少年の心をもった
大人のために。
パリが認めた
ギャルソン山下哲也が
東京でつくる
「伝説のカフェ」って?
撮影・文/山下英介
パリを象徴する老舗カフェ「カフェ・ド・フロール」の名物ギャルソン、山下哲也さんが東京に帰ってきた! 20年以上にわたってパリに根を下ろし、いつしか〝パリを愛し、パリに愛された男〟とまで謳われた超一流のサービスマンは、どのようにして生まれたのか? そして彼は2026年の東京で、いったい何をやろうとしているのか? じっくりお話を聞かせてもらった。ああ、ギャルソンってなんて素敵でカッコいい仕事なんだ!
青山のシティボーイ
ギャルソンを目指す!

久しぶりの東京生活はいかがですか?
山下 いやあ、昨年の10月半ば、約25年ぶりに東京に帰ってきたんですが、ぼくも日本人なのに、日本語が頭に入ってこなくて大変ですね。今までは旅行者として日本に滞在していたので(笑)。実はこの3月9日「LA&LE(ラ・エ・ル)」というカフェを青山にオープンさせるんです。
それは楽しみですね。というかもうすぐじゃないですか!
山下 慣れない法律用語と悪戦苦闘して、知恵熱の毎日です(笑)。
山下さんはもともと青山学院出身とのことだから、やっぱり青山エリアに馴染みがあるということなんですかね?
山下 そうですね。この仕事を始めたのも表参道でしたから。
表参道・青山近辺が最も華やかだった時代というか。
山下 ぼくは2浪したので大学生活を過ごしたのはバブル崩壊後の1990年代半ばなんですが、生意気にもこのあたりでよく遊んでいましたね。調子こいて昼からワイン飲んじゃったり(笑)。あの時代の青山界隈には格好いいおじさんがたくさんいて、大学生のぼくは彼らの姿をいつも追いかけていました。
まさにシティボーイじゃないですか!
山下 実はぼくの家系はかなりお堅くて(笑)、父親とその兄弟は5人全員東大を出ているんですよ。高校生時代からそんな環境からドロップアウトしちゃったぼくにとっては、青山という街が第二の学校でしたね。
それは意外ですね。いわゆるカフェブームもその頃に勃発したんですかね?
山下 そうですね。ぼくはまさにカフェブームの申し子です。表参道エリアでいうと、パレフランスに「オーバカナル」があって、表参道交差点には株式会社ひらまつが運営していた「カフェ・デ・プレ」。そしてちょっと遅れて「アニヴェルセルカフェ」がオープンしました。あとは根津美術館の近くに今もある「フィガロ」。
そういえば、当時は表参道エリアにはフランス式のカフェがたくさんありましたよね! 同潤会アパートもあったし、日曜日は歩行者天国だったし、まるでフランスみたいなお洒落な通りでした。
山下 今はお店も少ないし、特に夜19時を過ぎるとお客さんもあんまり入ってないですよね。1990年代は夜9時10時まで、どのカフェも満席でした。どこかに食事に行く前の待ち合わせで使ったり、食事の帰りに寄って行ったり、今とはだいぶ風景が違いました。
やっぱり当時の大学生にとっては、表参道のお洒落なカフェで働くのが花形みたいな時代だったんですか?
山下 そうですね。パリッとしたギャルソンのスタイルで働くのがカッコいい時代でしたし、モデルさんもたくさんバイトしてました。ぼくが働くことになる「カフェ・ド・フロール」も、当時は表参道交差点の近くに支店を構えていて、ぼくはそこでアルバイトを始めたんです。



山下さんの本場仕込みのフレンチスタイルは、ファッション業界人からも注目の的。この日もインバーティアのヘリンボーンダッフルに、リーバイスのホワイトジーンズ、ジョンロブの「デラーノⅡ」、デンツのペッカリーグローブ・・・と隙がない! 実は山下さんのフレンチファッション好きは、大好きだったおばあちゃんからの影響が強いという。
なんと、当時の表参道には「カフェ・ド・フロール」の支店があったんですね!
山下 伊藤病院やApple Storeのすぐ近くですよ。ただ飲食をやったこともないような大阪の商社が運営していたから、パリとは内容は大違いでした。「カフェ・ド・フロール」の看板を掲げているからみんな期待して行くけれど、実際に働いているのはアルバイトばかりで、みんながっかりみたいな(笑)。
山下さんも当時はそのひとりだったと。
山下 そうですね。ただそんなときに、当時『NAVI』の編集長をされていた鈴木正文さんが、巻末のコラムでその界隈にあるカフェのことをボロクソにこき下ろしていたんですよ(笑)。あんなものはフランス文化の冒涜だ、みたいな。
実に鈴木さんらしいなあ(笑)。
山下 もともとぼくも鈴木さんを尊敬していたので、ぼくが今やってることって、そんなにカッコ悪いことなんだってショックを受けて。それでぼくはギャルソンという仕事に本気で向き合おうと思って、自分なりに勉強を始めるわけです。
鈴木正文さんのコラムが山下さんの人生を変えたんですね!
山下 そうですね。ただカッコ悪い話をすると、当時就職活動が煮詰まっていたという事情もあるんですけどね。そんなときに「カフェ・ド・フロール」が大阪や京都にお店を出すという計画が持ち上がって、ぼくは立ち上げスタッフとして京都で1ヶ月だけ働くことにしたんです。するとそこにはパリの本店から総支配人が来ていて、彼から「お前みたいなギャルソンが日本にいたのか」とお褒めの言葉をもらったんですよ。
アルバイト時代から山下さんの存在は光ってたんですね!
山下 まだ勉強し始めだから全然ダメだったんですが、彼らがなんでそう思ってくれたかというと、ぼくはずっとスポーツやってたからかなり運動神経がいいんですよ(笑)。
あ、運動神経ってカフェの仕事において大切なんですね。
山下 この仕事って反射神経とかスピード感が大切なので、運動神経がいいほうが圧倒的に仕事ができます。
それは知りませんでした!
山下哲也の
フランス人改造計画!

©︎Hiroki Tagma
山下 そんなこともあってパリから来たフランシスという総支配人と仲良くなって話しているうちに、この仕事っていいなあ、と思ったんです。フランシスはもう引退してしまったんですが、「カフェ・ド・フロールは俺の愛人だ」と公言し、38年にわたって勤め上げた、まさにMr.フロール、いやMr.サンジェルマン・デ・プレとでもいうべき存在でした。本当に人間臭くて素敵で、ようやく自分が〝こんなふうになりたい〟という対象が見つかったんですよね。
それでパリの「カフェ・ド・フロール」で働く決意が固まったわけですね。
山下 フランシスにその想いを伝えましたが、「カフェ・ド・フロール」のギャルソンはフランス人以外認められない、という答えが返ってきました。
1887年創業の老舗だし、フランスの象徴みたいなカフェでもあるから、25年以上前という時代を考えると、まあ仕方ないですよね。
山下 ぼくはそこで、フランス人になろうと思ったんですよ。
というと?
山下 米をいっさい食べない(笑)。食事はパンやパスタで、お酒はフランスのワインだけ。タバコは2年前にやめるまでジタン。これはゲンスブールにかぶれてた影響もありますが、20年前のフランスでも珍しかったみたいで、知らないおじさんからもよく話しかけられました。もうファッションはもちろん、体の中からフランス人になってやろうと思ったんですよ。あとジムにも通って肉体改造もしました。

ちょっと狂気を感じさせますね(笑)。でも1990年代後半の東京はフランスブームでもあったし、そんな人もいたのかなあ。
山下 1960〜70年代のフランス映画も流行っていたし、永瀧達治さんの本『フランス狂日記』とか、カヒミ・カリィさん、雑誌の『エスクアイア』や『BRUTUS』・・・。いろんなところでフランスの文化やライフスタイルを紹介していましたよね。ぼくも雑誌に連載をもっていた赤峰幸生さんの影響で、フランス映画はたくさん観ました。
そんな山下さんのフランス人化計画(笑)はうまくいったんですか?
山下 米を食わないのは自分でもよくわからないけれど、意味はあったと思いますよ。特に筋トレは大切だったかな。そんなふうにして東京で頑張っていたら、お店の中であまりにもぼくの存在感が大きくなりすぎて、給仕の仕事はもちろん、シフトも全部ぼくがつくり、アルバイトの採用もやるようになって、しまいにはお給料をパリのお店と同じ歩合制にしてもらえたんです。
仕事ができすぎちゃったと(笑)。
山下 しかも東京なのに、月に3万円くらいチップまでもらえるようになったんです(笑)。お客様からは、「きみは本当のギャルソンだね」なんてお言葉ももらえるようになりました。
フランス語には
不可能の文字はない!

日本にいながら、すでにフランスのギャルソンになっちゃったんですね! でも、山下さんは一度東京の「カフェ・ド・フロール」を辞めちゃうんですよね?
山下 いや、辞めたわけじゃなくて2001年に日本を撤退しちゃったんですよ。今後どうしようか悩んだんですが、一番わかりやすい道は原宿の「オーバカナル」に行くことで、向こうもそう思っていたみたいですけど、それじゃちょっと面白くないかなと。それで仲間たちと小さなカフェを始めたのですが、オーナーとトラブルが起きてすぐに頓挫してしまった。それで「いちかばちかパリに行くしかない」と思って、2002年に渡仏したんです。
でも、「カフェ・ド・フロール」は日本人NGなんですよね?
山下 フランスは移民国家だから、アフリカ系とかアラブ系とか肌の色が違うフランス人はたくさんいますよね。それでも「カフェ・ド・フロール」はパリの象徴としてのイメージを守るべく、白人のフランス人しか店に立たせないというルールとブランディングを頑なに守っていたんです。ですから最初フランシスに手紙を送ったら、やっぱり不可能だと断られたんですが、それでも食い下がっていたら、余裕があるのならまずは学生ビザを取得して1年くらい来てみれば?なんて返事が返ってきました。それでぼくはその言葉に飛びついて、なんの保証もないのに渡仏しちゃったんです。29歳のことでした。
働けるとも言われていないのに! フランスではどんな生活を送っていたんですか?
山下 昼は「アリアンス・フランセーズ」(フランス政府公認のフランス語&フランス文化学校)に通っていましたが、夜はフランシスをはじめとする「カフェ・ド・フロール」メンバーの飲み会にジョインして、毎晩のように遊んでました。そんな日々のなか、ぼくはナポレオンの名言「吾輩の辞書に不可能という言葉はない」の原文を知ったわけですよ。実はあの言葉は〝Impossible n’est pas français〟といって、直訳すると「不可能という文字はフランス語にはない」となるんです。そこである晩フランシスに「テツヤ、それは不可能だ」と言われたとき、「でもフランス語には不可能という言葉はないんでしょ?」と聞き返しました。その瞬間、フランシスがぼくのことを見る目が変わったんですよ。こいつ、フランスの文化や歴史を踏まえたエッセンスを理解してるって。それでバカンスで人がいなくなる7〜8月だけの契約で、お店に立たせてもらうことになったんです。
エスプリが窮地を救うなんて、なんてフランスっぽい話なんだ!
山下 そんな経緯をお手紙で鈴木正文さんにお知らせしたところ、鈴木さんはすぐに雑誌『ENGIN』で取材してくれました。ありがたいですよね。
鈴木さん、律儀な方ですよね!
山下 その『ENGIN』が日本で発売されたのは、パリのファッションウィークが始まる9月のことでした。当然すでにぼくはいなかったんですが、その号を読んだお客さんがたくさん来てくれて、「山下はいないのか?」と言ってくれたんです。そこでフランシスやオーナー夫妻も、「テツヤをこのまま置いておく方法はないものか?」と真剣に考えてくれるようになり、高齢になったジョルジュというギャルソンの控えとして、週に2日働けるようになりました。当時のパリの名門カフェって、突発的に空きが出たときのために、常に2〜3人は控えを用意していたんですよね。
フランス社会ってルールでガチガチかと思いきや、意外と柔軟なところもあったんですね。
山下 そうなんですよ。週2回といっても結局はシフトの穴を埋めるために、頻繁に呼び出されるようになりましたし。でもそうなると困るのは語学学校で、あまり欠席が多くなるとビザの更新もできませんよね? でも学校の先生たちもぼくがパリに来た事情を知っているから、欠席してても出席扱いにしてくれたんです。
そんな粋な計らいまで!
山下 フランス文化の象徴でもあるカフェのギャルソンになるために、日本人がパリまでやってくるなんて、フランス人的にはちょっと愛国心をくすぐられますよね? さすがはフランス語とフランス文化で世界征服をもくろんだフランス共和国がつくった「アリアンス・フランセーズ」というか(笑)。そんな理由もあって、ぼくはみんなに応援してもらいました。
でも、そこまでして「カフェ・ド・フロール」にこだわった理由ってなんなんですか? 老舗カフェならほかにもあるじゃないですか。
山下 それはもう、「カフェ・ド・フロール」がフランスのカフェにおけるトップ中のトップであり、ギャルソンとして生きているほとんどの人間にとっての最終的な目標だったからですね。今はもう違いますが、昔の「カフェ・ド・フロール」には20人の枠でシフトが組まれていて、誰も辞めない。誰かが引退でもしない限り空きは生まれないんです。なのでぼくも最終的にジョルジュが引退するときに、フランシスとオーナー夫妻に選んでもらって、そこで初めて就労ビザを取れたというわけです。正式採用されたのが2005年の4月1日。ぼくはヴァンドーム広場にあるシャルべのお店に行って、白いシャツを一度に5枚つくりました。

まるで昔の巨人軍みたいに、権威のあるカフェだったんですね。そして山下さんは運も引き寄せたと。でも最初は差別もあったのでは?
山下 白人じゃないギャルソンが「カフェ・ド・フロール」のフロアに立ってる光景なんて今までなかったから、ぼくに集まる視線の強さは本当にすごかったですね。でもぼくが恵まれた日本からやってきてこの仕事に真剣に向き合っている姿を見れば、フランス人としても嬉しくないはずはないんですよ。
ちょっとプライドをくすぐられる存在でもあったというか。
山下 そうですね。もしかしたら多少の差別的な視線もあったかもしれないけれど、オーナー夫妻やフランシスが常連さんにひと声添えてくれたこともあって、すぐに受け入れてもらえたと思います。とても嬉しかったですね。
パリのギャルソンの
働き方って?

©︎Ryusuke Hayashi
フランスにおけるカフェのギャルソンって、いったいどういうシステムで働いているんですか?
山下 基本的にはそれぞれが担当するテーブルが決まっていて、ひとりのギャルソンが担当したお客様を最後まで見る。ほかのお客様にはタッチしません。そして税抜価格の約12%が給料として入ってきて、そのほかにチップも得られます。日本のカフェとは全く違うシステムですが、ぼくはこのほうがいいサービスができると思っているので、好きですね。本当は新しくつくるお店もそういうふうにしたいんですけど、まあ最初は無理かなあ。
そうすると、よさげな席はギャルソンの間で取り合いになるんですか?
山下 ぼくが始めた頃は、不公平感がでないようにシステマチックなローテーション制でした。日曜日はテラス席で、火曜日は奥の席、みたいな。季節によっても人気の席は変わってきますから、そうやって長期的にバランスを取れればいいというのが、ギャルソンたちのメンタリティーなんですよ。そして新しく入ってきたギャルソンは、引退したギャルソンの持ち場をそのまま引き継ぐことになります。ただ、ギャルソン同士と支配人の同意があれば、持ち場の交換はできるんですけど。
それは面白いですね。
山下 ただ、10年くらい前から、「カフェ・ド・フロール」はマネージャーが当日に持ち場を決めるシステムに変更しました。でもそうなると、マネージャーだって人間ですから、好き嫌いで決めるようになっちゃいますよね。

ひとつ接待でもしておくか、みたいなメンタリティーになっちゃいますよね(笑)。
山下 加えてコロナ禍のときに生まれた「レセプショニスト」という仕事も、不平等感を高めています。お客様を空いている席へご案内する係なんですが、それってフラッと自由に入れるパリのカフェのよさを損なっていると思うし、ギャルソンの間でもお客様の取り合いが生まれてしまうんですよね。
お店の人が座る席を決めるとなると、そうなりますよね。
山下 もちろん昔のパリのギャルソンの間でもお客様の取り合いはあったんですが、立ち位置や身のこなしによってお客様の進路をさりげなくコントロールするという(笑)、とても洗練されたものだったんですよ。ぼくたちパリのギャルソンは、自分の売上を伸ばすために、どんなに暇なときでも常に最高のポジションを探して動いている。そんな、ある意味ゲーム感覚でもあるこの仕事を、ぼくは心から楽しんでいました。

とってもフランスっぽい仕事なんですね! 日本のカフェ文化とは全く違うなあ。
山下 「ギャルソン」って直訳すると「少年」ですよね。だから少年のメンタリティがないと、この仕事はできません。それがぼくの結論。
「いいギャルソン」の定義ってあるんですか?
山下 明確な評価基準はありませんね。お客様の立場によっても、好きなギャルソン像って変わってきますから。
山下さんがパリで目標としたギャルソンはいたんですか?
山下 それはミッシェルですね。もう辞めてしまったのですが京都店にも来ていたベテランのギャルソンで、ときとしてちょっとやりすぎなくらい(笑)、いいお客様を自分のテーブルに座らせるテクニックが抜群だったんですよ。彼はもともと捨て子で愛情に飢えていたからか、本当に人懐っこくて愛されるキャラクターでした。当然ぼくにはそのキャラクターはないから、マネすることはできません。ギャルソンって本当に人ぞれぞれのやり方があって、カップの出し方ひとつとってもクセがあるんです。ぼくはお店でさまざまなギャルソンの仕事を見て、いいと思うものを少しずつ盗みながら、今の自分をつくりあげていったんです。
マニュアルがない仕事なんですね。
山下 ただ、その個性よりも優先されるのが「カフェ・ド・フロール」のギャルソンであるという誇りですよね。ぼくたちは自分たちのサービスに名門「カフェ・ド・フロール」というメゾンのエスプリを載せて提供しないといけない。だからぼくたちは常に「カフェ・ド・フロール」のギャルソンを演じていたんですよ。
それは舞台衣装としての身なりも含めて。
山下 そうですね。「カフェ・ド・フロール」は型こそ決まっているんですが、制服はなく、自分で調達するものでした。明文化されてはいないもののシャツの襟はレギュラーカラーがルールで、イタリアっぽいワイドカラーはNG。そのほかにもタブリエ(エプロン)は足首にかかるまで下げるのがエレガントとか、いろんな不文律がありましたね。実はあるときから、ぼくの装いがお店のスタンダードだったんです。フランシスはいつも新しいギャルソンに「テツヤを見習え」と言ってくれたんですが、彼が引退して以降、そういうことを言える人はいなくなりました・・・。


山下さんはファッションもお好きですもんね。
山下 ぼくの場合、ちょっとマニアックすぎますけどね(笑)。靴はジェイエムウエストンのストレートチップと決めていて、革底の滑りを利用しながら給仕するのがぼくのやり方でした。25年も履き続けているから、お店の人もすごくよくしてくれてね。昔はギャルソンの間でもジェイエムウエストンは人気でしたが、今はスニーカーっぽい靴を履く人のほうが多いかなあ。
「カフェ・ド・フロール」のように歴史あるカフェでも、時代とともにギャルソン像は変わってきているわけですね。
山下 身なりだけの話ではなく、正直言って最近のフランス人のギャルソンはちょっと情けないなとも思っています。ぼくら世代のギャルソンまではトリコロールの国旗を背負って立つという気概を持っていましたが、今の20代の子たちには、そんな思いは通用しませんから。そんなこともあって、最近ではフランスでの仕事が、だんだんつまらなくなってきていたんですよね。
パリのスタイルに
日本人の美意識を添えて

コロナ禍の影響もあって、ヨーロッパの文化そのものが変質してきている部分もありますもんね。じゃあ、それで帰国を決断されたということなんですか?
山下 そうですね。フランスのカフェとビストロって、今やフランスの無形文化遺産に登録されているんですよ。でもそれってつまり、絶滅の危機に瀕しているから守らなきゃという意味でもあるんです。だからぼくは、もはやパリにも存在しない本物のカフェを東京でやってみたい。それができたら、ぼくを今まで育ててくれたフランスに対する、最高の恩返しになるんじゃないかなって。

じゃあ、「カフェ・ド・フロール」のようなパリのカフェを再現されるんですか?
山下 いや、ぼくは天邪鬼なので、ただのマネをするつもりはありません。これが30年前の東京だったら、まだ意味もあると思うんですが。だって、ぼくが25年近くパリのカフェに立ち続けることで得たものや気づいたことって、最終的には日本人の美意識やセンスだったんですよ。
フランス的であることを誰よりも突き詰めた結果、その境地に辿り着かれたと・・・。確かにファッションにおいても、ヨーロッパやアメリカへの幻想を膨らませて、独自に再解釈するテクニックに関しては、日本人は長けていると思います。
山下 そうなんですよ。鴨志田康人さんや赤峰幸生さんのスタイルなんて、今や世界にも影響を与えているじゃないですか。フランスのファッション誌「L’ETIQUETTE」だって、日本の雑誌をものすごく研究していますよ。フレンチアイビーなんて、現地では誰も知りませんから(笑)。
単純な〝和〟テイストのアピールというよりも、日本人がアレンジした〝洋〟のテイストが、海外でも注目される時代ですよね。じゃあ、山下さんが新しくオープンさせる「LA&LE(ラ・エ・ル)」は、どんなお店になるんですか?
山下 最近の日本人が考えるカフェって、「スターバックス」的なものか、今っぽいコーヒーショップみたいなものですよね? ぼくが目指すのはそういうお店とはちょっと違って、もっとパブリックな社交場かな。それこそ1960〜70年代の「キャンティ」みたいなお店が理想です。〝大人の心を持った子どもたちと、子どもの心を持った大人のための店〟・・・。
なるほど、「キャンティ」ですか! そんなお店が今の東京にあったら嬉しいなあ。
山下 ぼくは「キャンティ」世代ではありませんが、そういう伝説として語り継がれるカフェを、改めて現代の東京につくりたい。もちろんぼくの力だけでは不可能ですよ。お店って、そこで働くスタッフと、お客様によってつくれられるものですから・・・。というわけで、只今絶賛スタッフ募集中です。ぜひ応募してください(笑)!
私も楽しみにしています!

- LA&LE
山下さんがパリで学んだすべてを注ぎ込んだカフェが、3月9日にオープン。ついにその全貌を露わにする。ぜひ行ってみよう!
住所/東京都港区南青山3-8-35 表参道 Grid Tower 1F