2022.10.4.Tue
今日のおじさん語録
「役者というのは、行をする者、自分というものをよく考え、見極める者のことやと思う。(藤山寛美)」
特集/ぼくのおじさん物語 『月光荘おじさん』 5

月光荘三代目・日比康造
「ぼくのおじいさんは
月光荘おじさん!」

談・日比康造

月光荘で三代目の店主を務める日比康造さんは、月光荘おじさんの孫にあたり、一緒に住んだこともある人物。彼が知る月光荘おじさんの実像と、その偉大なる看板を受け継ぐ上での思い、そしてこれからの月光荘について語ってもらった。それにしてもさすがは月光荘おじさんの孫。相当にユニークな方だった!

ひとつ屋根の下で見た
おじいさんの姿

月光荘三代目店主の日比康造さん。ミュージシャンとしての活動でも知られる、パワフルな人物だ。
日比さんは、月光荘おじさんこと橋本兵蔵さんと、6歳のときに1年間一緒に住まれているんですよね?

日比 そうですね。もともと家族とN.Y.で暮らしていたんですが、事情があって1年間ほど二子玉川の家で、ぼくとじいさんばあさんの3人で生活していました。

記憶としてはさすがに遠くなっていますか?

日比 いや、それが鮮明に覚えているんですよ。当時じいさんはすでに80代後半でしたが、ものすごく元気で、毎日銀座のお店に通っていました。

月光荘おじさんが生まれたのは明治27年、1894年というと日露戦争の前か(笑)。どんなおじいさんだったんですか? 

日比 ああせい、こうせい、みたいなことは一切言わず、ひたすら生きる姿勢を背中で見せる、という感じの人でしたね。説教めいたことは一切言われたことがありません。誰だって90年近く生きていればいろいろな体験をするわけですが、彼はあまりにもたくさんのものを背負って生きてきました。手塩にかけてつくった素敵なお店が、空襲によって一瞬で焼けてしまったり、彼は自身が積み上げてきたものが目の前で瓦解する体験を幾度もしているんです。ぼくも3.11やコロナ禍によって、自分が汗をかきながらつくった大切な場所が傷ついていく経験をするたびに、改めてじいさんの思いに心を寄せられるようになっています。だからこそ、ああいった佇まいの人になったんだろうなって。

ルックスというか、ファッションや雰囲気はどんな感じだったんですか?

日比 髪の毛も眉毛も真っ白で、ザ・おじいさんといった感じです(笑)。自分好みのスーツをテーラーであつらえて、ベレー帽をかぶって。洋服や靴をたくさん揃えて、というタイプではありませんでしたが、ひとつひとつにこだわりを込めて、責任を持って付き合っていくような人でした。

この本(『人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ』には、〝枯れ草の匂うホームスパン地はありますか〟なんて注文をしていたくだりがありますが、お洒落に関してもすごくロマンチストですよね。

日比 上口愚朗(かみぐちぐろう)さんという方が開いた「中等洋服店」というテーラーで仕立てていたようです。

このテーラーさんもかなり興味深い方ですが、やっぱり月光荘おじさんは絵の具屋さんだけに、色に対する感性が豊かだったんでしょうね。

日比 でも、絵を描いていたわけではないんです。じいさんは与謝野晶子さんのサロンに集まる文化人たちの助言によって、絵の具屋という稼業を選択して、与えられた仕事に邁進しました。絵の具を通して、彼らの生き方とか格好よさに憧れたんでしょう。だから絵だけではなく、音楽や家具、器、洋服といったさまざまな分野に造詣が深かった。そういう人間が開いた絵の具屋だからこそ面白いんでしょうね。

月光荘おじさん、
明治生まれの覚悟と矜持

私は絵画とは無縁の人間なのですが、やっぱり月光荘が1940年に純国産絵の具を開発したというのは、当時の感覚でいうと相当すごいことだったんですか?

日比 当時は絵の具やその原料は、ほとんど海外からの輸入に頼っていました。大学や研究所から軍隊まで、日本が総力を挙げてコバルトの精製に取り組んでもうまくいかなかったのに、あろうことか月光荘の小さな町工場が成功して、国産の絵の具をつくってしまった。なので当時は輸入品のストックだろうと疑われて、相当悔しい思いをしたと思います。目の前で何ダースでもつくってやると啖呵を切ったそうですが。

メンツを潰されたという感覚だったんですかね?

日比 まさに。日本っていまだにそういうところがありますよね? 海外が認めだすと、途端に手のひらを返すという。

日本のアートの歴史において、とても画期的な発明だったわけですね。でも現代の人だったら自分が目立ちたい、名前を遺したい、という欲求が出てくるんでしょうが、橋本さんはそれとは全く正反対の生き方を貫きましたよね? だって〝月光荘〟という店名そのものが、自分を月の光にたとえているわけだし、若くして自分の本名を捨てて、生涯〝月光荘おじさん〟と名乗り続けるなんて、普通の覚悟ではできませんよ。

日比 彼は富山県上市町で、貧しい農家の長男として生まれました。それが大正元年に18歳で家を継がずに上京してしまうなんて、家を捨てることと同じですよね。現代のぼくたちの感覚とは全く違う。そういう人だったから、帰る場所はないという覚悟もあったし、与謝野晶子さんに道を示してもらったときの喜びも、大きかったんだと思います。

やっぱりお住まいにはアート作品などもたくさんあったんですか?

日比 道具屋としての矜持なのか、特定の芸術家から作品をもらったりすることは、避けていました。一番懇意にしていた猪熊弦一郎さんをはじめ、バーナード・リーチさんのような付き合いのあった人たちの作品は、ちょっとだけ置いていましたが。それはぼくも同じで、月光荘自体は無色の容れ物でいいと思っています。そこにいろんな人々が出入りすることで、彩られていくんですよね。

月光荘おじさんと猪熊弦一郎さんが共作したデスクセット。月光荘の地下1階にある画室で、今もなお使われている(カラー写真)。
なるほど! そういうポリシーは直接教えられたんですか?

日比 いや、ほぼなかったです。でも、一回ぼくが中学生時代に飾り付きのジャケットを着ていたときに、すごく叱られたことはよく覚えています。余計なものをつけるなと。当時は理解できませんでしたが、今ならわかります。じいさんには実用の美というか、使われて初めてデザインだ、という民藝の思想に近い考え方があったんでしょうね。実際、柳宗悦さんや濱田庄司さんといった方々との交流もありましたし。

確かに、月光荘の製品には民藝の思想は感じるなあ。でもぼくたちが子供の頃って、それとは真逆のデザインというか、ゲームやキャラクターグッズに代表されるけばけばしい80年代カルチャーに囲まれて育ったわけですが、小学生の日比さんが月光荘おじさんと過ごした生活って、それとはまったく逆なわけですよね。

日比 そういう要素はゼロでした(笑)。当時はほしいとも思わなかったな。もちろん途中でいろいろと寄り道もしましたが、30代、40代になって、改めて自分の中に染み込んでいることを実感させられますね。

明治の生活を知っているなんて、貴重ですよ! 

月光荘おじさんの
言葉が持つ力

日比さんは、子供の頃から月光荘ビジネスを手伝われていたとか。

日比 小学生からですよ。早朝から工場に連れて行かれて、朝から晩まで兄弟3人で製品をビニール袋や箱に詰めて、工場の人たちとご飯を食べて・・・。ぼくは2017年にここの代表になっていますが、ある日突然この仕事を始めたわけではなくて、子供の頃からずっと繋がっているんですよね。でも、月光荘は画材を学校にも納品していたので、自分の学校に来られるのはちょっと恥ずかしかったかな。みんな「なんなのあのじいさん?」って(笑)。

相当個性的でしょうからね(笑)。日比さんご自身は、絵を描くことはなかったんですか?

日比 それはなかったです。でも、ぼくは長年ミュージシャンを続けていて歌詞も紡ぐんですが、明らかに月光荘で育ったことの影響の大きさは感じますね。

月光荘の主役はもちろん色なんでしょうが、それを表現するコトバの力がまたすごいですよね。特に絵の具に添えられているキャプションが秀逸です。

●恋をした女性を包み込むオーラ(ローズグレー)

●はじめて挿した紅の色 少女から淑女へ(カドミウムレッドパープル)

●イチゴジャムのビスケット、僕を呼んでるママの声がする。(カーマイン)

●森の奥に住む寂しがりやの魔法使いが緑の葉っぱに手紙を書いてる。友達になっておくれって。(ビリジャン)

・・・もう、ポエムですよ!

日比 実はあれ、ほとんどぼくが書いているんです。じいさんの時代に使われた言葉を引用することもあるんですが。

本当ですか! それは驚きだなあ。でも月光荘おじさんの言葉のセンスって相当独特だから(笑)、日比さんにもそういう感性が染み付いているのかな?

日比 なにか大切なことを伝えるのに、そのことを直接言ったのでは伝わらない、という感覚は受け継いでいるかもしれません。デッサンと同じで、まわりを書き込むことによって、一番輝かせたいものが浮かびあがってくる。その考え方は、月光荘には脈々と流れていますね。

娘さんの結婚相手のお父さん、つまり日比さんの父方のおじいさんに向けて送った手紙なんて、ものすごいですよね。嫁いでいった娘への愛情や惜別の感情がほとばしっている。

私の庭から、真っ赤なバラが消えた。

鎌倉の庭に移されたバラは、

元気に咲いてゐましか。

長い長い間、大切に育てましたよ。

そちらで、もっと大きくなりましょ。

私の庭から、真っ赤なバラがなくなった。

月光荘おじさんは色んな方々と手紙のやりとりをしていましたが、この表現が今、LINEで送られてきたら衝撃的ですよ(笑)。

日比 確かに(笑)。これは紙や文字を含めてのものですよね。真心の塊のような人だったので、だからこそ伝わってくる思いがある。

本当にそうですね。SNSでは絶対に伝わらない。それにしても、普段からそういう喋り方の人だったんですか?

日比 いや、普段はほぼ喋りませんでした。ただ、朝4時頃に起きて新聞が届くと、ずっと読んで気になった箇所をスクラップしているんですよ。じいさんは学歴でいえば小卒でしたが、死ぬ間際まで勉強したい、自分を育てていきたい、という姿勢を貫いていたと思います。

物書きのひとりとして、月光荘おじさんの文章力には感服してしまいます。素朴で飾り気はないけれど、深く心を突き刺すというか。その裏にはやっぱり、人知れない努力があったんだなあ・・・。しかも90代まで現役で、お店に立たれていたというのも、またすごいです。

日比 96歳で亡くなったんですが、亡くなる直前まで毎日電車に乗って、元気にお店に通っていましたよ。それが「この世の中に必要でなくなった人間は、消えていくのみです」と呟いて以来、全く喋らなくなって、お店にも行かなくなってしまった。亡くなったのはその1ヶ月後くらいです。

そのエピソードはすごいですね。自分の死期を予見したかのような。

日比 その一言を呟くまでは、とにかく粛々と仕事をして、暮らしていましたね。いいことがあったからってぼくみたいにはしゃいだりもしないし(笑)、悪いことがあったからっていたずらに落ち込むこともない。与謝野晶子さんが月光荘の開業にあたって「大空の 月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」という歌を詠んでくれたのですが、まさにその通りの人生を貫いたと思います。

月光荘三代目の
ほかにはない生き方

ぼくたち現代人には計り知れない生き方だなあ。でも、そんな月光荘おじさんとその文化に育まれた日比さんも、19歳でアメリカ南部を旅するなど、相当ユニークな生き方をされてきたとか。

日比 ぼくは10代で夜遊びを覚えてしまったのですが(笑)、90年代前半にぼくのまわりにいた大人の男たちって、本当に格好よかったんですよ。ファッションはもちろん、映画や音楽といったカルチャーにも精通していて、セクシーで、えも言われぬ輝きを放っている。

東京の夜遊びシーンがものすごく元気だった時代ですね。

日比 今から思えばちょっと歪んだモチベーションだったんですが、彼らと対等な存在になりたいという思いから、映画をたくさん観て、音楽を聴き込んで、ついにはギターを担いでアメリカ南部をひとり旅するわけです。でもいきなり1500ドルするギターを盗まれちゃって(笑)。

まだアメリカがちょっと怖かった時代ですね。

日比 もともとは夏休みの旅行のつもりだったんですが、このままじゃ意地でも帰れないぞと思って、学校は休んで現地の日本食レストランで働き出すんです。一旦は日本に帰るんですが、今度はそれをきっかけに、ブルースの本質とルーツを探りに、ヨーロッパやアフリカを旅することになるんです。


日比さんが20代前半、シカゴの日本料理レストランで働いていた頃の写真。お店に飛び込みで面接に訪れた日比さんは、その5分後には皿洗いを開始。その後はメキシコ人やエクアドル人の先輩に料理を教わっていたという。
音楽を学びに行った、という感覚なんですか?

日比 いや、あの頃は学ぶというより、導かれる、という感覚でした。アラスカを旅したときは、空港で知らない先住民がぼくのことを待っていて、クルマに乗れっていうんです。「これからお前が経験しなくてはならないところに連れていく」と言って。そのままクルマに乗ったら山奥に連れて行かれて・・・。めちゃくちゃ怖くないですか?

えーと、普通なら逃げます(笑)。

日比 でも当時のぼくは怖いと思わなかった。自分の衝動ではなくて、なにかに動かされている感覚があったんですよね。で、クルマから降ろされたら、目の前は真っ黒な川が流れている。これはなんだろうと思ったら、ぜんぶシャケなんです。生命の凄まじい躍動に呆然とさせられました。それから彼の紹介で、トーテムポールの彫り師をはじめ、様々な部族のもとを渡り歩いて、狩りをしながら旅をしたんです。

それはすごい経験ですね!

日比 振り返るとそうなんですが、あの頃は〝思考〟みたいなものすらなかったですね。一種のトランス状態というか、高次元のものに導かれたというか・・・とか言いながら壺も数珠も出しませんよ(笑)!

今ならなんでも買っちゃいそうです(笑)。

日比 ちょっと気持ち悪がられるかもしれませんが(笑)、いまでもその感覚は少し残っていて、旅に出ていないだけで、やっていることは変わらないような気もしています。

創業100年の老舗を
継承するということ

幼少期からバイオリンを習っていた日比さんは、学生時代にブルースに開眼。19歳にしてアメリカ南部に渡り、気の合う仲間とセッションをしながらアラスカまで旅を続けたという筋金入りのアーティスト。今もなお、楽しいお酒を飲みながら、都内のどこかでライブ活動を繰り広げている。
そういう暮らしをしていた日比さんが月光荘を継がれることは、想定していたんですか?

日比 ゼロでしたね。音楽で100%売れるつもりだったし、今でもその思いは持っているけれど、あの頃の自分は音楽業界にアジャストできなかった。月光荘の影響もあり、自分が納得した作品にしかサインを入れない、という個人で作品を仕上げる絵描きの世界の感覚が悪い意味で染みついていて、いろんな人の顔を潰してしまったんです。レコーディングが終わったあとに、ディレクターが修正した音源に納得できなくて、深夜にスタジオに忍び込んで全部録り直しちゃったり(笑)。そんな奴のことは誰も応援したくないですよね。

音楽業界のことはわかりませんが、どう考えても困りますね(笑)

日比 お世話になった人たちに恩返ししたいという気持ちで、今も活動していますが。それと並行して、ぼくが月光荘の代表になったのが2017年。月光荘が100周年を迎えた年のことです。

ここは変えよう、とかいう思いは最初からあったんですか?

日比 ぼくは歌を歌うか、酒を飲んで暴れるか、という生活を30代半ばまで続けてきたわけで、社会のこともビジネスのこともわからない。けれど月光荘という歴史の重みは十二分に理解しているわけだから、もう心はがんじがらめです。最初は銀座に行くたびに唾が飲み込めなくなるような思いでしたね。ただ、これはちょっと不遜に聞こえるかもしれませんが、どこかのタイミングで「100年続いているとかは関係なくて、継いだ人間の一代限りの店だ」、「月光荘は日比康造の店なんだ」と言い切る覚悟が決められたんです。もちろん看板の重みや感謝の気持ちを持ったうえでね。それ以来、必要に応じて新商品も出せるようになったし、自由度高く動けるようになりました。

100年の歴史をもつ老舗を受け継ぐプレッシャーって、ぼくたちには測り知れない世界ですね。

日比 じいさんだったら何ていうか、ということじゃなくて、すべてを引き継いで今のぼくがいるんだから、ぼく自身の精一杯の判断を積み上げていけばいい。それで問題があったとしたら、申し訳ないけれどそういうふうに育てたんだと思って諦めてくれ、と。まあ開き直りですよね(笑)。でもそういうふうに思えて、やっと自分の仕事になったんです。

「売れるものを考えるのではなくて、人が喜ぶものを売ること」

「自分で売るものは自分で作り、自信のあるものだけを売りなさい」

「売りたいがための値下げで、安売りなんかをしてはいけない」

月光荘のビジネスって、私の目から見るとメゾンブランドのあるべき姿そのものなんです。路線を数年おきにコロコロと変えて、その場しのぎの売れ線をつくるブランドばかりになってしまった現代、月光荘は創業者の志を継承し続ける、数少ない本物のメゾンブランドと言ってもいい。でも、月光荘が扱っているのは高級なバッグではなくて、1個数百円〜の絵の具なわけで・・・。今後のビジネスについては、どのようにお考えですか?

日比 いかに在庫を減らすかというのがビジネスの正しい在り方になってしまった今、月光荘のやり方は完全に真逆ですよね(笑)。ちっちゃなお店ひとつしかないのに、工場をふたつも抱えて。でも、責任をもった商いを続けるためには、自分たちの生産拠点をもつほかないんです。だから全然もうからないんですが、誰と比べられても平気だし、すっくと立っていられるのは悪い気分じゃない。ご褒美みたいなものですよね。

そんななかで、日比さんがやりたいことってなんですか?

日比 これもちょっと語弊があるかもしれませんが、うちは創業時からそうですが、狭い意味での画材屋をやっているつもりはないんです。2013年につくったこのサロン(月光荘はなれ)や、絵の具工場にカフェやアトリエを併設させた「月光荘ファルべ」に代表されるように、アートを媒介にして人様にお役に立てることを、常に模索しています。

月光荘のほど近く、エレベーターのない古い雑居ビルの5階にお店を構える「月光荘サロン 月のはなれ」。日比さんが武者修行時代に親しんだアメリカ南部のクレオール料理や、さまざまなオリジナルカクテルが楽しめる、銀座とは思えない空間だ。しかも毎晩8時からはミュージシャンの生演奏も! 人と会い、語らうことのかけがえのなさを実感できる、月光荘が発信する新しい文化の拠点だ。
住所/東京都中央区銀座8-7-18 月光荘ビル5階
TEL/03-6228-5189
営業時間/14:00〜23:30(月〜木・土曜)、14:00~翌4:00(金曜)、14:00〜21:00(日曜)
定休日/なし
※営業時間については変更の場合もあるので、お店にご連絡を!
こちらは金曜夜の「月のはなれ」。銀座の紳士やホステスさんが行き交う銀座見番通りのど真ん中に、こんなカジュアルで洒落た空間があるとは誰も思うまい! 筆者がひとりで写真を撮っていると、フランス人アーティストさんのグループから声をかけられ、一緒に飲むことに。彼は月光荘の存在を知らず、偶然このお店を訪れたそうだが「まるでパリのような空間だ」と唸っていた。そんな、今の東京では考えられないような出会いが生まれるファンタジックな場所が「月のはなれ」。名物料理のガンボは、野菜たっぷりでとても滋味深かった。
今っぽい言い方をすれば、ライフスタイルブランドですよね。でもそんな薄っぺらいものではなくて、もっと本質的というか。

日比 そうですね。食べるものでも着るものでも、体験できることでもいい。ぼくが知恵と時間と魂を100%注ぎ込んだ結果生まれるものを、ひとつひとつ形にしていく。そうやって今まで大切にしてきた感覚を広げていくことが、月光荘がこれから進むべき道だな、と思っているんです。たとえ失敗したとしても、これならじいさんに胸を張っていられるな、という仕事をしたい。それができれば、ぼくは最高な気分で死んでいけます。

イラストレーターの水森亜土さんが描いた、銀座泰明小学校前にあった頃の月光荘。屋上付き5階建てのビルでは、画材店のほかに会員制アートクラブ、スナック、ギャラリー、サロンも運営していた。日比さんが指揮をとる現代の月光荘も、まさにこんな楽しいお店になりつつある! 
月光荘おじさんの墓前に報告しに行ったりするんですか?

日比 もちろんです。実は初めて話すことなんですが、うちのじいさんは自分のお墓をつくらなかったんですよ。墓石には自分の苗字も名前もなくて「月光荘」と刻まれている。なので代々の月光荘店主は、そこに入ることになっているんです。

ええっ、そこまで徹底しているんですか・・・?

日比 生前に自分でどこかから墓石を選んできたのですが、気に入った形の赤い自然石を加工せずに使っているので、きれいにカットされた御影石が並ぶ墓地の中では相当異彩を放っています。もう笑っちゃいますよね。お墓の写真、見てみますか(笑)?

本当だ! 土台の部分もきれいにカットされた石ではなくて、自然な形を残したものですね・・・。その圧倒的な美意識にも感服させられますが、月光荘おじさんは自分の名前ではなくて、〝月光荘〟という屋号、その哲学に死してなお殉じていたんだなあ。そんなすごい人が日本にいたとは、本当に驚きです。

日比 今はSNSで発信力のある人間ばかりがもてはやされていますが、うちのじいさんは全く逆なんですよね。出していく力じゃなくて、引く力。〝引力〟の人間だったんです。だからみんなが、もっと知りたいと思ってくださるのかもしれない。

ぼくたちも、そういうメディアでありたいと思います!
日比康造

1975年東京都生まれ。慶應義塾大学在学中に幾度となくアメリカ南部やアラスカを旅し、本物のブルースを体感。卒業後にシンガーソングライターとしてデビューする。現在は音楽家としての活動を続けながら、三代目店主として月光荘の舵取りを担う。早朝の多摩川沿いを散歩しながらひとり葉巻を吸うのが至福の時間。instagramアカウントはこちら

 

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