2024.12.6.Fri
今日のおじさん語録
「世界はあなたのためにはない。/花森安治」
静雲アパートにあるヤッコさんのバスルーム。タオルは海外のホテルからくすねてきたもの。撮影/染吾郎
20th Century Girl
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連載/20th Century Girl

ヤッコさんとの
思い出の雑記帳

文・中村のん

中村のんさんの大人気連載『20th Century Girl』を更新しました。今回は中村さんが、ヤッコさんにまつわるとりとめのない思い出話を書き綴ります。私たち大人はどうして、くだらないことばかり思い出してしまうんだろう。そしてくだらないことを思い出すとき、どうして私たちは幸せな気持ちに包まれるんだろう?

私は記憶がいいほうだ、と自分では思っている。学生時代からの友だちには「変なことをよく覚えている」と嫌がられる。でも、たまに、「あんな重要なことを忘れちゃってるの?」と驚かれることもある。記憶は不思議だ。人生の物語にとって(他人から見て)大事なことを忘れ、どうでもいい情景がいつまでも残っていたりする。記憶装置は、自分ではコントロールできないもののような気がする。

ヤッコさんと過ごしていた日々の思い出は、遡れば遡るほど、どうでもいいことのほうが鮮明だ。スタイリストになるために大事なこと、仕事をやっていく上で重要なことなど、師匠の立場から伝えてくれたことがなかったはずはないのだが、胸に深く刻まれているという感じでもない。なぜか忘れられないのはこんな光景だ。

あるとき、静雲アパートの、ヤッコさんの自宅兼事務所で作業を行っていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、CM制作会社の新米の制作さんが立っていた。「コンテが出来たのでお届けに来ました」と彼が言った途端、玄関のすぐそばの浴室の扉からヤッコさんが飛び出してきた。夏の暑い日だった。ヤッコさんは白いタンクトップに白いショーツを穿いただけの、つまり、下着姿で、タンクトップから乳首が透けて見えていた。私はあわてたが、指摘するタイミングは見つからなかった。

コンテを受け取りながら「わざわざ届けてくれてありがとう。打ち合わせはいつになったのかしら」、そんな会話をしていた間はほんの2、3分だったはずだが、彼は驚いた表情を見せることもなく、礼儀正しい挨拶をして帰って行った。

ドアを閉めて「ヤッコさん、その格好!」と言うと、自分の体を見て、「あらやだ!言ってよ」と言われたが、そうあわててる風でもなかった。乳首をあらわに仕事の話しを真面目にしていたヤッコさんが可笑しくて可笑しくて、あとになってから私は笑い転げた。

この情景がふと浮かんでくるとき、パソコンはおろか、ファックスもなかった時代、仕事の資料は郵送か、急ぎの場合は新人スタッフの手によって届けられていたのだなーと、その不便さが懐かしくなる。そして、人との会話で「ファックスもなかった時代」の話題になると必ず、乳首が透けて見えていたヤッコさんのあの日の姿が浮かんできて、思わず笑みがこぼれるのだ。

ヤッコさんは155センチと小柄だが、おっぱいは立派だった。でもいつもノーブラだった。ノーブラに関しては、それがカッコいいとされていた時代だったからだ。

ヤッコさんが社会人になったばかりの時代の話で、いちばん何度も聞かされてきているのは、大卒で入社した大手広告代理店の社員を辞めて、原宿セントラルアパートのデザイン会社「レマン」で募集していたコピーライターの面接を受けたときのエピソードだ。

「海で撮った上半身裸の写真を見せて、私はこんなにセクシーなのよ、とアピールしたのよ」。その大胆さに驚くと同時に、コピーライターの能力と何の関係もない「おっぱい」をアピールしたところで・・・と真面目に思ったりもしたが、「変わった子イコール面白い才能がある子」と評価されていたその当時の空気感は私も知っている。

5年ほど前、「面接のときに持っていった写真」が出てきたと、ヤッコさんから小さなモノクロ写真を見せられた。私の想像上では、相当セクシーな写真になっていたが、波間に立つヤッコさんの姿は、カメラからかなり離れた位置で、裸ではあったものの、おっぱいは虫メガネを使わなくてはわからないほどの大きさだった。

沢渡朔さんの撮影で、ミニチュアの家の窓からおっぱいを出す役を頼まれてやったことがあるとさらっと聞いたことがあったが、その写真は見せられたことがあるような気もするし、見たことがないような気もする。

1970年前後、セントラルアパートにあった「レマン」でコピーライターを務めていた頃のヤッコさん。隣にいるのはアートディレクターの奥村靫正(おくむらゆきまさ)さん。のちにYMO、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、チェッカーズなどのレコードジャケットを手掛け、無印良品などの広告デザインの世界でも活躍した、世界的クリエイターだ。現在は画家としても活躍している。※ヤッコさん所蔵

茨城の田舎で育ったヤッコさんは、女子が大学に進学することすら珍しかった時代に、早稲田の政経学部に現役合格している。この学部に女子は4人しかいなかったという。

「相当、優秀だったんですね」と言うと、「優秀だったかどうかはわからないけど、ただただ田舎から出たかった。東京に行きたかった。いい大学に受かれば親は行かせてくれると思った」と、私にも、他の人にもいつもそう答えていた。「政治経済学部」は、ヤッコさんとは程遠いイメージなので、どうしてそこを選んだのかと聞いても、「どこでもよかったんじゃない?そういう真面目な学部なら親も行かせてくれると思ったんじゃない?」と他人事のような答えが返ってきた。

早稲田の広告研究部に所属していたヤッコさんは、いわゆる「青田買い」という形で日本の最大手広告代理店に入ったそうだ。女子が社員として採用されるのは稀有だった時代だ。

でも、半年後には「自分がいる場所はここじゃない」「原宿が面白そうだ」という理由で、この会社を退職した。

早稲田に入ったことも、大手の有名企業に抜擢されたことも、ヤッコさんの「自慢のタネ」になったことは一度もない。でも、「社員が10人しかいないデザイン会社」の面接に自分の裸の写真を持ち込んだことは、何度も「自慢話」のように聞かされてきた。

あるとき、表参道にいると、遠くから「高橋センセーイ!」と言う声が聞こえてきた。声の主である男性がそばにくると「お願いだから先生はやめて」とお願いするように言っていた。

彼が去ると、「時々私を先生って呼ぶ人がいるのよ。困るのよね、あれ」と、本当に困った顔をして言っていた。「尊敬しています」的なことを言われても、いつも困っていた。「私なんか、尊敬されるような人間じゃないわよ」と、年上らしく、謙遜を込めて話しを流すのでもなく、「いや、そんな…」と、ただただ本当に困った顔をしていた。

私がヤッコさんと知り合ったのは、彼女が30代のときだが、そのときから何十年も、ヤッコさんは「権威」、または「権威的」なものを嫌った。だからどんなに有名でも、レジェンドと言われる人でも、威張る人や、下の人を「下」として扱う人を嫌った。

ヤッコさんがいちばん好きな褒め言葉は「可愛い」だった。自分の外見でも声でもやることでも、人から「可愛い」と言われると、アシスタントの私に向かっていちいち自慢した。

二十歳そこそこの、ウブ(に見える)私は、それこそ年上の人から「可愛い」と声をかけられる機会はよくあったが、「可愛い」と言われたときのヤッコさんの喜びように、自分が失ってしまった無邪気さをヤッコさんが保持していることに、感動すら覚えるのだった。

実際、ヤッコさんは本当に可愛い人だった。この当時、業界の先輩にあたる女性たちは皆、時代を切り拓いてゆくカッコよさがある半面、怖かった。著名なヘアーメイクの女性から初対面でいきなり「何そのアイラインの引き方」と言われたこともあったし、可愛がってくれる人にも貫禄が備わっていた。まだみんな、30代だったというのに。

ヤッコさんは「スタイリスト第一号」として、業界にその名を知らない人はいないほどの存在であったにも関わらず、オーラはあっても貫禄はなかった。

ヤッコさんのお腹に赤ちゃんがいたとき、写真展の会場でばったり会った石岡瑛子さんが、「ヤッコ、子どもが生まれたら、おぶい紐でおぶって現場に立ちなさい。これからの女性はそうじゃなくちゃ」と言っていた情景も記憶に強く残っている。ヤッコさんはニコニコしながら「はい」と答えた。このとき、ヤッコさん33歳、石岡さん36歳だった。

アシスタント時代にヤッコさんから叱られた記憶はほとんどない。褒められた記憶ならたくさんある。嫌なことは忘れる性格のせいじゃないと思う。実際、本当にそうだったのだ。

ヤッコさんが海外ロケに行くと、その期間、「できるだけ事務所にいて電話番をしているように」と毎回言われていた。留守電はあったのだが、「仕事の依頼があったら、その場で必ず受けるように」と言われていたのだ。だが、電話はジャンジャンかかってくるわけではない。事務にいても退屈だし、一歩外に出れば原宿には楽しい店がいっぱいあるし、レオンに行けば友達にも会える。とくにお天気が気持ちいい日は。私は師匠からの言いつけを守らず、しょっちゅう外をブラブラしていた。帰国して留守電を確認すれば、その行動はすぐにバレる。

あるときヤッコさんから言われた。「ロケの間、あなたに電話番を期待するのはやめることにしたわ。あなたは電話番に向く人じゃないから。そのことがよーくわかったから」。心がチクリと痛んだ。でも私は変わらなかった(と思う)。そして、本当に電話番を期待されることはなくなった(と思う)。ヤッコさんは、そういう人だった。

ヤッコさんがロケから帰国すると、たくさんのお土産をもらった。

のんちゃんの着ているもの、持っているもので何か新しいものがあると「どこで買ったの?」と問いたださずにはいられなかった。たとえば、生成りのシャツは渋谷の文化屋雑貨店、プードルやスコッチ・テリアのブローチは、青山のパリ・スキャンダル、ブリキのおもちゃは骨董通りのビリケンという具合に。

海外ロケに行くと、現地で10回くらい同じ店に通って、最後に決心して買ったものを、思わずのんちゃんにおみやげとして渡してしまうことがしばしばあった。

そのくらい欲しいものの趣味が重なっていると感じていた。

『表参道のヤッコさん』(アスペクト)より

当時まだ日本では手に入れることが難しかったカフェオレカップや南仏の手描きの柄の大皿、そしてウサギの絵のついたブランケットはパリのお土産で、どれも今でも大事に使っている。

ニューヨークのテンダーボタンで買ってきてくれたたくさんのアンティークボタンは、東京では見たことがないものばかりで、その愛らしさがうれしくてたまらなく、標本のように額に並べて飾った。ニューヨーク土産にもらった蛍光オレンジのラインが入ったアディダスのスニーカーを履いて映画の撮影スタジオに行ったとき、カメラマンの坂田栄一郎さんが、「え!ホントに光るの?どれどれ」と言って、私をスタジオの隅の真っ暗なコーナーに引っ張っていった。他のスタッフもついてきた。ラインが光ることを確かめると、皆一斉に「へー!」とか「すごい!」と声を上げた。あのときの情景を思い出すと、新しいファッションに関しても、みんな、なんて無邪気で素直だったんだと思う。「海外で買ってきた物」が、まだまだ物珍しく、今よりずっと新鮮な時代だった。

YMOことイエロー・マジック・オーケストラがデビューしたのは1978年。ヤッコさんが坂本龍一さんのスタイリストをするようになったのは、YMO時代からだったと思う。だが、ヤッコさんの著書『時をかけるヤッコさん』(文藝春秋)に収められた高橋幸宏さんとの対談に、

幸宏 「僕とヤッコさんには出会いという出会いはないんですよ」

靖子 「そうね。気づいたら風景の中にいたという感じね」

幸宏 「というのはね、あの時代のクリエイターというのは、必ずどこかで会っているんです。70年代、80年代は原宿にあったセントラルアパートに行けばだいたい事足りたんです」

とあるように、坂本さんともそんな出会い方だったのかもしれない。

1980年代、ロケ先のヤッコさんと坂本龍一さん。※ヤッコさん所蔵

ヤッコさんの家の郵便受けを覗くと、海外からの絵葉書が届いていることは頻繁にあったが、その中でも坂本龍一さんとカメラマンの稲越功一さんが、もっともマメに送ってきている印象だった。文章は短く、他愛のない内容ではあったが、彼らが外国にいても、ヤッコさんのことを忘れていない(思っている)証拠だった。私に届く海外からの絵葉書はもちろん、そのほとんどが海外ロケ先にいるヤッコさんからのものだったが、今では、あの頃よりずっと海外在住の友だちの数は増えたが、海外からの絵葉書が届くことは皆無に等しい。近況報告がきてもすべてLINEで、嬉しさはあるものの、なんとなく味気ない。

高橋幸宏さんとの対談の中で、ふたりはこんな言葉を残している。

幸宏 「今のブランド志向と正反対なんですよ。そこにアイデンティティや生活感をどう入れるか、ということが大事だった。ヨーロッパに行くと、みんな特別なものは着ていないんだけど、格好いいでしょ。それはその人となりが洋服からにじみ出ているからだと思うんです。向こうは家も、きれいなんだか汚いんだかわからないでしょ。でも、味があっていいじゃないですか。タイルひとつにもヒビが入っていてもよくって、そういう格好よさを僕たちはいつも求めていたんですよ。日本は、ある時代から、小ぎれいなもの、便利なものが文化だという勘違いが増えてきた。デザイナーが作って、毎日掃除しないといけないような家とかね。便利なことが文化ではないんです。(略)」


靖子 「NYで私がステイした家では、ガーゼを虫ピンで窓に留めてたの。それがカーテン。そのいい加減さとか、かわいらしさとか、格好良さ」

幸宏 「そういう感じを一番持ち込んでらしたのが、ヤッコさんたち世代なんですよ」

今、私の記憶に残っているヤッコさんとの情景も、ヤッコさんの人と成りの「いい加減さ、かわいらしさ、格好良さ」を感じた瞬間なのかもしれない。

私はヤッコさんの優秀さよりも「ヒビ」の愛らしさが好きだった。そして、ヤッコさんもまた、私の「ヒビ」を受け入れ愛してくれた。母から「ダメ」とされてきた部分も。

美化しているかもしれないが、振り返ればそんな気がする。

ヤッコさんと貴重な対談をしてくださった幸宏さんはもういない。

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