2026.10.22.Thu
今日のおじさん語録
「歳をとればとるほど、動機こそが大切だという確信が深まる。/スティーブ・ジョブズ」
特集/ぼくのおじさん物語 『1976』 3

演出家・河毛俊作
「追憶の1976」
誰もが秘密を抱えて
生きることを許された
あの時代へ捧ぐ弔辞



文・河毛俊作

1952年に生まれた河毛俊作さんは、1976年を「ユースカルチャーのゴールデン・エイジ」だと語る。〝あの頃の東京〟を生きた若者たちは、どんな服を着て、どんなお店に集い、どんな空気を感じていたんだろう? そんな思い出を8枚の原稿用紙に綴ってもらった。「ぼくのおじさん」はwebマガジンだけど、人間の手から産み出されるものの力を信じている。

1976年の東京を生きた
24歳の青年の記憶

1976年4月、僕は、当時は市ヶ谷の河田町にあったフジテレビに入局した。24歳だった。それから50年という歳月が流れて僕は74歳になった。50年と言えば半世紀! 1976年の50年前は1926年で、年号で言うと大正15年で昭和元年、第二次世界大戦以前で、そこには全く違う世界が広がっていた。因みに、マリリン・モンロー、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンは1926年生まれだ。

1926年と1976年では政治も経済もカルチャーも全く違うが、1976年と2026年は、そこまで違わないような気がしてしまう(実際は世界地図的にも大きく変わっているのだが・・・・・・)。僕の世代は、音楽、ファッション、アートなど様々な分野でのユース・カルチャーの誕生と発展にほぼ完全にリンクしていて、そのベースは現在も大きく変わっていないからだと思う。僕はユース・カルチャーのゴールデン・エイジを生きた幸運な世代に属していたという訳だ。

それと同時に、1976年当時、池波正太郎(53歳)、山口瞳(50歳)、開高健(46歳)、伊丹十三(43歳)などが、それぞれの立場から、時には厳しく、時にはユーモアを交えて、若者に旧きよき時代の良きものを伝え、世界に目を向けさせ、男の礼儀作法を教え、趣味の良さとはどういうものかを懇切丁寧に説明し・・・・・・、要するに若い男が羅針盤とすべき先輩たちが脂が乗り切っていた時代だった。書物を読む気さえあれば、そういったメンターに事欠かないというのも幸せな時代だったと思う。少なくともネットのジャンクな情報に惑わされることはなかった。

1976年、東京はどんな街で、どんな風が吹いていたのだろう。

70年代安保闘争、連合赤軍事件などを経て、革命の夢は潰え、政治の季節の記憶もセピアからモノクロームに変わっていった。総理大臣は三木武夫から福田赳夫に変わる年だ。経済は石油ショックのマイナス成長から脱して安定成長の時代に入っていった。バブル経済は1986年からだから、ある意味、落ち着いた時代だったのかもしれない。

あの時代のユース・カルチャーを象徴する街は、渋谷・原宿・青山だったと思う。原宿には高校生だった頃からよく通っていた。今とは比べものにならないくらい落ち着いた良い街だった。

原宿駅竹下口を降りて渡ったところに「コンコルド」という店があって(当時深夜喫茶と呼ばれていた)、そこの地下が私学の不良高校生や大学生の溜まり場だった。ジューク・ボックスがあって、ボビー・ジェントリーの「ミシシッピ・デルタ」が好きでよく聴いていた。千疋屋の入っていたビルの地下には靴を脱いで絨毯にベタ座りするディスコ「アヴェイユ」があった。コープオリンピアにあったスーパーマーケットのダイナーのカウンターでスプレッド・バーガー(バンズが開いてあってパテが剥き出しになっていてナイフとフォークで食べる)とミルク・セーキという組み合わせは、お行儀の良いデートの定番だったっけ・・・・・・。落ち着いた住宅街の中にポツンポツンと個性的な店があるのが原宿だった。

1976年、原宿にビームスが誕生した。今でもメンズファッションのストイックな伝道師である栗野さんと初めて会った時の彼のスタイルを今でもはっきりと覚えている。襟の小さめな洗い晒しの白のボタンダウンシャツにシェットランドのグリーンのセーター、ライト・グレーのフランネルパンツにホワイト・バックスというものだった。自分は何を着ていたのかサッパリ覚えていないのに・・・・・・。

多分、当時の僕は、アイビーやトラッド系からは離れ、ヨーロッパ系の服に傾倒していた。僕がアイビーから離れたのは、アイビースタイルがコンサバティブな体育会系学生のユニフォーム的になってしまっていたのも理由のひとつだと思う。『ライ麦畑でつかまえて』の中でホールデン・コールフィールドがアイビーリーガーを〝みんな同じような格好をしている〟と腐す場面があるが、僕もそんな気分だったのだろう・・・・・・。

サンローラン・リヴ・ゴーシュに憧れ、飯倉片町の今は「メゾンランドゥメンヌ」になっている場所にあった「セルッティ」に入り浸っていた。あの時代、界隈でイケてた男たちは南青山のフロム・ファーストビルに「バルバス」が誕生するまで皆、セルッティのスーツを着ていた。「キャンティ」も近くにあったせいか、男たちはよくセルッティに集まって服を見ながら煙草を吸い、出されたコーヒーを飲み、無駄話しをした。時には店のスタッフも一緒に、六本木のディスコ「キャステル」に繰り出した。

「レノマ」の広告にも出ていたセルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンがアイドルだった。24歳だった僕はガキのくせにゲンスブールの醸し出す退廃的で憂鬱な色気に憧れていた。因みにだが、エルメスのバーキンというバッグが誕生したのは1984年だから、この時はジェーンはまだバスケットに色々詰め込んで持っていた筈だ。そしてジェーンは、1975年に僕が名盤だと思っているアルバム『ロリータ・ゴー・ホーム』を発表した。

その当時、僕が一番好きだったレストランは代官山の「ラ・アリタリア」という小さなイタリア料理店で、この店は向田邦子さんもお気に入りだったそうだ。僕はこの店で初めて前菜やデザートのワゴンサービスというものを知った。ムール貝のガーリックソテーと自家製のソーセージのグリルにトマトソースをかけ回したもの、ヨールグルトのムースにプラムのシロップ漬け・・・・・・。本当に何もかもが美味しくて、雰囲気は温かく、活気のあるお店だった。ここでも多くのお客さんは知り合いだった。イタリア料理のブームはバブル時代に全盛期を迎えることになる。その10年も昔の話だ。

こうして書き綴ってみると、やはり、そこには、今とは全く違う世界が広がっていた。僕は同じボタンダウンのシャツを着て、同じオールデンのコードバンのローファーを履いているのに・・・・・・。冷戦は続いていたけれど、それ故か民主主義の力は信じられており、資本主義も今のように凶暴ではなかった。テクノロジーは暴走することなく人間の為に働いていた。コールセンターの無機質なAI音声に苛つかされることもなかった。

新幹線のチケットは普通に窓口で買えたし、食堂車で富士山を眺めながらビールとハムサラダを楽しめた。ホテルのバーは良心的な値段で上等な酒やカクテルを楽しめる場所だった。専用のキッチンを持ち、美味しいサンドイッチが食べられた。季節になれば、丸々と太った脂の乗り切った秋刀魚に誰もが舌鼓を打った。魚の質に関して言えば、僕の行きつけの鮨屋の御主人は、昔の3等品が今の1等品だと嘆いている。富津の鳥貝は激減し、小柴の蝦蛄は幻となった。僕の個人的な意見では2026年の方が1976年より美味しいのはパンと洋菓子だけだ・・・・・・。

東京の街にはまだ幾ばくかの余白があり、都心にも長い商店街や、迷路のような路地がそこかしこにあって、時には迷子になることを楽しめた。男たちは誰でも、それが、バーであれ、小さな食堂であれ、スナックであれ、喫茶店であれ、自分の隠れ家を持つことができた。そこに行けば、店の人も客も、自分の名前を呼んでくれた。街にチェーン店など存在しなかった。ディスコで知り合った女の子の電話番号(もちろん家電)をコースターの裏に万年筆で書き留め、家に帰ってみたら、インクが滲んで読めなくなっていたのも懐かしい思い出だ。

何よりも、1976年の僕は、ロマンティックという言葉の葬儀に参列する日が来ることなどは予想していなかった。

スマホなど捨てて、人と人が向き合わなければ生きていけなかったあの日々に帰りたいとも思う。誰もが秘密を抱えて生きていくことが許されていた〝あの時代〟に・・・・・・。

もちろん、2026年の方が良い所もたくさんあるのかもしれないが、〝紙と鉛筆〟から全ての創作が始まった〝あの時代〟に。人間の力を信じることができた〝あの時代〟に。

河毛俊作

1952年東京都出身。慶應義塾大学を卒業後、1976年にフジテレビに入社し、30年以上にわたって人気ドラマ作品を多数演出。同局のドラマ黄金時代を築き上げた名演出家です。2025年からは、フリーランスの演出家として活動中。近作に『新宿野戦病院』(2024年)や『さよならノワール』(2026年)など。男のファッションに関する造詣の深さでも知られ、数多くの雑誌にエッセイを寄稿。

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