2024.4.27.Sat
今日のおじさん語録
「高いところへは、他人によって運ばれてはならない。/ニーチェ」
特集/ぼくのおじさん物語 『伊丹十三』 1

「ぼくの世界」を
確立するために
知っておきたい、
伊丹十三の十か条

文/林 信朗

おじさんたちがやたらと褒める伊丹十三って、いったい何がすごかったんだろう? そして今を生きるぼくたちは、伊丹十三から何を学べるんだろう? その疑問に、時代を象徴するファッション雑誌をたくさんつくった名編集長にして、業界きっての伊丹ファン、林信朗さんが真摯に向き合ってくれた。天才の流儀をぜんぶマネするのは無理だけど、すこしでも心に刻んでおけば、素敵なおじさんになれることは間違いなし!

写真提供/立木義浩

まったく古びない、
伊丹映画とエッセイ

写真提供/文藝春秋

 「ぼくのおじさん」創刊号の特集に、伊丹十三が選ばれたのがうれしく、とても喜んでいる。

 ぼくの青春期、20歳年上の伊丹さんはぼくが興味を持った男の服装や持ち物、クルマ、映画や飲食、欧米の生活文化などほとんどすべての分野において最も本質的で、洗練されたものの見方をしていた人で、それを専ら著作(『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『再び女たちよ!』)を通して教えてくれた、まさにぼくにとって頼りになる伯父さんであったからだ。

 今回の特集へ原稿を寄せるにあたって、手持ちの伊丹さんの著作を再読し、何本かの映画を見直した。イヤ、これが面白いんだなあ。半世紀前の出版などということをまったく感じさせない、着眼点と文章力。

 いまの若い方にも、伊丹十三の幅広い教養と、本質を追及していく伊丹流アカデミズムのスリリングさ、そして、それらを伝える、斬新でユーモラスな方法と表現をこれらの本でぜひ触れてほしい。それが極上の知的エンターテインメント体験になることは、編集者歴40年のぼくが保証するよ。

伊丹十三が
伊丹十三たりえた理由とは?

 さて、そんな今回の原稿準備のなかで伊丹さんについての新たな捉え方に気がついてしまった。そのソースは、本人の著作や映像作品ではない。伊丹さん没後8年後、10年後に伊丹十三の仕事と彼の人物、ライフスタイルをテーマに編まれた2冊の単行本『伊丹十三の本』(「考える人」編集部編/新潮社)と『伊丹十三の映画』(同)である。

伊丹さんの没後に出版された、『伊丹十三の本』と『伊丹十三の映画』(どちらもも新潮社刊)。前者は伊丹さんのエッセイをはじめ、ファッション、愛用品、食といったライフスタイルにおけるこだわりを豊富な写真資料とともに紐解いた、伊丹入門にふさわしい一冊。後者は伊丹映画の関係者たちへのインタビューによって、その魅力や仕事論を浮き彫りにさせた証言集。どちらも必携だ。

 わが伯父についての著作であるから、刊行当時真っ先に読んで、さすが手練れの編集者の仕事だわいと感心した。数年前、ある雑誌の伊丹十三特集に一文書くにあたって読みなおしてもいるが、そのときも、伊丹さんゆかりの人々が書き、あるいは語る「わたしの伊丹十三論」を舌なめずりしながら読んだものだ。

 しかし今回の読後感はちょいと違う。2冊を読みすすむうちに、伊丹さんの仕事に関わった、また一緒に仕事をした、この本に登場する多くの人々が、伊丹さん本人が語らずとも実践していた「クリエイター伊丹十三の仕事の流儀」をじつに率直に証言していると気がついたのである。しかも、その証言は重なる内容が非常に多い。伊丹さんが、仕事内容や仕事相手にかかわらず、自分の流儀をブレることなく実践していた決定的証拠である。

 随筆にしろ、イラストやデザイン、演技や映画づくりにしろ、伊丹さんが手がけた仕事はどれも独自色にあふれている。誰もが願う「自分の世界」の確立を伊丹さんほどさまざまな分野で、しかもハイレベルで成し遂げたひとをぼくは知らない。

 伊丹十三はそれをどうやって可能にしたのか?

 伊丹さんの才幹も教養も持ち合わせない、ぼくたち不肖の甥っ子姪っ子でも、これら伊丹さんならではの仕事の流儀を一片でもインストールすれば、なにか違った風景が見えてくるのではないか──という思いが湧いてきた。

 この2冊に収められた伊丹ワールドの住人たちの言葉を手掛かりに、「自分の世界」実現のうえで伊丹さんが心がけていたこと、譲らなかったこと、その驚くべき徹底ぶりも交え、探ってみよう。それは実に、こんな具合なのだ。

※なお、お言葉を引用した方々の敬称は略させていただいた。職業名も2書発刊当時のもの。「→本」は『伊丹十三の本』から、「→映画」は『伊丹十三の映画』からの引用である。


伊丹さんの仕事は、
実際に仕事にとりかかる前に
既に大半はできあがっているのである。

「とにかくいつも、ものを考えている人だった。これで良いってことはないんだ。とことんまで考えている人だった。」

(カメラマン/前田米蔵→映画)

 常に考えているというところが凄い。

 ぼくらのアタマはすぐに休んでしまう。ボ~っとしてしまう。違うことに関心がうつってしまう。伊丹さんだって人間だからそういうこともあるだろうが、おそらくそれとは別口の思考エンジンが備わっていて、そのイグニッションは常にオンだったのだと思う。

 而して400字のエッセイから1時間54分の映画まで、きっと伊丹さんはその全体像の見当がついていて、エッセイなら書くだけ、映画はもっと複雑だが、ここの場面はこんな俳優で、こんな絵でというコンテが即座に提出できるのだ。

 反対に、打ち合わせなどで自分の考え、意見を言わずハイハイと返事ばかりしているイエスマンのひとを伊丹さんは非常に苦手にしていたと聞く。

 熱がでるぐらい、考えに考える。伊丹さんは、その驚くべき脳内体力で自分の世界実現に向けての最も厳しい登攀(とうはん)ルートをわざわざ選択していたんだね。

写真提供/井出情児


そのテーマは伊丹さん自身が
常日頃から疑問に感じたり、
面白いと思っていたことに限られる。

「とにかく自発的な好奇心にしか従わないところがありました。それこそ世の中でいま流行ってるから、なんていう関心の動き方は絶対にしない人でしたね。」

(文藝春秋社編集者/新井信→本)

 耳の痛い話だ。ぼくが長年関わってきたファッション雑誌は、まさに流行を売る商売だからだ。

 『お葬式』という映画タイトルを聞いたとき、ぼくはすでに婦人画報社という出版社で編集者をしていたが、正直、これがウケるのか?と思った。葬式に絡んでの大犯罪でも出てくるのだろうか、とも想像した。だが、最も犯罪に近いのは主人公の雑木林での浮気シーンぐらいで(笑)、あとはありふれた日常的ディテールの集大成。だが、視点を変えて眺めると、それらが滑稽で、滑稽で。その視点の発見こそが伊丹さんのオリジナルなところなのだろう。

3.
伊丹さんのなかで、そのテーマに方法論
(エッセイか?単行本か?雑誌か?テレビ番組か?映画か?etc.)と
実現するための資金が結びつくと、
無類の企画書が生まれる。

「『モノンクル』が創刊するっていう時に(1981年)、この創刊の辞っていうか、書店や書き手向きに、伊丹さん自筆の『計画書』っていうか企画書みたいなものが配られてね、自筆ってもそれを印刷したリーフレットみたいなんだけど、これはボクが今まで見た企画書の中で、サイッコーに、コーフンした企画書でしたね。うわぁ、こういう雑誌で仕事してみてええええって思ったね」

(イラストレーター/南伸坊→本)

 その企画書はたしかぼくも目にしているはずだ。ぼくも経験があるのだが、新雑誌を創刊するとき、書店と広告代理店に向けて内容をかいつまんで紹介し、筆者や特集企画などを並べるこういう企画書はマスト。たしかに伊丹さんの総自家製企画書は、人の心という地味で、アカデミックなテーマを軽く、ユーモラスなタッチでとりあげ、大いに期待させるものだった。南さんのようなクリエイターがウキウキする気持ちもわかる。

 だが業界的には大受けであっても伊丹さんが思うほど、われわれ一般人は心の問題に関心がなかったのだ。結果、『モノンクル』は6号で終わってしまったが、この失敗で、伊丹さんは大衆を相手にする仕事の怖さを学んだのではないかしらね。

1981年に創刊し、48歳の伊丹さんが編集長をつとめた雑誌『モノンクル』。伊丹さんが当時関心を持っていた精神分析をテーマに、6号のみ発行された。〈伊丹十三=ぼくのおじさん〉というイメージは、ここから始まった。もちろん本誌もその概念におおいに影響を受けていることは、言うまでもない。


映画作品であれば、
伊丹さん自身が周到に取材を重ねた
ディテールが織り込まれた物語が生まれ、
完成度無比の脚本が姿を現す。

「初めて手にした台本もオドロキでした。自分がやるなんてこと忘れて夢中で読んでしまいました。ものすごいエンターテインメントになってて、 『何なんだ、これは』って思いました。しかもただ面白いだけじゃなくてしっかりとしたテーマがあって、人とのふれあいや葛藤がきちっと描かれた上質の人間ドラマになってる。台本を読んでてこんなに興奮したことはなかったですね。【中略】しかもその台本をひたすら読み返すというのを繰り返してると、自分のシーンじゃなくても『ん?』って引っかかるところが出てきて『あ、そういうことか。じゃ、俺はここでこう思ってなきゃいけないじゃん』とか、いろんなことが分かってくる。 何遍読んでも面白い。相当しっかりした取材をして、 マーケティングもして、監督のなかで確固としたイメージが出来て初めて書くんだろうなとも思いましたね。」

(俳優/村田雄浩→映画)

 伊丹十三作の脚本──。

 これがどれほど優れていたかというと、ここでとりあげた、村田さんほか伊丹映画のキャストたちほとんど全員から絶賛を受けていたと言っても過言ではないだろう。宝田明、山崎努、津川雅彦、大地康雄、益岡徹といった曲者俳優たちが「オモシロイ!」とほれ込んでしまう。まさに伊丹映画の核心部分なのである。

 伊丹さんの俳優経験、父で映画監督の伊丹万作の影響もあるのだろうが、村田さんも指摘している「取材」の部分がポイントだったのではないかというのがぼくの見方だ。

 『マルサの女』の「マルサ」なんて名前も知らなかった職業だが、彼らの知られざる仕事を明らかにすることで、現代社会の問題と人間の業が同時にあぶり出される。

 伊丹十三は優れてジャーナリストでもあったのだ。


仕事現場では自らが決めた原則に忠実である。

「伊丹演出は、いちいち注文が細かい。『てにをは』にいたるまで一字一句台本通りに言わされるのは勿論、台詞のスピード、ニュアンス、アーティキュレーション(クリアーな発声発音)やブレス(息継ぎ)に至るまで、注文をつけられた。自分のリズムでブレスをしながら台詞を言うと、すかさず『そこで、息を継がないでください』って指摘される。するとそのリズムで覚えてるから、次の台詞が出てこない(笑)。そんなこと注文する監督は初めてだったからね。」

(俳優/津川雅彦→映画)

 自ら脚本を書き、その内容に絶対の自信を持った監督でなければできない演技指導である。

 だが、どんな仕事にも現場には現場の理屈がある。映画だったら台詞を覚えてこない俳優もいるだろう。その俳優に一字一句正確に台本どおりの台詞を言わせる。監督として自分のプリンシパルを貫く。これは想像以上の難事だ。

 この点、初監督作品の『お葬式』の成功が果たした役割が大きいのではないか。あの映画がとてつもなくおもしろかったことが第一点。第二点は、『お葬式』が大ヒットし、伊丹脚本、伊丹演出が「受ける」と俳優にもスタッフにも信じさせたことだ。こうなれば、勝ち馬。監督は強気で行ける。


だからといって、
仕事仲間に対してのリスペクトを
欠くことはありえない。

「伊丹さんは台詞の一字一句にまでこだわる人だった半面、演出するときに大声を張り上げたり、ゴタゴタうるさく文句を言う人ではなかったから、やり直しということになってもさほど罪悪感にさいなまれることがなかった。むしろ、どこか気が楽なとこがあった。」

(俳優小林桂樹→映画)
写真提供/伊丹プロダクション

 これはもう伊丹十三のダンディズムというよりほかはない。映画づくりのほかでも、ぼくは伊丹さんが癇癪をおこしたとか、怒鳴ったとかそんな話を聞いたことがない。

 それにしてもそこまで自己抑制を徹底するなんて、伊丹さん、ストレス溜まったろうなあ。


細部を蔑ろにしない。
むしろ徹底して追及する。

「しかもこだわってたのは衣装だけじゃなくて、どの場面のどんな端っこに置いてある物でも、すべて手を抜いてなかった。こだわりの監督でしたね。『マルタイの女』なんかでも、バックの方にあって、もしかしたら映らないかもしれないようなところに人間国宝が作ったすごい壺を借りてきて置いていた。でもそれが映るとやっぱりいいんだよね。『監督、あの壺はすごいですね』って言っ たら『だって七千万の壺ですから』って(笑)。」

(俳優/六平直政→映画)

 伊丹映画のキャスト・スタッフが口を揃えて言うもうひとつの伊丹さんの流儀がこの細部へのこだわりだ。それは半分賞賛、半分呆れといったニュアンスではあるが(笑)。

 伊丹さんはアタマのなかで極めて具体的なお絵描きができたし、その実現のためには労を厭うということがない。蟻の一穴という言葉があるが、エキストラのしめるネクタイの色や柄ひとつであってもそのカット、そのシーン全体の絵の完成度を貶めると信じて疑わなかったのだろう。

 それをひとは完璧主義という──。


そして、全身全霊、現場へのめりこむ。

「ただ、彼(伊丹さん)はこのときに限らないんですが、撮影に入るとほとんど物を食べないんです。普通は撮影に入ると体力を使いますからなるべく食べようとするんですが、あの人は食べないからどんどん衰弱していく。 それで、『身体がもたないよ』って忠告したら『いやいや、こんな面白いことやってたら、 腹なんて空きませんよ』って(笑)。でも、僕には、食べないことを自分に課してるようにも見えました。」

(俳優/山崎努→映画)

 役者やスタッフに大変な要求をしているのだから、自分も楽をしてはいけない。伊丹さんの姿を見て、山崎さんはそう思ったのだろう。

 映画作りという最大の遊びを、修験者のような姿勢で臨む。そういうストイックさもキャストやスタッフのモチベーションの向上につながっているはずだ。

写真提供/井出情児


他者を正当に評価することで
信頼を得ていた。

(雑誌『モノンクル』を)六号で休刊することになった理由のひとつには、べらぼうに高い原稿料があったんじゃないかな。僕は翻訳を載せてたんですけど、翻訳の原稿料が一枚一万円でしたからね。 他の雑誌では当時二千円しかもらえなかったから五倍です。 これは伊丹さんが大盤振る舞いをしていたというのではなくて、『著者やアーティストは大事にすべきである』という明確な考えのもとにやっていたことでした。一度『原稿料高すぎるんじゃない?』って聞いたことがあるんですけど『いや、これでも高くはないですよ』って答えてました。」

(心理学者/岸田秀→本)

 こうやってクリエイターと彼らの仕事を大切にするところがいかにも伊丹さんらしい。自身の海外での仕事で受けた金銭的評価の影響もあるのだろう。

 ここで岸田さんが言っている原稿料1枚 1万円というのは400字で1万円ということだ。1981年から40年たっても一向に変わらない日本の原稿料の安さに伊丹さん御存命ならなんと嘆かれるであろう。

10
なによりお金を払ってくれる
お客さんを大切にする。

「あの映画(『お葬式』)はお金を払って見てくれた人がみんな楽しんでくれました。 伊丹さんはいつも言ってました。映画は試写室で見ても面白くない。映画が面白くても、見ている人がお金を払っていないと視線が斜めになってしまう。お金を払った人にだけ、映画を貪欲に楽しもうという気持ちが起こるんだよ、ってね。」

(伊丹プロダクション社長/玉置泰→映画)

 ぼくが長じて、伊丹さんをますます評価するのは彼のこの流儀である。

映画でも、本でも雑誌でも自己満足は簡単だ。だが、ヒットさせるのは至難。百発百中とは言わないが、多くの伊丹作品はそれを両立させたんだから、正真正銘、大人のクリエイターなのである。

 どんなにイイことを言う伯父さんでも、その日のパンにも困る貧乏じゃしょうがない。だからといって、自分だけ儲けているような男では友達も仲間も去ってゆく。伊丹さんは稀にみる合理精神でそのあたりもキチンと手当した。

 芸術と商業の両立こそぼくのおじさん伊丹十三の真骨頂であります。

林 信朗

1954年東京生まれ。19歳にしてアメリカ・シアトルに留学。帰国後、婦人画報社に入社し、編集者の道へ。『mcシスター』『25ans』『MEN’S CLUB』『DORSO』『Gentry』といった雑誌の編集長をつとめ、現在は服飾評論家として活躍。ファッション&ライフスタイル分野のみならず、文学、哲学、歴史にも精通した、博覧強記な〝ぼくのおじさん〟だ。

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