2022.10.4.Tue
今日のおじさん語録
「役者というのは、行をする者、自分というものをよく考え、見極める者のことやと思う。(藤山寛美)」
松山猛の<br />
70年代日記
連載/松山猛の 70年代日記

ヒッピー、ロック、
サヴィルロウ!
吉田十紀人と語る
男服と編集者の50年

写真・構成/山下英介
撮影協力/テーラーグランド

ぼくたちが今気になるファッションやカルチャーの、ほぼすべてに関わってきた、偉大なる〝ぼくのおじさん〟松山猛さん。そんな彼を50年にわたって兄貴と仰ぐデザイナーが、吉田十紀人さんだ。日本では数少ない、色気のある男服をつくるデザイナーであり、特にアウターやテーラリングをつくらせれば天下一品。あのバブアーにも認められた超大物である。今日は名うての酒豪として知られる彼に、しらふでの師弟対談を依頼! テーマはファッションとはいったものの、もちろんそれで終わるはずもない。ファッションとカルチャーとがぐちゃぐちゃに絡み合って生まれた、時代の熱気を感じてほしい。

1971年、ヒッピー少年と
ロンドン帰りのライターが出会った

歯に衣着せぬ率直な物言いでも知られ、筋の通らないことを嫌う反骨精神の持ち主、吉田十紀人さん。その妥協を知らぬものづくりゆえ、寡作ではあるが多くの熱狂的なファンをもつ、孤高のデザイナーだ。ちなみにブランド名〝TOKITO〟から、名前も「ときと」だと勘違いしている方も多いが、本名は「ときひと」なので、お間違えなきように。
おふたりの出会いはいつだったんですか?

吉田 1971年です。16歳、高校2年生のとき。ちょうど〝70年安保〟の闘争が終わった頃で、ぼくも学生運動に参加していたんですが、一般学生の間では、あっという間に火が消えたようになってしまう。で、敗北感を抱えた先輩たちにロック喫茶だのディスコだのに連れて行ってもらっているうちに、けっこうマセちゃったんですよね(笑)。

16歳で学生運動とは、確かに早熟ですね。

吉田 いや、学生運動は15歳、高一からです。ぼくはさすがに火炎瓶は投げなかったけれど、中学生に持たせているセクトもあって、さすがにちょっとひどいんじゃないのって。捕まっても罪が軽い連中を戦闘に送り出すわけよ。

松山 どんな戦争も同じだよね。

吉田 その後時代はLOVE&PEACEに移って、代々木のヒッピーイベントで出会ったメイと呼ばれる人に誘われて行ったのが、国立谷保天神近くの通称〝キチ○イアパート〟で、松山さんはその住人だったの。

松山 本当の名前は渡辺アパート。あそこは本当にすごかったよね(笑)。俺は俺で、京都から東京に出てきたものの、色々とつまづきがあって、たどり着いたのがそのアパートだった。

吉田 もともと立川に駐留していた米軍将校たちの娼館だったらしいですね。だから洋風のつくりで、土足でもOK。しつらえもアメリカ風だった。

松山 バラックみたいな感じだったから、みんな好き放題に改装していた。みんな貧乏な時代だったよね。

吉田 昼間は日本道路公団に勤めていたヒッピーの女性とか、駆け落ちした漫画家夫婦とか、ミュージシャン、画家など面白い人たちばかりでしたね。みんな仲がよくて、空いている部屋だったらどこで寝てもいい、みたいな。あの頃は高校生とわかってもみんなタバコを吸わせてくれたし、酒も飲み放題。自由な時代でしたね。

十代半ばにしてジャズ喫茶に入り浸っていた早熟の吉田さん。写真は1971年の『スイングジャーナル』誌で、新宿の有名ジャズ喫茶「DUG」にいたところ編集者に声をかけられ、よくわからないままに撮影された1枚。雑誌の発売後、隣にいるのが当代きってのサブカルチャー界の大物、JJこと植草甚一さんであることを知ったという。

松山 電気釜を持って男たちの部屋を渡り歩いている女の子もいた。なぜかその後みんな病院に行っちゃうの(笑)。俺が〝電気釜のマリア〟と命名したんだけど。もう、小説を地でいくような世界だったよ。

松山さんはそのときは、もうライターだったんですか?

松山 そう。『平凡パンチ』をやっていた。当時はヌードページに添える文章を書いてたんだけど、その1週間分のギャラが6万円だったの。しかも現金払い。

吉田 当時の大卒の月給くらいですよね。

松山 平凡出版はタクシー券が出たから、築地から国立までタクシーで帰るんだけれど、そうするとみんな俺が帰ってくるのを待ち構えているんだよ(笑)。

吉田 お酒が飲めますからね。次に食料を提供していたのがぼくで、実家住まいだったから、うちの冷蔵庫にある食料品を根こそぎ持っていくと、すごく喜ばれるわけ。

ミリタリー風デザインが気に入ったというジョルジオ・アルマーニのレザージャケットに、フィレンツェの注文靴工房「マンニーナ」でつくったオーストリッチレザーのUチップを合わせた松山さん。
吉田さんは当時でいう不良だったんですか?

吉田 世間的に言えば、ナンパと言われる類かな。喧嘩をするというより、大人の世界をのぞきたいという。ぼくは長男だったので、なにしろ兄貴がほしくて仕方なかったんですよ。そんなところに現れた、一番有力な兄貴が松山さん。暇そうにしていると、いつもくっついて歩いていました。あの頃の東京において、松山さんは誰よりも早い生きた情報源だったから、すべてが面白くて仕方がなかったですよ。

そのとき、吉田さんはどんな格好をしていたんですか?

吉田 学生運動の頃は、アメリカ軍のサープラスものを上野で調達していました。引っ張られたり殴られたりしてもいいようにね。で、当時のヒッピームーブメントの流れに乗って、ピースマークのバッジをつけてデモに参加するわけです。そんな時代が終わってまわりが髪を切り出した頃に、ロンドン帰りの松山さんと出会った。そこでグラムロックやロンドンポップを知り、英国ファッションに傾倒しはじめたんです。

松山 俺は黄色いロンドンブーツを履いていたね。あれはケンジントンマーケット近くにある、エルトン・ジョンも通っていた靴屋で買ったんだけど、エルトンよりもソール分厚くしてもらったから(笑)。

吉田 ぼくもロンドンブーツがほしくて仕方なかったけれど、当時は2万5000円くらい。国産だったら立派なトレンチコートが買える値段ですよ。なので親にコートを買うお金をもらいつつマルイの月賦で買って、浮いたお金で青山にあるHOSONOのロンドンブーツを買っちゃった(笑)。それで学校に通って、家には帰らずに、みんなが可愛がってくれる〝キチ○イアパート〟で寝泊まりするんです。で、松山さんの服を内緒で着ちゃうわけ。当時はふたりとも痩せてたから、サイズが合ったんです(笑)。

松山 Mr.freedomというブランドのジャケットとか、シリアでオーダーした毛皮のコートとかね。

吉田 あれを羽織って学校に行ったら、さすがの教師もびっくりしてました。

松山 あのコート、どこに行ったんだろう。吉田、持って行った?

吉田 借りはしましたけど、さすがに持って帰りませんよ(笑)! そんな格好で、松山さんから教えてもらった洋雑誌を小脇に抱えて、5歳上の彼女を連れて歩くんですよ。田舎町だった国立では、相当生意気に目立っていたと思います。

ヒッピーにもロンドンポップにも冷め、ヨーロッパ嗜好になった、18歳の吉田さん。当時はフレンチブランド全盛期で、マルイにも直輸入のセリーヌや、ライセンス生産だったサンローランが売られていたとか。

松山 「邪宗門」という喫茶店の看板娘のひとりだった女の子!

吉田 そう。おじさんたちの嫉妬の目線を感じながら街を闊歩していたという(笑)。それで〝キチ○イアパート〟に行きづらくなっちゃうんですよ。

松山 俺も1年半くらいしたら、神宮前のアパートに引っ越したしね。

『BRUTUS』を手掛けていたころの松山さん。左手で輝いているのは自身が火付け役を務めたロレックス。1979年に購入したものだ。 

デザイナーが編集者にもなれた、
1970年代という時代

吉田 確か共同生活してましたよね?

松山 今でいうキャットストリートにあるアパートでね。5〜6人のクリエイターが2段ベッドで寝泊まりする梁山泊みたいな場所で、私物はバスケットふたつ。あそこは台所でずっとシチューを煮ていて、誰でも食べていいんだけれど、食べた後は野菜を刻んで入れておくという謎のルールがあった。老舗のうなぎ屋のタレみたいなシチューだったね(笑)。

吉田 ぼくはその後桑沢デザインに入って、松山さんとはいったんお付き合いが途絶えるんですが、1975年にメンズビギに入社してから再会するんです。ほら〝おイワ〟さんの口利きで。

おイワさんとは?

松山 ああ、イラストレーターの岩崎トヨコ。あいつには俺もずいぶん世話になった。スタイリストの堀切ミロさんや川村都さんと〝全ブス連〟というのをつくって、『婦人公論』に書いたりしてたの。

吉田 彼女が「吉田は私の甥っ子だから」って、経歴詐称してタケ先生(菊池武夫さん)に紹介してくれて。あとでバレて怒られるんだけど(笑)。最初は企画室の新入りが貸出担当も兼ねていたんですが、そこにやってきたのが『POPEYE』をやっていた頃の松山さん。

当時のメンズビギといえばある意味花形だと思いますが、それがどうして編集者に転向して、『POPEYE』で働くことになるんですか?

吉田 ぼくが入った頃、メンズビギはBIGIグループから独立していたんですが、1980年に再び再編されることになった。そのときタケ先生に呼び出されて「不良社員を5人クビにしなきゃいけないんだけど、お前が筆頭なのよ」って言われて(笑)。それで、『POPEYE』に押し込んでもらったんですよ。

当時のアパレルはそもそも不良の集まりですから、そこで不良社員扱いされるとは、よっぽどですね(笑)。

吉田 辛かったけど仕方ないから辞めたんですが、後の4人はその後も働いてたんですよ! で、タケ先生と飲んでいるときに問い詰めたら、「いや、アイツら謝ったんだよ」だって。謝れば許してもらえたのかって(笑)。ともかく、しばらくスタイリストのような仕事をやりながらブラブラしていたんですが、松山さんに拾ってもらって。ちょうど『BRUTUS』創刊時期だったから、『POPEYE』にも空きが出たんだろうね。最初は600文字の原稿を3日間徹夜して書いてました。

当時の『POPEYE』は西海岸スタイルの火付け役なわけですから、吉田さんの今のイメージとは全く結びつかないんですよね。 

吉田 音楽はともかく、当時の西海岸ファッションはあまり好きじゃなかったから、隙間を狙っていましたね。ぼくは中学生の頃にアイビーを卒業してからはアメリカものって参考程度にしか見ていなかったんです。だからパンクを経て、『さらば青春の光』(1979年)の影響からモッズに走り、その後DEVO、B52、ポリス、トーキングヘッズあたりからテクノという流れです。でも、『POPEYE』をやっていた時期に再びアメリカものに向き合えたのはいい経験だと思っています。

当時から英国嗜好だったんですね! でも1970年代後半〜80年代前半、イギリスやヨーロッパものは東京で売っていたんですか?

吉田 すでにいろんなものが入っていました。いわゆる定番のバブアーあたりはCBSソニーの通販で買えたかな。あとラコステもアメ横で売っていて、『POPEYE』の提案でリバイバルしていました。

松山 ラコステは、デザイナーのジャンニ・ヴェルサーチが愛用していたんだよね。70年代後半に彼を取材したときに着ていたのを見て、面白いから流行らそうということになって、『POPEYE』で紹介した。アメ横からラコステが消えたよ。

吉田 そう。日本でラコステのリバイバルブームに火を付けたのは松山さんでしたね。

松山 ヴェルサーチは、ミディアムグレーのラコステに、リーバイスのグレーのコーデュロイパンツ、クラークスのデザートブーツと、微妙にトーンをずらしたグレーの着こなしが格好よかった。ローマ彫刻みたいな顔立ちの人だったよね。

すごいシックな着こなしですね! 今のヴェルサーチというブランドのイメージとは正反対だなあ。アルマーニはどうでしたか?

吉田 デザインの力量もさることながら、ビジネスを熟知したデザイナーだと思っていました。彼がメンズファッションを大きく変えた功績のひとつは、既製スーツのサイズを減らしたことでもあるんです。当時のメンズジャケットって、英国の場合34〜42というサイズ展開に加えて、レギュラー、ショート、ロングという3つの着丈を揃えなくてはいけなかった。そのレギュレーションを変えて、袖詰めだけでよし、としたのがアルマーニ。生地は高級でしたがデリケートで、すぐにダメになるんですが。

松山 テーラードをやる前の、ミリタリーアレンジのアルマーニのほうが俺は好きだな。今日着ているのもミリタリー系のアルマーニだし。

では、吉田さんはどんな格好をしていたんですか?

吉田 メンズビギに勤めていたときは、自社の洋服以外だとロンドン出張時に「ブラウンズ」で買ったセーターとか、マーガレット・ハウエルのシャツ、ポール・ハウイのパンツあたりかな。その後はヴィヴィアン・ウエストウッドがやっていた「セディショナリーズ」のパンクファッションですかね。そこからテクノへと流れていくんです。

当時としては異常に洗練されてますね!

松山 だよね。ヨーロッパといえば、1981年に俺が初めて時計取材でスイスに行った時、吉田も連れて行ったよね?

吉田 鞄持ちです。松山学校の修学旅行と称してね。あの頃は『POPEYE』でも色々あって、2年で辞めてしまったんですよ。その後はライバル誌の『Hot Dog Press』とか、諸々の雑誌仕事で食いつないでいました。そんなときに誘ってもらえた初めての海外取材だったから、本当に感謝しています。スイス、ミラノ、オーストリア、フランスと巡って、打ち上げはパリのメゾン・ド・キャビア。メンズビギの頃も海外に行っていたけれど、雑誌の世界って千差万別で、興味深いモノやコトがあれば、どこにだって行く。それが面白いですよね。でも、その後ぼくは雑誌をやめて、ハロルズギアというブランドを設立するんです。確か1984年だったかな。

1980年代、デザイナーに
転身した吉田十紀人の流儀

ここでついにデザイナー、吉田十紀人の誕生というわけですね! ハロルズギアといえば、クラシックな英国バイカースタイルを打ち出していた、かなり通好みのブランドですが、吉田さんはバイクに乗られていたんですか?

吉田 それが乗っていないの。本当いうとちょくちょく無免許で乗っていたんだけれど(笑)。当時隆盛を極めていたDCブームの反動で、クラフツマンシップが脚光を浴びた時代だったんだね。白山眼鏡店や吉田カバンのように、正統性のあるデザインをしっかりつくり込むという。バイクに関しても、SR400のクラシックモディファイが流行っていた。だからぼくも徹底的にクラシックな男服の勉強をはじめて、それをテーマに掲げたんです。

ハロルズギアは、かつてパルコあたりにも入っていたメジャーなブランドでしたが、実際のところ売れていたんですか?

吉田 いや、たいして売れていなかったかな。最初はバイク素人のファッション屋がバイクウエアなんてつくりやがって、という目で見られていたけれど、こちらは欧米のバイクウエアの原点を見て研究するから、当時の専門メーカーの特殊なデザイン性にも気づくわけ。しかも当時のバイクウエアってすごく格好悪くて、バイクを降りたらカフェにも行けないんだよ。
 そんなときに展示会に来てくれたのが、「ロイドフットウエア」や「ロイドアンティーク」などを立ち上げた豊田茂雄さん。ヴィンテージバイクのコレクターやレーサーとしても有名だった彼に、街乗り用としてほしいって言われたときは、手応えを感じたよね。

松山 ちょうどその頃、ハケットみたいなブランドも出てきて、英国トラッドが注目されていたからね。ハケットの共同設立者だったロイド・ジェニングスは有名な靴のコレクターで、よく蚤の市で会っていたな。

吉田 そうですか! ぼくはハケットが日本に進出するときに、プロモーションの企画に参加していたんですよ。ハロルズギアプロジェクトのオーナーとわずか2年でけんか別れしてしまって、企画会社を立ち上げた頃。ロイド・ジェニングスさんとジェレミー・ハケットさんには、面白いディープな夜のご案内もしていました(笑)。

吉田さんはその後ブレイズ・オブ・サヴィルロウやTOKITOといったブランドを手掛けてこられましたが、近年では2009年から2013年まで続いた、バブアーの最上位コレクション〝ビーコンヘリテージ〟ラインのデザインで知られています。バブアーのデザインに携わっていたということは、さすがに昔から釣りはやられていたんですよね?

吉田 釣りも昔はやっていませんでした。松山さんのほうがやってましたよね?

松山 ミュージシャンの高橋幸宏と一緒に、よく相模湖あたりに行ってたよ。

吉田 同じ系譜ですね(笑)。ぼくも幸宏さんからずっとフライフィッシングに誘われていたんです。向いているからって。実際に始めたきっかけは、バブアー本社にあるアウトレットで、ジャストサイズのジャケットとウェーダー(胴長)を見つけたから。そしたら次々と道具やアクセサリーがほしくなっちゃって、気がついたら幸宏さんの弟子になっていたという(笑)。で、バブアーでもフライフィッシングジャケットをデザインするようになりました。

バイクも釣りも、まずはファッションありきというのが面白いですね! そしてどちらのベースにも、英国があるという。

吉田 軍服の格好よさに通じる話なんだけど、アウトドアウエアって目的がはっきりしていて、意味のないポケットなんて、ひとつもない。すごく奇怪に見えても、入れるものやその配置が決まっているわけ。だから現在に至るまでの自分のデザイン論は、ここから始まったんだよね。

少年時代の吉田さんに、そういう片鱗は感じていましたか?

松山 いや(笑)。いつの間にかすごいことをやっていたよね。

すごいなあ、日本人が独学で身につけたデザインが、本場である英国の歴史あるブランドに評価されて、広告を出したわけでもないのに世界的に有名になってしまうなんて。だって吉田さんがつくられたバブアーのジャケットは、『007 スカイフォール』(2012年)で、あのジェームズ・ボンドも着ていましたからね! あれは今でも伝説的な格好よさです。

吉田 バブアーとのコラボレートは、2004年から始めたTOKITO360というコレクションが原型になっているんですよ。ミラノに持ち込んで展示したところ、つくりが複雑すぎて海外生産は無理って断られたけど、現地価格で20万円を超える日本製のオイルドジャケットがイタリアで結構売れて、一部のファッションマニアの間で話題になって。それがバブアーイタリアのファッションディレクターの目に留まって、2009年に〝Barbour The Beacon Heritage Range Limited by TOKITO〟が始まるんです。ロイヤルワラントと日本人の名前の併記なんて史上初のことだから、今でも誇りに思っていますよ。

世界的ボンドマニアとして名高い英国人David Zaritskyさんが、自身のサイト『The Bond Experience』にて、吉田さんがつくったバブアーを絶賛する動画。


 ジェームズ・ボンドのジャケットについては、映画のファッションディレクターが選んだもので、公開されるまで本社のプレスも知らなかった。なのでぼくが教えてあげました(笑)。ほかのブランドなんて何億円もタイアップフィーを払っているのに、こっちはタダで45分も着ているから、本社も驚いたことでしょう。でも、1円もボーナスはもらえなかったな(笑)。

松山 まあ、そういうもんだよね(笑)。

1980年代半ば〜後半にかけて、アウトドアにはまっていた時代の吉田さん。フィールドジャケットを2枚重ねしたスーパーレイヤードスタイルには、さすが『POPEYE』出身と唸らされる。上に着ているのはバブアーの『DURHAM』モデルだろう。
師匠である菊池武夫さんの影響は大きかったんですか?

吉田 タケ先生からは、デザインというより〝装う〟という服飾全般の本質を習ったと、今にして思います。タケ先生は常に時代の事象の流れに沿った提案をする人で、なにかの現象を捉えたらどんどん変わっていってしまう。フレンチ、イタリアンエレガントかと思ったら、急にロンドンストリートやヒップホップに傾倒しちゃったり。でもその捉え方とデザイン、着こなしが逸脱していて、しかも上品なんだよ。だって育ちがいいから(笑)。それこそ白洲次郎さんとか、伊丹十三さんのような上質な色気があるんだよね。でも、少年時代は相当に厳しくしつけられたらしいから、それがはじけたのかも(笑)。

菊池武夫さんのお父様は、いわゆる戦前の右翼の巨頭だったんですよね。ご本人も千代田区のお屋敷で育った、超お坊ちゃまという。

吉田 学べたかは別として、とにかく憧れました。あとタケ先生は、どんなトレンドに走っても、いわゆるクロージングの原型だけは絶対ほかの人にやらせなかったね。勤めていた当時は不思議に思っていたけれど、自分でスーツをつくるようになって理解できた。それが一番大切で、根幹になるべきことなんだって。

確かに吉田さんがつくるスーツやジャケットは独特ですよね。生地がものすごく重たくて、何年経ってもへこたれない。
1997年、自身の名前を冠したブランド、TOKITOを設立した頃。〝20歳以下お断り〟と謳い、現代では考えられないほどヘビーな生地と、本格的なテーラリング技術を駆使したジャケットやスーツは、何十年でも着られる完成度を誇った。のちにアウトドアへの傾倒から生まれたTOKITO 360コレクションが派生し、それがバブアーとのコラボレートにつながっていく。

吉田 スーツって、どんなにフィッティングしても、新品が一番格好悪いじゃない。おろしたての革靴のように。それが着る人の動きによって、身体になじんで格好良くなる。だからこそ一生付き合えるような生地であり、仕立てでなくてはいけないんですよ。

松山 俺は吉田がTOKITOのときにつくった麻のスリーピースを持っているけれど、すごくシャキッとするよね。インドでポロ競技を見に行ったときも、着て行ったよ。あれは英国がつくった階級社会の頂点みたいなものだから。

吉田 ぼくはサヴィルロウでスーツをつくったこともあるけれど、一生の体型変化に合わせられる縫い代の量に象徴されるように、あそこには洋服の知恵が結集しているんですよ。スーツだけじゃなくて、エベレストに行くどら息子のためにも特殊な洋服を誂えたりもしますし。そして、その基礎になっているのが、テーラリングの技術。だからぼくがつくったコレクション、そしてバブアーのジャケットには、そういった知恵をたくさん盛り込んだつもりです。向こうの人はちゃんと見てくれましたよ。

本格的に海外に行っちゃおうという思いはありましたか?

吉田 残念ながら日本で遊びすぎたね(笑)。

吉田さんが数年前にSANYO COATとのコラボレートにより手がけたコートは、複雑な設計でマニアを唸らせながらも、同社との契約によりわずか3シーズンで終了した幻の名品。吉田さんがつくる洋服は、ディテールやパターンに徹底的に凝りながらも、決して子供っぽくならない、大人の服だ。「ぼくの服を着ていると女性にモテるよ」という言葉には、確かに説得力がある!

デザイナーと編集者。
教えられることと、伝えたいこと

吉田さんのデザイナー人生において、編集者経験が役に立ったことってあるんでしょうか? 

吉田 いくつもあるけれど一番は、ぼくがつくる洋服は〝タイトルがつけやすい〟ということ。メディアに貸し出しするときにも、タイトルになるような言葉を添えてあげると、だいたいそのまま書いてくる(笑)。商品企画って、タイトルがしっかりしないと失敗だと思っているから。

松山 訳わかんない商品だと、原稿だって書きにくいもんね。

いちおう無駄にはなっていなかったと(笑)。それでは、吉田さんが松山猛さんから学んだことは?

吉田 松山さんは1970年代において、情報の最先端だった方じゃないですか。そういう方がぼくが社会人になるための道を拓いて、手をつないで連れて行ってくれたことには、本当に感謝しています。ぼくが暗い顔をしていると、いつもちょっと下世話なジョークを交えて、心を和ませてくれた。優しいんだよ。

松山 吉田は悩み多き青年だったし(笑)、俺は末っ子だったから、弟がほしかったんだろうな。それにしてももう51年の付き合いか。同級生以外では一番付き合いが長いんじゃないか?

吉田 お互い長生きしましたよね(笑)。

吉田さんは、これからやりたいことってあるんでしょうか?

吉田 ここ数年はほとんど下田で暮らしているから、スーツはもちろん、コートすらいらなくなっている。できることならやりたいけれど、そういう意味では今の動向がわからなくなっているんだよね。特に最近のハイブランドなんかは、ヒップホップ由来のデザインが多いでしょ? 最初はいいと思えなかったけれど、やっぱり優秀な人がやっているから、ここのところ、悪くないんだ、ということが理解できるようになった。でもそうなってくると、自分が見てきたものとは全く違う世界だから、なかなか難しい。バブアーみたいなものは、もはや掘り尽くされている感もあるし、スーツは近い将来消滅するんじゃないかとも思えてきた。

いやいや、このメディアはクラシックなファッションを好きな若者が読んでいますし、吉田さんのデザインを求めている人はまだまだ多いと思いますよ!

吉田 マニアばかりだけどね(笑)。そうだ。ぼく、お金にはならなくてもいいから、デザイナー志望の連中に向けて、先生をやってみたいんだよね。何クールかだけでもいいから、〝目的あるデザイン〟をテーマに、そのコツを教えたいんだよ。ひとつのコンテンツとしてやるのもいい。新人たちとのやり取りのなかで触発されたら、またやる気も出るかもしれないし。でも、なぜか母校の桑沢からはまったくお声がかからない(笑)。

松山 不良だったから(笑)。俺も昔、イラストレーターの原田治さんがやっていた学校で、編集教室をやっていたこともある。

それは贅沢な学校ですね! いっそのこと、『ぼくのおじさん』で開催しちゃいますか(笑)!?

松山 俺らがやってきた経験って、すごく偶然とか幸運が絡んでいるから、ほかの人に適用しにくいんだよね。だから教えようはないかもしれないけれど、今だって、伝えたいことはいっぱいあるんだ。

テーラーグランド

松山さんのホームグラウンド、横浜の山下町にあるビスポークテーラー。1930年に建てられたモダニズム建築のビルに構えたアトリエで、往年のウェルドレッサーを彷彿させる一着が仕立てられる、貴重なテーラー。アメリカンクラシックやブリティッシュスタイルが好きな方は、訪れて損はないはず!

住所/横浜市中区山下町25-2 インペリアルビル301
TEL/045-681-7050

吉田十紀人(よしだときひと)

1955年東京都出身。メンズビギのデザイナーを経て、雑誌『POPEYE』『BRUTUS』などで、編集者・スタイリストとして活動。その後バイカーズウエアブランドのハロルズギアや英国発ブランドのブレイズ・オブ・サヴィルロウなどを手がけ、1997年には自身の名を冠したブランドTOKITOを設立。2009年から2013年まで続いたバブアーとのコラボレートライン〝バブアー・ザ・ビーコン・ヘリテージ・リミテッド・バイ・トキト〟のデザインや、ウールリッチへのデザイン提供を経て、世界的に知られるようになる。現在は下田と東京を行き来しながら充電の日々を過ごす。

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