2024.10.4.Fri
今日のおじさん語録
「雑草という植物はない。/昭和天皇」
味のマエストロ
連載/味のマエストロ

小津安二郎に憧れる
大阪人・小西さんと
はち巻岡田の
『東京〝味〟物語』

撮影/山下英介

世の中にある美味しいものや、その周辺に存在する文化やマナーを〝ぼくのおじさん〟たちから学ぶこの連載。久しぶりの更新となる第3回は、今や東京でも・・・ということはつまり、日本でも数少なくなった江戸料理屋「はち巻岡田」を訪ねることにした。江戸の味とは、東京の味とはなんだろう? そして、その延長線上にある「スタイル」とは? 創業100年を超える老舗の美意識に、弱冠30歳、しかも大阪出身の小西さんが挑む。

東京の美意識ってなんだろう?

 以前「ぼくのおじさん」で紹介した仕立て屋、テーラーケイドを覚えているかな? ファッションのみならず、映画や音楽、そして食の分野に至るまで、クラシックの作法を知り尽くした店主の山本祐平さんのもとには、たくさんの若いお客さんが集まるのだけれど、つい最近筆者が出会った会社員の小西智也さんも、またユニークな方だった。クラシック好きといってもその志向はイタリアでもイギリスでもなく、昭和のニッポン。小津安二郎をはじめとする往年の邦画を愛好し、まるで小津映画に出てきそうなスーツやシャツを、テーラーケイドで仕立てているという。といってもまだ30歳だから、その雰囲気は小津というよりむしろ佐田啓二(中井貴一のお父さん)だ。ヘアスタイルもビシッとしていて、とても清潔感があって格好いい。

小西さんが行きつけにする、テーラーケイドにて。幼少期から時代劇好きで、その後映画や海外文学に親しんできた彼が小津作品に開眼するきっかけは、なんと筆者が以前手がけていたファッション雑誌の小津特集だったという!

 彼のフェイバリットは『秋刀魚の味』や『彼岸花』。大阪で生まれ育ち、2年前に転勤で東京に暮らすようになった彼にとって、小津映画は物語もさることながら、そこで描かれる装いや生活のディテールに関しても、惹かれてやまない世界。同時に日本人ならではの清潔感や清潔さをたたえた小津さんのスタイルそのものにも憧れるという。しかし残念ながら、転勤した途端にコロナ禍がはじまり、なかなか憧れの東京生活を満喫できていないとのこと。それは実にもったいない!

「はち巻岡田」があるのは、松屋銀座の裏手あたり。1968年に建てられたお店のまわりには、不思議と静謐な空気が漂っている。

 そこで山本さんと「ぼくのおじさん」は一計を案じた。銀座にある「はち巻岡田」に、小西さんをお連れしよう!と。こちらは1916年(大正5年)に創業し、あの小津さんはもちろん、吉田健一や山口瞳といった文化人にこよなく愛された老舗割烹である。〝江戸の味〟とか〝東京の味〟とかよく言うけれど、実際のところ、どんなものなのか知っている方は少ないのでは? その点こちらは、東京でもほぼ皆無となった、江戸料理本来の味付けを守り続けているお店だと各界の文化人が太鼓判を押すお店。埼玉県で生まれ、20年ほど都心に住んでいる筆者は尊敬する先輩のご紹介で二度ほど伺ったことがあるのだが、今まで食べたことのある料理屋とは全く方向性の違う、甘辛い味付けに驚かされた。つまり現代の東京で暮らすぼくたちが慣れ親しんでいる味ですら、ものすごく関西の影響を受けていたのだ!

 要するに「はち巻岡田」を知ることは、江戸時代の延長線上にある、純度の高い東京スタイルを知ること。それは映像やスーツスタイルも含めた、小津さんの美学の手がかりを知ることにつながるのでは? そんな目的をもって、ぼくたちは銀座に向かい、ちょっと緊張しながらもその暖簾をくぐった。快く迎えてくれたのは、三代目店主の岡田幸造さんだ。

男は黙ってサッポロビール

三代目店主の岡田幸造さんは、二代目の千代造さんと同じ慶應大学出身。将来は漠然と、先生を目指していたこともあったという。

 猛暑日だというのに、歴史ある料理屋へのリスペクトを込めて、ベージュとグレーのリネンスーツを着て現れたふたり。趣深くも清々しく磨き上げられた檜のカウンターに、とてもよく映える。サッポロの黒ラベルを注ぎ合い乾杯する姿が、なんだかとても格好いい。

リネンスーツと白シャツというコーディネートが、なんとも涼しげで気持ちいいふたり。ピタピタのスーツや最近流行りの化繊のセットアップとかだと、こういう風情は漂わないんだな。

山本 小西さん、お酒は飲めるの?

小西 あまり強くはありませんが、多少は。社会人になってから東北地方に転勤があったので、そこではよく日本酒を飲んでいました。

山本 これから強くなりますよ。まあなる必要もないんですが(笑)。私はグルメというより、食いしん坊なんです。何ヶ月も前から予約を取らないと入れないようなお店じゃなくて、散歩がてら街に根付いたお店に行って酔っ払うのが好き。で、飲み足りなかったらバーに行くんです。そして大切なのは、そういう場所に身だしなみを整えて行くこと。それを繰り返すことによって、料理とお酒の味が自然と染みつくし、お店と自分との関係も仕上がっていくんですよ。

小西 飲み方には生き方があらわれますね。

走りの食材を好まない通なお客さんも多いこのお店では、お刺身はもちろん旬の魚だけ。この日はイサキと白イカ、タイをいただいた。親戚の仲買から仕入れているとのこと。

東京の味は職人好み

岡田 続いては岡田茶わんをどうぞ。

初代がすっぽん鍋からヒントを受けてつくったという、100年もののメニュー。アクをていねいにすくいながら、鶏のもも肉からだしをとっていく。塩味をベースに生姜やネギを効かせたシンプルなものだが、口当たりがとてもまろやかなのは、菊正宗のお酒を使っているから。ご飯にかけて〆にする常連も多いとか。
代々お店に伝わる器のセンスも、抜群に洒落ている! 着物の柄に通じる美意識がありそうだけれど、それは改めて研究が必要だ。
これは「はち巻岡田」の看板料理といわれる鶏のスープですね。

山本 小西さんは関西人だから、やっぱりおだしの味が染み込んでいるんですか? 

小西 そうですね。うどんはやっぱり関西のほうが好きです。こっちのは辛いですから(笑)。しかしこれはびっくりしました。美味しいです。

山本 これは美味しいわ・・・。とても贅沢な味だけれど、あくまで日常的というのがいいですね。料理の世界にも通じる話かもしれませんが、スーツも時計も、いいものを大切にしながら普段使いしていると、いつしかモノが、偉人たちの遺品のようなオーラを放ち、こちらに語りかけてくるようになります。いいモノと時間をかけて付き合うことで、自分の人生の一部になるんですよね。それはなんでも使い捨てする今の時代と逆行しているかもしれませんが、案外とエコなのかもしれませんよ。

浅草生まれの劇作家、久保田万太郎がこよなく愛した卵焼き。濃口醤油をしっかり効かせた甘辛風味が、なんともたまらない。
卵焼きが出てきました。これは川口松太郎や久保田万太郎といった文化人たちがこよなく愛した名品ですよ。ぼくが初めて食べたときは、最近では珍しいほどの甘辛な味に驚きました。さあ、大阪生まれの小西さんはどうでしょう?

小西 これはめちゃくちゃ美味しいです! 甘みがすごい。カルチャーショックな味ですね。

岡田 甘いでしょ? うちのは砂糖と醤油とみりんで強く味付けしていますから、関西のだし巻とはちょっと違うので。

小西 関西の料理と較べると、コントラストが効いた味という感じがしますね。

岡田 そして粟麩田楽。こちらは粟麩を揚げたものに、味噌だれをつけて召し上がっていただきます。

淡白な粟麩と、こってりした赤味噌のコントラストがクセになる定番料理。これがビールによく合うんだ!
江戸の庶民の味ですね。

山本 美味しいな。これはきっと女性にも好まれそうですね。初代の頃からあるんですか?

岡田 粟麩田楽はうちの父親かもしれません。さっきの岡田茶わんは初代からの味ですが。

山本 江戸前って面白いですよね。岡田茶わんのような味もあれば、焦げ茶になった甘辛の天丼とか、並木の藪そばが出すような醤油そのもののように辛い蕎麦つゆまである。

岡田 江戸はもともと男の料理だったんですよね。都市を建設した職人たちが肉体労働のあとに食べる料理だったので、強い味付けが好まれたようです。

初代店主の岡田庄次さんは、1890年本所深川生まれ。結婚後独学で料理を学び、1916年に銀座5丁目で「はち巻岡田」を開店したという。関東大震災と第二次世界大戦という二度の災禍を経験した頑固一徹の職人は、1948年に58歳の若さで逝去。慶應大学に通っていた二代目の千代造さんが跡を継ぐことになる。
職人の文化から生まれた味ということですね。初代も深川生まれの職人さんだったといいますし、この味が好きだったんだろうな。それに対して商人文化の関西では、繊細なおだしの味が発展したと。

山本 なるほど。それが研磨されて、街の味になって続いてきたんでしょうね。しかしこういうお店におじさんが若い人を連れて行って、その文化を継承していけばよいのでしょうが、なかなか今は難しいんでしょうね。私が行きつけにしている新橋の小料理屋の女将曰く、突然その伝統がなくなったと。

岡田 うちにいらっしゃるお客さまも、若くて50代です。30代はたまーに(笑)。

山本 きっと憧れてはいると思うんですよね。そういう意味では、小西さんみたいな若者はこれからのお客さんだと思いますよ。今はなんでも簡単に済ませちゃうけれど、こうやって礼を尽くしてスーツを着て岡田さんに来るっていうのがいいですよ。すみません、お燗をつけてもらえますか? ぼくは熱燗、小西さんはぬる燗で。

やっぱり俺は菊正宗

山本 岡田さんも菊正宗ですか。ぼくが好きな昔ながらのお店は、天ぷら屋でも寿司屋でも、菊正宗なんです。磨いたものとかじゃなくて。酒飲みは本当に好きですよね。

岡田 うちはお酒は菊正宗だけなんです。しかも樽だけ。

小西 お酒としての主張をしつつも、角がなくてとても美味です。しかしお客さんからほかのお酒を置いてほしい、というリクエストはないんですか?

岡田 たまにどうしても無理なので、別のお酒を持ち込んでいいか聞かれますね(笑)。でも昔からそうだったんで、守っていかないといけないかな、と。

小西 ひとつを極めて、削ぎ落とし、研ぎ澄ます。この感覚は小津映画に通じますね。

山本 しかし神田のまつやもそうですが、菊正宗の樽って、味が全然違うのはなんででしょうね?

岡田 ワインのように熟成が進んでいるんです。特に夏は熟成するのが早い。最初に飲むのと、下の方に残っているのとでは別物なんですよね。だから下のほう取っといて、なんてご年配のお客さまもいますよ(笑)。

1659年に神戸の灘で創業した菊正宗。18世紀、江戸っ子の間では「下り酒」(上方で生産されたお酒)がもてはやされ、なかでもこちらは最高級のお酒として人気を博したという。
それは粋だなあ(笑)。

山本 今の若い人はそのあたりの機微を追求しないですよね。

小西 こういう時間をゆっくり楽しむっていうことが、しにくくなりましたよね。ぼくたちは連れて行っていただかないと、わからないですし。

ほかに行ってみたいお店なんて、あるんですか?

小西 はい。今度はどじょうを食べてみたいんですよね。池波正太郎の小説によく出てくるのですが、関西にはお店がないんですよね。

関西人にどじょう、食べさせたいなあ(笑)。

山本 どじょうはこの間、尊敬する先輩に連れられて吾妻橋にあるお店に行きました。

有名な演出家さんですね。とても格好いい方で、実は「はち巻岡田」も、その先輩に教えてもらったんです。

山本 あの方もスタンダードなものが好きで、いわゆるグルメは嫌いなんですよね。あんなにいっぱい飲む方はぼくも知りませんよ(笑)。しかも飲み方がきれい。

小西 むかしの小津映画も、食べ方や飲み方がきれいですよね。

山本 おちょこを口に持って行くシーンまで、絵になりますよね。小津映画は着物の柄から映画に出てくる小道具ひとつまで本人の趣味だから、当然お酒の飲み方も、小津監督のスタイルそのものなんです。スーツだってそうで、小津のスーツって、もはや着物なんですよ。あの凛とした折り目正しいスタイルは、日本人ならではのものですよね。

まさに今日小西さんが着ているスーツが、そのイメージですよね。

山本 そう。彼に仕立てたスーツは、小津映画をイメージしたものですが、まさに着物の延長線上です。洋間よりむしろ畳が似合う。そして靴を脱いで座敷にあがっても格好いい。珍しいと思いますよ。

無駄を削ぎ落とした趣味のいい生地や、洋服とからだの間にあるゆとりが、着物を彷彿させるのでしょうか。たしかに、今日のおふたりの佇まいは、このお店に抜群に映えて、小津映画を彷彿させました!

「はち巻岡田」は
お客様に育てられた店

小西 岡田さんは、どうして「はち巻」という店名なんですか?

岡田 初代が髪の毛が落ちないようにはち巻を巻いていたら、そのうちお客さまから「はち巻のおやじさん」と言われるようになったんです。それがいつの間にか、店名にまでなってしまったという。

初代の岡田庄次さんは、第一次世界大戦の日独戦争に出征して、勲章を授与された方。頑固一徹で無口、だらしない酔っ払いを嫌ったそうだ。彼と女将のコウさんが関東大震災にも負けず商売を再開したときの逸話は、のちに小説にもなった(水上滝太郎の『銀座復興』)。
このお店を1916年に創業した岡田庄次さん・・・つまり三代目のおじいさんは、もともと深川の船大工だったとか。どういった方だったんですか?

岡田 祖父は1948年に亡くなったので、ぼくは会えなかったんですよ。ただ祖母(岡田コウさん)にはすごくかわいがってもらいました。言葉遣いも「いらっしゃいまし」みたいな調子で、まさに江戸っ子でしたね。祖父は無口で何も喋らない、とても偉そうな人だったようですが(笑)、祖母は常連さんにかわいがられて、作家の吉田健一さんと菊正宗の樽元まで行ったり、たくさんの交流をもっていたようです。

1968年の移転から、ほとんど変わらないお店の風景。かつては青々としていた竹貼りの壁は、年月を経て実に味わい深い質感に育っている。
創業時から、今と同じような味だったんですか?

岡田 もともと料理人ではなかったので、自分が親しんできた味だったんでしょうね。

味付けを変えないというのは、家訓だったんですか?

岡田 そんなに偉そうなお店じゃありませんから(笑)。うちの父の千代造は、祖父が体調を悪くしたので、店を継がざるを得なかったんです。そしてぼくも大学四年生のときに、サラリーマンには向いていないし、せっかくお店があるんだから継がないと、といったくらいの気持ちで跡を継ぎました。ふたりとも初代と違って不器用だったし、子供の頃から技術を叩き込まれたわけでもない。自分たちなりに一生懸命やるしかなかったんです。

ご謙遜を。でも味が受け継がれているんだからすごいことですよ。

岡田 結局、応援してくださるお客さまに育てられたんですよね。ぼくなんて包丁も握ったことがありませんでしたし。なので父に勧められて新橋の料亭に修行に出たのですが、最初は魚もおろせませんでした。ただ、まっさらな状態だったのが、逆によかったのかもしれませんね。

それで昭和61年、1986年からお店に立ち始めたと。

岡田 そうですね。レシピなんてものはありませんから、父の仕事を見ながら徐々に覚えて行って、いないときにちょっと試したりして。お客さまに味はあまり変わっていないと言われたので、引き継ぎはうまく行ったかもしれません。

吉田健一さんや山口瞳さんといった、このお店をこよなく愛した文化人の方々とは、お会いになったことがあるんですか?

岡田 山口瞳先生はよく奥様といらっしゃっていましたね。ただ父はとても無口でしたし、山口先生を尊敬するがゆえに、決してなれなれしくすることはなく、あえて一線を画してお付き合いしていたようです。吉田健一先生にはお会いしたことはありませんが、よく木曜日にみえていたと聞きました。ケケケという特徴的な笑い声がすると、近所の方は「ああ、今日は木曜日か」と思ったらしいです(笑)。

それは興味深い。お客さんとの関係性も粋ですよね。有名人だからといって決してベタベタしないというか。
川口松太郎、山口瞳、久保田万太郎・・・。昭和30年代〜40年代にかけて、数多くの文化人が集ったお店からは、今もなおその名残を感じとれる。意外だが食いしん坊作家として名高い池波正太郎は縄張りが違ったのか、このお店には寄り付かなかったらしい。

小西 小津さんも来られていたんですよね?

岡田 と、思うんですが、なにか言い伝えが残っているわけでもないので。山口先生のご子息である作家の山口正介さんが、ここは小津安二郎の映画に出てくるようなお店だと仰ってくれましたが。

三代目になってから変えたことはありますか?

岡田 あんこう鍋が終わった後に、東京しゃもを使った軍鶏鍋を始めたくらいでしょうか。なるべく初代の味を壊さないようにしています。今まで多少の誘惑はなくはなかったのですが、うちにはうちの味が好きなお客さまがいらっしゃるからいいかな、と。まあ、たいしたことはしていません(笑)。ただ、コロナのときはテイクアウトをやったり、たまに落語のイベントやお茶会を開いたりと、環境や状況に合わせた工夫は多少しています。

聞いたところによると、「はち巻岡田」が創業した100年前から、すでに東京の料理屋では関西の味が席巻していたとか。今や本来の江戸料理を出すお店は日本でも数軒と聞きますし、本当に貴重なお店ですよ! 

岡田 仕事はたぶんぼく、向いていないんです(笑)。でもやりがいはすごくある。だってだれかにご馳走様と言われてお金までもらえるなんて、ありがたいじゃないですか。

山本 いや、今日はご馳走様でした。昔はテーラーにも、おじさんが若い人を連れて行って、こいつの洋服をよろしく頼むよ、なんて文化があったものです。ただそういった伝統も、今や忘却の彼方。だからこそ小西さんのような存在は貴重ですよね。次は特別な日に、誰かを連れて行ってね。

小西 多くの文化人たちがくぐったこの暖簾をぼくがくぐれるなんて、とても感慨深い一日でした。ぼくも自分より若い世代にこういうカルチャーを継承していきたいと思います!

はち巻岡田

今日つくっていただいた料理のほかにも、揚げしんじょや焼き魚、あんこう鍋など、季節ごとにたくさんの名物を用意している「はち巻岡田」。老舗といっても決して敷居の高いお店ではないので、くつろいですごせるはず。予算はだいたいひとり1万〜1万5000円といったところか。完全予約制ではないが、予約してからお邪魔するのがマナー。

住所/東京都中央区銀座3-7-21

電話/03-3561-0357

営業時間/17時〜21時すぎ

定休日/日曜・祝日

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