝偉い人〟じゃなくて〝面白い人〟だった。いたって普通のじいさんが、あれほどの傑作をつくれちゃうというギャップ。ただ、役者はみんな俺のこと嫌いだったと思うよ。みんな下積みで苦労してやっとの思いで黒澤映画に出てるのに、「お前らがなんぼのもんじゃい」みたいな顔して俺がいるんだから(笑)。
70年代のスピリットは
まだ燃え盛ってる!

いやあ、すごい人生だなあ。つかみどころがないというか、Wikipediaだけ見てると、脈絡がなさすぎて全くわかりませんよ(笑)。
油井 そうだね。まずサラリーマンやったことないから。ちょっと前に知り合いの社長にそんな話をしたら、「じゃあウチで働いてみない?」ってことで、1年間だけ契約してみたの。でも結局給料もらっただけでほとんど会社に行かなかった。これって就職になるのかな(笑)。
履歴書には書けると思います(笑)。今は肩書きとしては・・・。
油井 夕陽評論家。
やっぱりそうなんだ(笑)。この肩書きも子供の頃から謎でした。
油井 きっかけは『週刊文春』でさ。肩書きを書けってうるさいから「運動具屋店主」って名乗ったら、それじゃダメだって。だから俺の大嫌いな評論家たちへの皮肉のつもりで、夕陽評論家って肩書きをつけたわけよ。あんなもん評論してどうすんのって話じゃん(笑)。フランス人あたりは皮肉だってわかるから笑ってくれるんだけど、日本人は真面目でしょ? だから実際に評論家のジャンルに入れられて、世界中にも行けたんだけどね。
もう最高の人生じゃないですか!
油井 いや、一番の問題点は俺がいつ死ぬかなんだよ。死ぬのは全然いいんだけど、いつまで生かされるかという問題。今、映画を撮ろうと思ってるんだけど、そうなると俺だけの都合ではなくなってくるからさ。
映画制作!
油井 実は30年前にシナリオを書いて高倉健さんに持って行ったんだけど、断られたんだよ。
どんなお話なんですか?
油井 ヴィンテージバイクの修繕屋の爺さんのロードムービー。ただ元通りに直すんじゃなくて、どんな奴が、なんのために乗るのか、ということまでを見極めて、これからの人生を共にする一台をつくる。そして機械を直すことを通じて、人間関係をも直していくんだ。主演は俺がやろうと思ってるんだけど。

バイクの修理屋さん、まさに油井さんにぴったりですね!
油井 修理じゃなくて〝修繕〟なんだよ。元よりよくしないでどうするって。俺は壊れたもので直らないものなんて、世の中にないと思ってるからさ。
70年代のスピリッツは、今もなお燃え盛っている感じですね!
油井 そうだね。躊躇とかよく知らないっていうか。計画したこともないんだから。結婚だってなんだって、無計画(笑)。野生というか、それが俺の感じた70年代のスピリッツかな。いつだって、バックには「グランドファンクレイルロード」とか「レッドツェッペリン」が流れていた。でも、その音は80年代に差し掛かると、まるでスイッチをオフしたように、世の中から消えてしまったんだ。だからあの頃に較べると、今の若い連中が体当たりしないことに、俺は心配している。特に男。まわりの顔色ばかりうかがって、一番最初に声をあげないじゃん。まだ女性のほうは勇気があるんだけどね。
それはちょっとわかります。
油井 でも俺、あんな時代がまた来ると思っているんだよ。むかし、科学者のアインシュタインも大の日本人びいきだったけど、そんな日本人を絶やさないためには、俺が体験した70年代の感覚が必要なんだ。希望って、今やってることが無駄にならないという安心感から来るわけで、そうすりゃ地に足だって着くでしょう? で、そのためには1972年オープンの「スポーツトレイン」が、きっとお役に立てると思うんだよな。ちょっと前までやめちゃうとか言ってたくせに、ね(笑)。
