2024.4.20.Sat
今日のおじさん語録
「高いところへは、他人によって運ばれてはならない。/ニーチェ」
イラストは松山さんが描いた、BRICKSのブルゾンを着た高橋幸宏さん。
松山猛の<br />
70年代日記
連載/松山猛の 70年代日記

激動の70年代を
共に過ごした
旧友、高橋幸宏に捧ぐ
〝ユキヒロのこと〟

文・イラスト/松山猛

2023年1月11日、高橋幸宏さんが亡くなった。なんと50年以上にわたってシーンの最先端であり続け、その穏やかな人柄で後進のミュージシャンたちに慕われた、まさに音楽界における〝ぼくのおじさん〟。また、加藤和彦さんと並び世界で最もお洒落なミュージシャンとしても有名な彼は、どんな熱気を帯びたステージでも涼しい顔をして、トム・ブラウンやプラダのスーツを颯爽と着こなし、正確無比なドラムを叩いた。実は本誌でおなじみの松山猛さんは、1970年代前半にはサディスティック・ミカ・バンドの作詞を手がけており、当時の高橋幸宏さんと深く親交をもったひとりだ。今回はそんな松山さんに、高橋幸宏さんへの追悼の言葉を綴ってもらった。

ユキヒロとぼくはサディスティック・ミカ・バンドを通じて出会った。

バンドの初期メンバーだった角田ヒロ(つのだ★ひろ)が自分のバンドを始めるために抜けたあと、新しいメンバーとして小原礼とともに参加したときだから、たしか1972年のことだったと思う。

アロハシャツのデザインのファーストアルバムを制作するのに、ぼくは作詞家として、彼らメンバーとよく顔を合わせるようになっていた。

すごく痩身な彼はお洒落な雰囲気を持っている人物で、それは彼のお姉さん(※1)がファッション・メーカーを営んでいるという環境に暮らしてきたことも、影響していたに違いない。

(※1)高橋幸宏さんの姉、伊藤美恵さん。1944年に生まれ、デザイナーの花井幸子さんのもとで修行したのち、1970年に高橋幸宏さんと「バズショップ」をオープン。解散後の1985年に今も続くプレスオフィス「ワグ」を設立し、数多のブランドのPRを歴任。アタッシェ・ド・プレスの先駆者として活躍し、2009年にはフランス政府から芸術文化勲章を受勲する。息子はSOEを手掛けるデザイナーの伊藤壮一郎さん。

当時のぼくたちはロンドン発のファッションにたいそう影響されていた。ファッションデパートのBIBA(※2)が開店し、話題となっていた時代だった。そしてまたブリティッシュロックのスターたち、ローリング・ストーンズやスモール・フェイセス、もちろんビートルズたちの出で立ちや、エルトン・ジョンのポップなファッションが素敵な時代だったし、ぼくも1971年に初めてロンドンに出かけたときには〝ミスター・フリーダム〟(※3)のポップなシャツや〝グラニー・テイクス・ア・トリップ〟(※4)のラメ的な細身のスーツ、エルトン・ジョンも贔屓にしているという、ケンジントンマーケットの靴屋さんで誂えた黄色のロンドン・ブーツに身を包んで帰国したものだった。

(※2)1960年代前半にロンドンでオープンしたショップでありブランド。今でいうストリートカルチャーの先駆けと言われるショップで、スウィンギングロンドンのムーブメントを牽引し、大ヒット。1973年にはデパートまでオープンするが、1975年には閉店。
(※3)1960年代半ばから70年代前半に一世を風靡した、ロンドンのブランド。ポップでサイケデリックなデザインで知られる。
(※4)ロンドン初のサイケデリックブランドとして、ミュージシャンに愛されたブランド。直訳すると「おばあちゃん旅に出る」。

余談になるがその1971年のロンドンの旅では、山本寛斎さんの初めての海外でのファッションショーが、当時大人気のフルハムロードの広場で開催され、その情報を出発前に高橋ヤッコさんから聞いていたぼくは予定を合わせ、ヤッコさんと一緒にショーを見ることができた。しかも隣の席には、そのころ人気だったキャット・スティーブンスが座っていて、ぼくは彼の『SAD LISA』という歌が好きだったので、そのことを伝えたらとてもよろこんでくれた。

その翌年にも、原宿のファッションデザイナーの人たちと、ぼくはパリとロンドンへの旅に出た。そして前年とは違い、もう少しシックな雰囲気のファッションに目覚めたのだ。それはパリのファッションの持つエレガントさを見たり、ロンドンで人気を博しだしたブラウンズ(※5)などに巡り合ったりしたからだった。その当時のブラウンズは、ポール・スミスがアドバイザー・スタッフだったそうだ。そしてその旅では、ロンドンを歩いていたときに、偶然にもミカバンドのメンバーたちとすれ違うというハプニングもあった。

(※5)1970年に設立され、今も営業を続ける、ロンドンの老舗セレクトショップ。現在はオンラインストア「ファーフェッチ」の傘下にある。

サディスティック・ミカ・バンドのレコーディングなどでよく顔を合わせるうちに、ユキヒロと加藤和彦とぼくの3人で、ファッションブランドをつくろうかという話が出てきた。それだったらみんなが好きなイギリスやフランスなどの、ヨーロッパにちなんだ雰囲気を持つ名前がよかろうと、ブランド名はぼくが提案したBRICKS(※6)に決まったのだった。

(※6)松山さんに詳細を聞いてみたところ、ブリックスは仲間内でやっていただけで、どんな規模のブランドで、どこで売っていたかはよくわからない、とのこと。おそらく1970年に高橋さんと姉の伊藤美恵さんが立ち上げた「バズショップ」から派生したと思われる。松山さん自身は1年経たずでこのブランドを抜けてしまったが、高橋幸宏さんはその後「ブリックス・モノ」というブランドを立ち上げ、デザイン活動を継続することになる。

BRICKSのブリックとは、焼〆られた煉瓦のことで、堅牢で飽きのこないものづくりをしようという思いを込めたネーミングだった。デザインのミーテイングは西麻布にあった、ユキヒロのお姉さんのアトリエで行うことが多かった。あのとき、開業の記念につくったのが、煉瓦素材の四角い灰皿。あれは今もきっとどこかにしまい込んであるはずだ。

さて最初のコレクションは、リバーシブルになった厚手コットンのジャケットで、ベージュとえんじの組み合わせのものなど。これはウエスト部分にゴムを入れてシェイプしたデザインだった。そのほかには身頃と袖で異なる色の素材使いをしたシャツなどをつくったことを思いだす。最初のコレクションは、ヨーロッパの古きよき時代のカジュアルなスタイルを目指した。それは戦後のフランスを撮影した写真の中の、若い人々が着ているような雰囲気を持つスタイルだった。その時代のぼくは、パリの蚤の市などで、そんなヴィンテージの服を見つけては、自分のスタイルとしていたからだ。しかしそのあとぼくは雑誌編集の仕事が忙しくなってしまい,BRICKSとは距離ができてしまったが・・・。

ミカバンド当時からユキヒロは釣りを趣味としていて、ぼくは彼と一緒に、津久井湖へブラックバス釣りに出かけたこともあった。ぼくは雑誌『平凡パンチ』の仕事を通じて、イギリス的な釣りの名人だった、同誌のデザイナーを務めていた芦沢一洋さんなどの影響を受け、一応のルアー釣り道具を持っているとユキヒロに話したのかもしれない。

早朝彼が車で迎えに来てくれて、津久井湖に行った後、船宿で昼食の丼を注文してから釣りのポイントまで送ってもらい、ふたりでブラックバスを狙うのだが、一向に釣果はなかった。お昼頃に船宿のおじさんが届けてくれた丼を食べ、夕方まで釣りを続けた。また湘南の浜辺でも、ふたりで釣りを楽しんだことがあった。

そんなときにはあれやこれやと、様々な話をしたが、もうずいぶん昔のことで、何を話したかは記憶からぬけ落ちてしまった。

ミカバンドはアルバム『黒船』をリリースし、ぼくが書いた『タイムマシンにお願い』などをヒットさせたが、彼らはロンドン公演をするまでになった後に、あっけなく解散してしまう。それからはユキヒロと会うこともほとんどなくなってしまった。

ちなみにあの『黒船』のトータルアルバムとしてのコンセプトや、鋤田正義さんに撮影していただいたアルバムカバーのアートワークなども、ぼくが手掛けたものだった。

やがてユキヒロがYMOで大ブレークしたのちに、時折、渋谷のBARなどでばったり会ったりもした。その夜の彼が〝モンクレール〟のツイード地の、ジャケットとお揃いのダウンベストを着ていたのを、今鮮明に思い出した。

音楽の世界でも、ファッションの世界でも、抜きんでた才能の持主だったユキヒロは、残念なことに闘病生活もむなしく帰らぬ人となってしまった。若かった時代に、楽しさを分かち合った仲間との別れはつらいものだ。だがぼくたちがいっしょに築いた素敵なものは、未来へと残すことができたと思いたい。

ありがとう、そしてさらばユキヒロ、安らかに眠ってくれ。

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