2022.10.4.Tue
今日のおじさん語録
「役者というのは、行をする者、自分というものをよく考え、見極める者のことやと思う。(藤山寛美)」
松山猛の<br />
70年代日記
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連載/松山猛の 70年代日記

1970年代のクリエイターは
こんなにも自由で
格好よかった!

撮影・文/山下英介

『POPEYE』や『BRUTUS』の創刊に携わり、近年では〝時計王〟としても有名な編集者、松山猛さん。アメカジ、機械式時計、フィルムカメラ、クラシコイタリア、台湾、グルメ……。実を言うと現代のぼくたちが楽しんでいるファッションやカルチャーとは、ほとんどが彼の影響にあるものだ。今も変わらず、未知なる物事との出会いに興味津々な〝ぼくたちのおじさん〟松山猛さんに、今最も気になっている〝1970年代〟を振り返ってもらう本連載。初回はファッションブランドTUBEのデザイナー、斉藤久夫さんとの対談をお届けする。

1970年代、人間そのものがメディアだった。

もともと松山さんと斉藤さんの出会いはいつだったんですか?

松山猛(以下松山) 70年代後半かな。ぼくが『POPEYE』をやっていた頃で、斉藤さんがポール・ハウイを取り扱い始めたくらい? ロンドンのデザイナーで、トラディショナルだけれどちょっとポップなニットをつくってたんだよね。

斉藤久夫(以下斉藤) ぼくにとっての70年代は、世界中でいろんなものを買って、どこかに売って、という毎日だったけれど、松山さんは色々なものを見つけて、有名にするのがうまい人だったでしょう? それでぼくが引っかかったんだろうね。誰かに引き合わせてもらって。

70年代の松山さんは、どんな存在だったんですか?

斉藤 何かの本に書いてあったような気がするけれど、都市探検家だね。当時、松山さんが「俺は若者が興味をもつような〝入門書〟をつくるんだ」と言っていたのが、とても印象に残っている。最近の若い『BRUTUS』の編集者にも伝えたんだけれど、すごくいい言葉だよね。

当時は、お二方とも神宮前に住まれていたんですよね?

松山 ぼくはその頃神宮前の国立競技場の近くに住んでいて、長髪にロンドンで買ってきた、黄色いプラットフォームシューズ姿。アパートの近くでは機動隊とデモ隊がよく争っていたけれど、みんな俺だけ避けて通るの(笑)。斉藤さんは?

斉藤 俺も神宮前。ビームスが6坪のお店をオープンしたときは、たまに覗いたよ。小さなお店で古い靴とかを売っていて、最初は古着なんかもあって、面白かった。

松山 あとUCLAものとか、フレアパンツやヘンテコなアロハシャツね。

斉藤 当時のノア原宿ビルは40軒くらい店子が入っていて、2階なんて2坪、3坪のわけわかんないお店ばかりで、不思議なビルだったよね。原宿はもっといい街だったよ。ちっちゃいお店がそれぞれ頑張っていたから。

松山 まだ大資本が目をつけていなかったよね。

斉藤 このあたり(青山のTUBEの事務所)も、まだ根津美術館くらいしかなかったよ。コム・デ・ギャルソンが小さなお店を構えていた骨董通りは、まだ文字通り骨董屋街で、50軒くらいあったかな? そういえば俺がいた神宮前のマンションには、川久保玲さんが住んでいた。しかし原宿も骨董通りも、今どきのスニーカー屋さんと、横ノリ系ショップばかりに様変わりしたな。

松山 俺、1973年に川久保さんや15人くらいの原宿仲間と、パリやロンドンに旅行に行ってるんだよ。その中にはドン小西もいた(笑)。

斉藤 彼女は俺より少し上の世代だけれど、初期は雪柄のセーターをつくったりして、アイビーお姉さんだったね。寡黙な人だったな。

すごい豪華メンバーですね(笑)。しかしまだ携帯もない時代ですが、どうやって人と出会ったり、情報をキャッチアップしていたんですか?

松山 当時は人間自身がメディアだったからね。ヨーロッパから帰ってきたガマ(デザイナーの故・村松周作氏)に会った時は、パリの匂いがプンプンしていた。まだ誰も知らなかった、ジェイエムウエストンのローファーを履いていてね。そういう面白い人やモノに出会った時、ただ通り過ぎるんじゃなくて、気になったら直接聞くんだよね。

クリエイターの〝ゆるい〟コミュニティ

斉藤 原宿、青山、代官山あたりは新しい人が、新しいことをやり出していたから。なんでもやってみようぜ、というノリだったよね。今みたいに、ビジネスビジネスしていなかったし。

松山 あと、ぼくの場合はレオンも出会いの場になっていた。今のラフォーレの向かいにあった、セントラルアパートの1階にある喫茶店なんだけれど、当時の売れっ子クリエイターが集まっていて、情報の交差点のような存在だったね。

伝説のマンション、伝説の喫茶店ですね。

斉藤 俺はあまり行かなかったけれど、夜の遊び場に行くと、誰かしら生意気で面白い連中がいたよね。ゆるーいコミュニティだけど。

松山 吉田カッちゃん(吉田克幸氏)、垂水さん(ゲン垂水氏)、重松さん(重松理氏)、設楽さん(設楽洋氏)、マガジンハウスの秦さん(秦義一郎氏)……。

斉藤 あと、ポール・スミスともよく遊んだよね。

大物ですね! 当時から日本に来ていたんですか?

斉藤 彼はロンドンの「ブラウンズ」というセレクトショップでアシスタントをやっていたんだけれど、最初はイタリアとかイギリスで買ってきたいろんな服に自分のネームをつけて売っていたの。

松山 あの人は一流のコーディネーターだったよね。

というと、109のデザイナーさんが韓国で買ってきた服に自分のタグをつけて売るみたいな……(笑)?

斉藤 ああ、そんな感じ。それのヨーロッパ版だったよね。

あっさりと(笑)。

松山 当時は「ブラウンズ」の勢いがすごくて、ぼくも加藤和彦と行ったりしてたけど、そこからマーガレット・ハウエルも出てきたんだよね。

斉藤 お姉さんのジーン・ハウエルという人もいて、彼女はハンドニットが得意だったのよ。で、こちらも彼女に影響されてつくり出したの。

TUBEの名品として知られるハンドニットは、そこから来たんですね!

斉藤 70年代は、ジョルジオ・アルマーニもまだバルバスのファクトリーネームで売っていた。1975年に、社長からこんな奴が今度デビューするんだ、なんて聞いていた。当時はまだ安くて、スーツで7万円くらい。ダーバンと同じだったから、そりゃこっちを買うだろう、と。でも彼はオーダーしたものと、全く違うものを送ってくるのよ(笑)。それじゃあ売れねえだろう、と思って輸入屋さんはやめて、「企画屋」と呼ばれる仕事を経て、自分で服をつくり出した。それがTUBEだったね。企画屋の頃は紙と鉛筆だけで年に5000万円くらい稼いでいたから、お金持ちだったな(笑)。

それが1979年ですね。

お金よりも、衝動に従って生きる

斉藤 俺が世界中から集めてきたゴミ(笑)を、松山さんにはずいぶん拾ってもらったな。TUBEの設立のときも、ずいぶんお世話になったよ。

松山 他の雑誌の真似や後追いは嫌だから、TD6(当時の日本のトップデザイナー集団)を使わない、モデルは素人、というのを課していた。『BRUTUS』のグレーフランネル特集では、斉藤さんにもモデルとして出てもらったね。

純粋に新しいこと、面白いものを読者に叩きつけるかのような内容ですよね。フォーマットとか、システムにとらわれていないというか。

松山 流行に乗るんじゃなくて、産み出す感覚だよね。グレーフランネル特集も、自分が父親になろうとする実感をきっかけにつくったわけだし。

すごい影響力だったわけですが、そうなると広告やビジネスの誘いもすごかったでしょうね。

松山 それが、お金を稼ぐ方法論には興味がなかったの(笑)。『POPEYE』を始めた頃なんて、タイアップの話が来ると、次郎さん(石川次郎氏)が「そんなもん面倒だから断れ」って言ってたくらいだからね。

斉藤 仕事というより、友達付き合いの中から生まれてくるものが多かったね。最近、とあるブランドに、なんでこの名前なの?と尋ねたら、「頭文字がAだから、クレジットの一番最初に載るんですよ」なんて言われてさ。今のブランドって、そういうところまで計算されてるから。知らねえよ、そんなの(笑)。

おおらかな時代ですね(笑)。

斉藤 おおらかというより、俺たち自身が、世の中から〝あいつら〟呼ばわりされる連中そのものだったんだよ(笑)。お金とか利益では繋がっていなかったし、それでも食えたからね。

松山 バカだったんだよね(笑)。そういうノリを嫌っていたところもあるし。

そういう人もいたんですか?

松山 ぼくたちより若いやつらがすばしっこくて、こっちが安いギャラでも楽しいからいいか、とやっている間に、情報をうまいこと整理して、ビジネスにしていくわけ。○○○○○の幹部になったヤツもいるからね(笑)。

それはもうかるでしょうね(笑)。

斉藤 目ざとかったね。どの時代にもお金の匂いがするヤツはいるからな。

1940年代生まれにとっての「ぼくのおじさん」とは?

このメディアは「ぼくのおじさん」なんですが、お二方にとって、「ぼくのおじさん」的存在はいたんですか?

斉藤 俺はいないんですよ。上の世代が「これ純毛ですか? 高級品ですか?」なんてやっている一方で、こちらはイエナで買ってきた洋書やヨーロッパ映画を観て、「俺らが普段目にしているものと、これは何かが違うぞ、ほしいな」と思っていたわけ。

上の世代に対して反発心があったわけですね。VANの石津謙介さんには憧れましたか?

斉藤 格好よかったですよ。でも1967年に初めてアメリカに行って、これは嘘なんだとわかっちゃったから。つまり1963年と67年って、全く別の時代なの。ビートルズやストーンズ、ビーチ・ボーイズが出てきているからね。

松山 ファッションでも本物が出てきたからね。ぼくの場合はジャズメンだな。高校1年からジャズクラブに行っていたから。モダン・ジャズ・カルテットのコンサートに行ったら、燕尾服を着て出てきたのには驚かされた。

斉藤 松山氏は京都生まれでマセてるから(笑)。ジャズやウエスタンって、5つくらい上の世代のちょっと高級な趣味で、俺らはロック。六本木や赤坂の100円をジュークボックスに入れると音楽がかかるようなディスコで、一杯飲んで朝までずっと踊ってるわけ。タケ先生(菊池武夫氏)はジャズだったね。新宿のジ・アザーというディスコにいるのを見て、あの靴格好いいからぶっとばして盗ろうか、なんて狙ってたよ(笑)。

ふたりとも不良だったわけですね(笑)。そしてやはり、海外への憧れが強かったと。

斉藤 ロンドンはスウィンギング・ロンドン。イタリアはマストロヤンニ的大人の世界。フランスはヌーベルヴァーグ。N.Y.はN.Y.、L.A.はL.A.……といった具合に、当時の海外は今の均質化された世界と、全く違ったからね。俺たちの世代は、それを実際に見ることができたから、前の世代とはだいぶ感覚は違ったんじゃないかな。

松山 話は逸れるけど、70年代はパリも面白かったよね。シャンゼリゼの裏側にラグノースポーツっていう小さいお店があったんだけれど、そのオーナーがお店を閉めるとき、半世紀以上にわたって集めた在庫を全部買い取って始めたお店が、エミスフェール。

現在はアナトミカで活躍している、ピエール・フルニエさんのお店ですね!

斉藤 俺がパリに行ったときは、その前だったけれど、オーナーのピエールは、サン=ジェルマンでグローブというお店をやっていた。アメリカ好きパリジャンかな。

当時の世の中は、1年、2年で全く違う世界になるから目が離せないですね。70年代には海外に行きやすくなるわけですし。

斉藤 だから松山さんがつくった『メイド・イン・USAカタログ』を見て、アメリカに行っちゃったわけ。そんなリアルな時代を過ごしたから、俺なんていまだにスマホなんてわからないんだ。

松山 ぼくは1960年代に『平凡パンチ』でやっていたサン=ジェルマン特集に憧れていたけれど、幸か不幸か『POPEYE』が始まってアメリカの仕事ばかりになっちゃった(笑)。ジーンズにダウンベスト、ワークブーツ姿で加藤和彦とばったり会ったときに「猛、アメリカになっちゃったの?」なんて言われたのはよく覚えている。

今の閉塞感のある時代感覚で見ると、1970年代って、とても自由で羨ましいです。

松山 それに関しては以前、若い編集者に、「今の世の中、面白いことはみんな松山さんに見つけられちゃった」なんて言われたけれど、ふざけんなよ、って思うよ。世の中に面白いことはどんどん湧き出しているわけで、見つけられないオマエらが悪いんだから。

でも、僕が松山さんのことを信頼しているのは、機械式時計ブームの立役者だったのに、それでお金儲けをしなかったからなんです。絶対ヴィンテージロレックスでひと儲けできましたよね(笑)?

松山 儲けそびれたんだよ(笑)。斉藤さんだって、ずっと自分がつくった服を着ているし、金儲けでやってないでしょ?

斉藤 自分の洋服か古着しか着ない。俺は安い服が大好きで、3800円の古着を「これずっと着られるかな?」って悩んでるから。いまだにゴミのような古着を平気で着ていますよ。まあ、俺たちはバカで能天気だからね。いまだに面白いモノが大好きです。

斉藤久夫

1945年東京生まれ。メンズファッション学院を卒業後、渡米。帰国後はその経験を生かし、アパレルメーカーや企画会社を経て、1979年に自身のブランド、TUBEを設立。大手セレクトショップのアドバイザーなども務める。

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