2024.4.20.Sat
今日のおじさん語録
「モノがあるとモノに追いかけられます。/樹木希林」
松山猛の<br />
70年代日記
連載/松山猛の 70年代日記

牧村憲一さんと語る!
70年代シティポップは
こうして生まれた

写真・構成/山下英介

ぼくたちが大好きなファッション&カルチャーの、ほぼすべてに関わってきた、偉大なる〝ぼくのおじさん〟松山猛。もしかしたら知らない人もいるかもしれないが、彼は編集者であると同時に、1970年代までは作詞家としても活躍。音楽におけるぼくたちの関心事〝シティポップ〟にも、もちろん大きな影響を与えてきた。なんと「サディスティック・ミカ・バンド」の名曲『タイムマシンにお願い』をつくった人でもあるのだ! 今日は山下達郎や竹内まりやを見い出した音楽プロデューサーの牧村憲一さんをゲストに迎えて、そのルーツを探ってみたいと思う。

松山猛と牧村憲一が
「フェイスレコード」を歩く!

今回の対談の舞台になった「フェイスレコード」は、東京・渋谷のMIYASHITA PARK内にある。
松山さん、今回の『70年代日記』は、最近ブームになっているシティポップについて語っていただきたく、東京・渋谷の宮下パーク内にある中古レコードショップ「フェイスレコード」までお越しいただきました。

松山 そのあたりの話をするなら、音楽プロデューサーの牧村憲一さんしかいないと思って、今日は来てもらいました。

牧村 松山さんを知ったのは学生時代なのですが、実際にお会いしたのは、ぼくが1970年代後半にプロデュースをした、竹内まりやのアルバムの作詞をお願いした時です。それをきっかけに、いろいろとお仕事をしましたね。

「フェイスレコード」の店長を務める荒井献さんにお伺いしたいのですが、こちらでの邦楽人気はいかがですか?

荒井 うちは20代のお客さんが多いのですが、いわゆるシティポップと言われている70年代〜80年代の邦楽が一番人気ですね。2015年にはN.Y.に出店したのですが、当初「ビートルズ」あたりが売れるかと思ったら全然ダメで、山下達郎やシティポップばかりが売れるようになって(笑)。今では在庫の半分くらいは和モノになっています。

なかでも人気のアーティストは?

荒井 やはり山下達郎、「シュガーベイブ」、「はっぴいえんど」関連でしょうか。

ちなみに松山猛さんが「サディスティック・ミカ・バンド」(※1)の作詞を手がけられていたことはご存知でしょうか?

荒井 すみません(汗)、もともと加藤和彦さんは好きだったのですが、松山さんが歌詞を書かれていたことはつい最近知りました。今日はお会いできてドキドキしています!

松山 『黒船』はほとんどぼくだな(笑)。でもレコードはもう全然持っていない。今はこんな値段になっているの? 

荒井 帯がついているので。

こちらは「サディスティック・ミカ・バンド」が1973年にリリースした1stアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』。2ndアルバム『黒船』は松山さんがほぼすべての作詞を手がけ、日本のロック史に残る名盤となった。
やはり『黒船』は松山さんにとっても最高傑作という位置付けなんですか?

松山 時間はかかったね。かなり達成感もあったし、編集の仕事も楽しくなっていったから、その後ぼくは音楽の仕事からは遠ざかっていくんだけれど。

やっぱり、値段が上がっているレコードは当時売れていなかった人ということですかね?

牧村 それが中古市場の掟みたいなものでしょう。ところでこの『ソングス』(※2)はセカンドプレスのコロンビア盤で、あまり高値ではないですね。オリジナルのエレック盤はあるんですか?

荒井 はい、状態のいいものがありますよ。

「シュガーベイブ」の伝説のアルバム『ソングス』。大滝詠一率いる「ナイアガラ・レーベル」からリリースされたが、同社を傘下に収めていたエレック・レコードが倒産したため、幻のレコードとなった。こちらはそのエレック版、しかも帯付きだ。
『ソングス』は当時売れていたんですか?

牧村 最初のプレスは2000枚くらいだと思いますが、売れたか売れなかったかは微妙です。というのも、レコード会社が『ソングス』を出して3ヶ月で倒産しちゃったんです。だから追加プレスはできなかった。当然レコーディングに関する支払いもまったくなく、山下くんたちも相当困っていました。冗談のように聞こえるかもしれませんが、ポケットに500円が入っていたら、お金持ちじゃないっていう時代でした(笑)。

うーん、とても興味深いですね。では、ゆっくりとお話を聞かせてください!
※1/加藤和彦を中心に1972年に結成されたバンド。高橋幸宏もドラマーとして在籍。1975年には英国でツアーを行っており、現地での知名度も高い。松山さんはその最高傑作と言われるアルバム『黒船』の作詞を手がけている。
※2/1975年発売。セールスは芳しくなかったが1980年以降再評価され、現在ではシティポップの元祖と名高い。

1960年代の音楽シーン、
東京と京都の違い

写真中央は「フェイスレコード MIYASHITA PARK」店で店長を務める荒井献さん。まだ20代だがその知識はさすがの一言。彼が持っているレコードは、1971年にリリースされた加藤和彦の2ndソロアルバム『スーパー・ガス』。松山さんが全曲の作詞を手がけている。
松山さん、最近のシティポップムーブメントについてはご存じでしたか? 

松山 いや、ぼくは最近知った。

牧村 シティポップのブームが本格的になったのは、3〜4年くらい前ですかね。偶然ですが、ぼくが関わってきたレコードがそれに含まれていたので、周囲から「牧村さん、シティポップですねえ」なんて言われるようになったんですが、ぼくがシティポップ?って(笑)。

そもそもシティポップという言葉は当時あったんですか?

松山 そういう呼び方はされていなかった。もともとは「ニューフォーク」って言われてたよね。そこからニューミュージックという言葉が生まれて。

え、フォークからの流れなんですか? 

牧村 50年代のアメリカでフォークソングリバイバルというムーブメントが起きて、そこからモダンフォークが発生した。それに影響を受けた人たちが、1960年代にそれこそ見よう見まね、独力で始めたというのが東京の動きです。

松山 京都は同志社とか立命館大学あたりにカントリー&ウエスタンのグループがたくさんあったんだけれど、それらがどんどんフォーク寄りになっていくんだよね。

フォークって、ぼくたちから見ると「かぐや姫」みたいな四畳半のイメージが強いんですが、それらとはまた違うんですかね。

松山 時代はもっと政治的だったから。ベトナム反戦運動とも絡み合っていたしね。

松山さんが持っているレコードは1972年にデビューした「頭脳警察」。『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の詩』『銃を取れ』など、反権力闘争を煽るような作品を次々と発表。相次いで発禁、回収されたことで、カリスマ的な存在となる。松山さんはそのギタリスト、PANTAとも交流がある。

牧村 あの頃の京都のカルチャーシーンは、東京よりも1歩先に進んでいました。それと較べるとちょっと東京はヌルいというか、コピー文化のまま。ぼくは東京生まれで東京育ちですが、東京よりも京都にあこがれをもっていました。京都の動向は気になりましたよ。

松山 学生の街だったからね。ぼくは1965〜6年あたりからからモダンジャズ喫茶に通っていたけれど、こんなのが流行ってるらしいぞ、って言ってジョーン・バエズなんかを見つけてかけたりして、ジャズ好きのオヤジに怒られていた(笑)。当時の京都のジャズ喫茶は、音楽を聴く場所であると同時に政治を語る場所でもあって、神学を勉強していた「ザ・フォーク・クルセダーズ」(※1)のはしだのりひこと、神の存在について2時間くらい激論したり。そんな中で東京のラジオを聴くと、浜口庫之助(※2)が詩を書いた『バラが咲いた』とかが聞こえてくるでしょう? つくりものクサいな、と思っていたよ。

牧村 「ザ・タイガース」の前身だった「ファニーズ」って、もともと京都のバンドでしょ? 彼らは京都にいるときは「ザ・ローリング・ストーンズ」のカバーをやっていたと聞いたけれど、東京に来たらすぎやまこういち(※3)に書いてもらった曲を歌っているんですね。

松山 京都は「ビートルズ」よりも「ストーンズ」のほうが人気だったよ。ぼくも一番最初に買ったのは「ストーンズ」のレコードだった。

牧村 学生たちがやっているフォークやロックと呼ばれる動きの中に、新しい素材があるって気づいた大人がいるんですね。そこに手を突っ込んで東京に引っ張ってきちゃう。それに対して、松山さんが深く関わった「ザ・フォーク・クルセダーズ」が斬新だったのは、自分たちのペースで、好きなようにやっていることでしたね。

松山 初期のベースの音なんて、お風呂で弾いているみたいなビヨンビヨンした音だったけれどね(笑)。

※1/通称「フォークル」。1965年の京都で、大学生だった加藤和彦を中心に結成。『帰ってきたヨッパライ』『イムジン河』『悲しくてやりきれない』などの名曲を残し、1968年に解散。松山さんは正式なメンバーではなかったが多くの作詞を手がけ、〝影のフォークル〟と言われた。
※2/1917年生まれの音楽家。ポップスから歌謡曲、フォークまであらゆるジャンルの作詞作曲を手がけた。
※1931年生まれの作曲家。『ドラゴンクエスト』で有名だが、「タイガース」や「ガロ」など、ポップミュージックの作曲も得意とした。

東京の音楽的ルーツは
米軍放送にあった

牧村 そういう京都の文化に対して、東京には「ファーイーストネットワーク」、FEN(現在はAFN)という、米軍基地関係者のためのラジオがあったんですよ。それを聞いている若い人たちが少なからずいたんです。そしてアメリカのヒットチャートや新譜に、なんだこれは!となる。で、すぐに銀座の数寄屋橋にあった「ハンター」というレコード屋に駆けつける。このお店は在日米軍の方が帰国する前にレコードをまとめ売りしたりするところで、運よく手に入れられると耳コピする。だから東京の60年代の音楽物語は「ハンター」から始まるんですね。

東京のルーツは、在日米軍がもたらしたカルチャーにあったんですね。

牧村 東京人も京都人もそれぞれのやり方で懸命に情報を吸収していた時代です。「六文銭」(※1)の小室等さんが話してくださったことで忘れられないのは、当時、加藤和彦さんから、それまで聞いたことのないメジャーセヴンスのコードを教えてもらったということです。メジャーセヴンス、これはシティポップの特徴ともなっているコードです。ブルースやハードな音楽がロックと呼ばれた時代には、軟弱だと石を投げられたこともあったと、「シュガーベイブ」のメンバーは今でも語ります。

日本のフォーク、ロック、シティポップの歴史における最重要人物のひとりにして、松山さんの盟友、加藤和彦(1947〜2009)。京都・鎌倉・東京で育ったのち、実家のある京都の龍谷大学に進学。ここで松山さんと出会い、「フォークル」「ミカバンド」からソロ曲まで、さまざまな形で共作した。戦後ニッポン最大のダンディと言われた彼のことは、改めて記事にしたい。写真提供/松山猛

松山 あいつはラッキーだったことに、親からすごくいい楽器を買ってもらえていたし、アメリカのフォーク雑誌を読み込んでいたから。それに加えてフォークと同時進行で「ザ・ビートルズ」や「ザ・ベンチャーズ」みたいな世界にも精通していた。当時の音楽にも、それなりに多様性があったんだよね。

牧村 加藤さんは研究家でしたよね。

でもその数年後には、フォークミュージックの立役者だった加藤和彦さんは、高橋幸宏さんらと「サディスティック・ミカ・バンド」でグラムロックの世界にいっちゃうわけですよね? みんな驚きませんでしたか?

松山 ボブ・ディランもフォークギターをエレキに持ち替えていたからね。

あれって、現在はシティポップの枠で再評価されているわけですが、当時からそういうお洒落なバンド、という位置付けだったんですか?

牧村 いや、ロック、ロックです。

松山 加藤和彦は憧れていたアメリカに行ってショックを受けるのよ。根が浅くてつまらないって。その後あいつはイギリスと出会って、ロックに行ったの。

牧村 今、いい意味で〝ポップ〟って言ってるけど、当時は〝ポップ〟あの頃は〝ポップス〟ですが、バカにされているような響きがありました。ロックミュージックをやることが最先端、ロックこそが生き方という。

松山 プレスリーなんてアメリカの歌謡曲になっちゃったもんね。

牧村 プレスリーはロックンロールそのものだったけれど、多くの人々に支持されることによって、本人の思いとは別にポップ化していく。誰のせいでもないんですけどね。

松山 ポップミュージックといえば、グループサウンズもあったでしょう? 

牧村 GSですね。レコードでは日本の歌謡曲作家と呼ばれた方たちがつくった曲を演奏しているけれど、一方ライブではストーンズや、英米の最先端の音楽をわれ先にと演奏するんです。彼らのまわりには常に米軍基地に出入りできる人がいたし、手に入れたレコードを完コピできる技術も持っていました。GSは本音と建前の世界でしたね。

松山 ぼく、「ザ・ゴールデン・カップス」(※3)に作詞してるんだよな。気持ちはロックだったけれど、やらせている側のひとりでもあったかもしれない(笑)。

※1/1968年に小室等を中心に結成されたフォークグループ。1972年に解散。牧村憲一さんが初めてマネージメントしたアーティストだ。
※3/1966年に横浜で結成されたグループサウンズバンド。もともと本牧の外国人専用クラブを舞台に活動していたこともあり、ほかのバンドにはない不良性が魅力だった。

シティポップの元祖は
『ソングス』だった

日本語ロックの先駆者である「はっぴいえんど」と、その解散コンサートでデビューを飾った「シュガーベイブ」。並び称されることも多いふたつのバンドだが、その音楽性は大きく異なる。
そういった流れのもとにシティポップが生まれてくるわけですが、牧村さんにとって〝元祖〟は誰だったんですか?

牧村 ぼくにとっては「シュガーベイブ」、アルバムは『ソングス』です。「はっぴいえんど」ではない。その『ソングス』の宣伝を担当したことが、僕にとってのシティポップの始まりだったかも。

彼らはどうやって見出されたんですか?

牧村 最初に大滝詠一さんの『サイダー‘73』(※1)というコマーシャルに関わったんです。そして大滝さんが『サイダー‘74』を続けて担当するというなかで、「シュガーベイブ」、山下達郎というアーティストが突如登場してくるんです。きっかけは73年の「はっぴいえんど」解散コンサートにありました。その当時コマーシャルのディレクターだったぼくは、大滝さん以外には山下くんしかいないだろうってことで、三愛バーゲンセールや三ツ矢フルーツソーダのCM曲を書いてもらいました。

CM曲がきっかけなんですね!

牧村 そうです。3作目に不二家のチョコレートの曲を頼むんだけれど、山下くんは、これは後で本人から教えてもらった話ですが、お菓子屋さんの息子だったので、それがきっかけで親御さんとの関係が改善されたようで(笑)。で、その先に『ソングス』のレコーディングに入っていくんです。「はっぴいえんど」は8ビート、「シュガーベイブ」は時には16ビート感覚も取り入れつつ、意識的にメジャーセヴンスも使った。決して弟分じゃない、違う音楽ですよね。それが80年代前後になると、山下達郎、大貫妙子がいたグループということで再評価され、『ソングス』の代表曲ともいえる『ダウンタウン』がカヴァーでヒット。そうした様々なことも合わせて、シティポップの元祖は『ソングス』と呼ばれるんです。

松山 ぼくはその頃編集者として多忙だったから、「シュガーベイブ」の存在には気づかなかったな。

牧村 まだまだ無名でしたから。松山さんが関心がないんじゃなくて、デビュー当時は松山さんの耳にも入らないグループだったんですよ。山下くんがブレイクした『RIDE ON TIME』以前はそんな評価でした。

※1/三ツ矢サイダーのCM曲であると同時に、大滝詠一の代表作。こちらのCM曲の制作者は三木鶏郎にはじまり、筒美京平、大滝詠一、山下達郎、「サザンオールスターズ」へと続いていく。戦後ポップス史における重要なキーワードだ。

シティポップの女王
竹内まりやのデビュー秘話

シティポップムーブメントの立役者、山下達郎と竹内まりや。1984年に発表された竹内まりやの『PLASTIC LOVE』は、当時のセールスは芳しくなかったが、その高度な演奏技術は業界を驚かせ、牧村さん曰く「シティポップの最高傑作」と言わしめた。
でも、松山さんは竹内まりやさんのアルバムの詩も書かれていますよね?

牧村 78年に「ロフト」(※1)というライブハウスのレコード・レーベルプロデューサーを引き受けたときに、5人の女性ヴォーカリストと10のグループのセッション・アルバムをつくろうという話になって、そのなかのひとりが竹内まりやさんだったんです。そこから発展してアメリカレコーディングも入ったソロ・デビューアルバムを出そうとなったのですが、そのメインライターが加藤和彦さんで、松山さんに詩を書いてもらいました。

松山 2曲くらい書いたかな。当時東京FMで、1年くらい彼女とラジオ番組をやったよ。

牧村 当時は大手のレコード会社、実際ロフトレーベルが契約していたのはビクターで、そこには「ピンク・レディー」もいて、〝歌謡アイドル〟の全盛期でした。ぼくたち側にいた才能あふれるソングライターたちは、ヒットから遠いところにいました。〝こちら側〟のソングライターたちがつくった曲を歌うシンガーが必要だと思ったんです。

竹内さんはその文脈で出てきたんですね!

牧村 本人はデビューには興味がなく嫌がっていたのですが、最終条件として「加藤和彦さん、山下達郎さん、杉真理さんたちが曲を書いてくれたら」と提案があって。困ったなと言いながら、心のなかではガッツポーズですよ(笑)。だってそれが目的だったから。

プロデュースする上で、どんなことをイメージされましたか?

牧村 音楽面でもそうでしたが、松山さんが手がけていたPOPEYEの影響をものすごく受けました。まりやはPOPEYEでウケなきゃって。デビューアルバム『BIGINING』(※2)の半分はL.A.録音なのですが、それはPOPEYEによって確立した、アメリカ西海岸が若者文化の最先端にあるというイメージも入っています。当時はリンダ・ローシュタットが「イーグルス」をバックに歌うロック的イメージと、カレン・カーペンターのようなポップスを歌えるという両面を持ち備えているといった評価を意図していました。のちのちの「フリッパーズ・ギター」とOliveというタッグも、まりやでの成功体験があったからですね。

松山 もともと〝シティボーイ〟という言葉はPOPEYEがつくったわけだからね。

なるほど、シティボーイからシティポップという流れがあるんですね! ちなみに松山さん、ユーミン(松任谷由実)が出てきたときはどんなふうに思いましたか?

松山 ああ、ニキビ少女の頃から知ってるよ(笑)。

ニキビ少女(笑)。でも、ネットのない時代でどうやってああいう存在が生まれてきたんでしょうか? しかも住まいは八王子ですよね? 情報を入手したり拡散する上で、決して有利な条件とは言えない気がしますが。

松山 やっぱり、人間が情報だったんだろうね。

牧村 八王子にあるユーミンの実家(呉服店)って、日本におけるシルクロードのど真ん中にあるんですよね。群馬でつくられた絹が横浜港に移動する中間地点。ゆえに横浜という街の存在が身近だった。そして八王子の近くに横田基地、立川基地があり、なぜかPX(米軍基地の購買部)で買い物ができた。そこで手に入れたレコードを日本のミュージシャンたち、かまやつひろしさん(※3)や「ザ・ゴールデンカップス」、「フィンガース」(※4)といったミュージシャンのもとに届けた。さらに特別な才能と運命を持っていた。すごいですね。

小坂忠が在籍した「エイプリル・フール」の『APRYL FOOL』、大滝詠一と関わりの深かった布谷文夫の『悲しき夏バテ』、編曲を山下達郎が手がけた吉田美奈子の『恋は流星PART1・2』。現在驚くほどの高額で取引され、マニアを唸らせているシティポップのレコードは、どれも当時セールス的には恵まれなかったものばかり。要するに、今売れているものがすべてではないのだ!
なるほど、地の利というのも、大きな要素なんですね。

牧村 シティポップというのは、言ってみれば東京およびその周辺に集約される音楽です。東京人といっても、生粋の東京人だけじゃなくて、東京人になった人たちの力もあるでしょう。東京のローカリズムは、最初は全くというほどウケなかったんですが。

松山 関西や九州から来た、情念に訴えかけるようなミュージシャンのほうが、世間一般には届くわけだからね。

牧村 野球でいえばスワローズなんですよ。ジャイアンツも東京ですが、最近は違ってきたものの、豊富な資金で全国から選手をかき集めたって、イコール東京のチームとは言えないでしょう?

シティポップ=スワローズ説! それは斬新(笑)。でも村上春樹や安西水丸もスワローズファンだったし、思わず納得させられます。
※1/1971年に誕生した、日本のライブハウスにおける聖地。1970年代には「はっぴいえんど」のホームグラウンドだった。こちらと牧村さんのタッグのもとに立ち上げたのが「ライブハウスロフトレーベル」。竹内まりやはこのレーベルがリリースした『ロフトセッションズ』というオムニバスアルバムでデビューすることになる。
※2/1978年リリース。加藤和彦、山下達郎、大貫妙子、細野晴臣など錚々たるアーティストが詩や曲を提供しているアルバム。松山さんは『目覚め』と『おかしな二人』の2曲の歌詞を提供。
※3/1939年東京生まれ。カントリー&ウエスタン、グループサウンズ、フォーク、シティポップ、ロックなど、あらゆるジャンルのミュージシャンと交わった、稀有なるミュージシャン。
※4/慶應義塾高校に通う裕福な塾生を中心に結成されたバンド。松任谷由実(ユーミン)が追っかけをしていたことでも知られている。

本物のシティポップは
パンクの魂から生まれた!

最近では杏里や角松敏生なども海外でヒットしているそうですが、不思議と「サザンオールスターズ」はそれほど人気が高くないらしいですね?

牧村 サザンは桑田佳祐の歌が最大の魅力で、もちろんサザンロックやビートルズなどの影響もあるのですが、曲の構成は意図的に日本の歌謡曲にベースがありますから難しいですね。それと同じ文脈かな、大滝さんも海外ではあまり評価されていない。それはなぜかというと〝逆転の逆転〟的発想は、外国人にとっては〝俺たちの知っている曲〟にしか聞こえていないんです。

そうか、大滝さんは意図的に1970年代の日本において、50年代のアメリカンポップスの世界を再現していたわけですが、その〝あえて〟の世界は、当時の日本の空気感を知らない外国人には読み解けないですもんね。

牧村 そうなんですね。70年代後半からは、「YMO」の存在が音楽界では絶対的だったんですが、あの正確無比な音、音楽力に対抗するために、ミュージシャンたちはふたつの方法を試みたんです。

方法論というと?

牧村 ひとつは大滝さんの、膨大なお金と時間をかけて、レコーディング・スタジオで人力ポップス・オーケストラをやってしまう手法。もうひとつは山下くんが成した、人力のみで機械に負けないレベル、グルーヴを生み出す手法。そうやって磨き上げたまるでロボット並みの演奏技術が、最近になって海外の耳の肥えたリスナーに届いたんですね。ある意味ではヒューマニティの感じられないレコードジャケットも、彼らにとってクールに響いたんだと思います。

松山 なるほど。でも、歌詞はどうなんだろう。日本人の英語の発音は、外国人にとっては違和感があるようにも思えるけれど。

牧村 今の海外の若者は、子供の頃から日本製のアニメで育っていますから、慣れているんですよ。だから地域性とサウンドとアートワーク、すべての要素が相まってようやく2010年代に花開いたのが、海外におけるシティポップムーブメントなんでしょうね。そこにはかつて松山さんたちが発信した、西海岸ブームの光と影もある。その両方を強く感じています。

松山 ぼくたちにとって、アメリカというのは日本に原爆を落とした国でもあり、ベトナム戦争を引き起こした国でもあるでしょう? ただ一方ではその文化に対する憧れも確実にあった。だから二律背反した思いも抱えているんだけどね。特に今の世の中を見ると、そう思う。こちらはヒッピーに代表される、精神の文化も伝えていたつもりだったのに。

牧村 愛と憎しみは表裏一体なんですよね。

シティポップというと、都会的で物質的な音楽というイメージが強くありますが、そのルーツを伺うと、とても複雑な背景を抱えていたことがわかります。

牧村 お洒落っていうのはのちについた感覚で、スタートはいつだってマイノリティの側だったし、売れているものにはアンチでいようと決めていました。「シュガーベイブ」も竹内まりやも、「フリッパーズ・ギター」も、次の時代はという気持ちでつくり出し、応援したものです。21世紀になって高い評価を得ていること、それはそれで満足すべきですけれどね。

松山 ぼくも牧村さんもお洒落な服を着ていても、心はパンクなんだよね。

FACE RECORDS MIYASHITA PARK

渋谷のMIYASHITA PARK内にショップを構える、中古アナログレコードショップ。JAZZ、ロック、シティポップをはじめとするレコードに加え、機材や雑貨なども扱っており、初心者でも楽しめるお店だ。

住所/東京都渋谷区神宮前6-20 MIYASHITA PARK 南地区3階
TEL/03-6712-5645
※営業時間はお店にお問い合わせください。

牧村憲一

1946年、渋谷区出身の音楽プロデューサー。加藤和彦、「シュガーベイブ」、山下達郎、竹内まりや、大貫妙子といったアーティストの制作・宣伝を手がけた、シティポップムーブメントの最重要人物。1980年代後半からは「フリッパーズ・ギター」やカジヒデキといった渋谷系アーティストのプロデュースに携わるなど、一貫して東京の音楽を追求してきた。現在『マイ・シティポップ・クロニクル(仮題)』を編纂中。

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