2024.4.25.Thu
今日のおじさん語録
「モデルの瞳に感動したら瞳から描け、首筋に感動したら首筋から描くのだ。/藤田嗣治」
特集/ぼくのおじさん物語 『伊丹十三』 4

〝本筋〟ってなんだろう?
伊丹さんから学ぶ、
ぼくのおじさんスタイル

文/山下英介、談/小林学(AUBERGE)

伊丹十三さんはエッセイストであり、映画監督であり、デザイナーであると同時に、男たちに本物の装いやモノ選びを教えてくれる伝道師でもあった。しかもその哲学はどんなに時代が経っても古びることはない、すなわち理想の〝ぼくのおじさん〟スタイルなのである。そこでここでは伊丹ファンであり、メンズファッションの研究家でもあるAUBERGEデザイナーの小林学さんと一緒に、伊丹スタイルの変遷と進化を紐解いていこう。

ボルサリーノの帽子にキャメルのロングコート、ペッカリー革のグローブという、ヨーロッパの映画監督を彷彿させる、王道の〝ぼくのおじさん〟スタイル。伊丹さんはこんな上等な格好でも芝生の上に寝転んだりと、完全に洋服を自分のものにしている。だからかっこいいのだ!(写真提供/立木義浩)

〝世界の一流品〟を知り尽くした
1960年代のヤング伊丹さん

出演した映画のギャラをつぎ込んで購入した「ロータス・エラン」と、細身のスーツでキメた、1960年代の伊丹さん。寸分の隙もない細身シルエットパンツに合わせた靴は、スエードのチャッカブーツだ!(写真提供/文藝春秋)

 本物とは何かを知りたい! 世界中の一流品を手に入れてみたい! 今まさにぼくたちが抱いている野望を、日本がまだ〝戦後〟だった時代に、いち早く叶えてしまったのが、俳優として活躍していた1960年代の伊丹さんである。

 1961年、28歳の頃に『北京の55日』という映画に出演するため、はじめて渡欧した伊丹さん。彼はここでヨーロッパや英国のライフスタイルを徹底的に自分のものにした。グッチやエルメス、ダンヒルといったブランドの名品。アルデンテのスパゲッティに代表される本場の食文化。そして象牙色の〝ジャギュア〟(jaguar)……! その成果は1963年に発表されたエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』で結実し、伊丹さんは一躍、若者たちのカリスマとなった。当時のファッション雑誌では、伊丹さんの特集がひんぱんに組まれていたが、そのスタイルは、今見てもとんでもなく格好よく、しかも本格的である。

1966年に出版されたファッション雑誌に登場する伊丹さん。エルメス、グッチ、ダンヒル……。当時の一般庶民にはとても手の届かない存在だった世界の名品に囲まれた姿は、今の目線で見てもまったく古びていないが、それこそが伊丹さんがいうところの〝本筋〟の証明なのだろう。ホッファのチロリアンジャケットといったカジュアルアウターを、いち早く取り入れている点もさすが。というか、ほしい! 真似したい!

 しかし伊丹さんが『ヨーロッパ退屈日記』を通して伝えたかったのは、ただの自慢話でもヨーロッパ礼賛でもない。むしろその逆で、欧米文化の表層だけを中途半端にありがたがる日本人を嫌悪し、ぼくたちなりの〝本筋〟=スタンダードへの回帰を説いている。「お洒落なんて力んでみても、所詮、人の作ったものを組み合わせて着けてるにすぎない」とは、まさに名言。だからこそぼくたちは、都合のよい〝個性〟という言葉に逃げずに、正々堂々〝本筋〟に向き合うべきなのだ。

 ちなみにひとつ言っておきたいのは、この頃の伊丹さんは決して世間の言うところの〝お金持ち〟ではなかった。本人がファッション誌で語っているように、「たとえ百円玉一個しかなくても、そういうときは世界最高のケシゴムを探す!」という気概をもって、彼は〝本筋〟を極めたのである。ぼくたちだって、やればできる……かもしれない!(文・山下英介)

『ヨーロッパ退屈日記』にイラストで紹介され、若者たちの憧れをかきたてたヨーロッパの名品の数々。中でも謎なのがベネツィアのポッリという靴店で購入した「ドッグシューズ」と呼ばれる代物。ライニングのないスエード製のカジュアル靴だと思われるが、お店はとうに存在せず、現地の人に聞き込みしても手がかりはつかめなかった。(写真提供/斉藤翔平)

新しい価値観を受け入れた
1970年代のヒッピー伊丹さん

中田商店で買ってきたミリタリーウエアを前にご満悦の、1971年の伊丹さん。時はベトナム戦争末期。米軍放出のミリタリーウエアはある種生々しい存在であり、それを着用することは、ある種の思想性を必要とした。(写真提供/井出情児)

 1960年代に、いわば〝神〟になってしまった伊丹さん。ボブ・ディランもそうですが、あとは暴走しようが、あえて世間とは逆に行こうが、自由なんです。極めちゃってるから、それに対する世間の困惑すら楽しめてしまう。それが1970年代、ミリタリーウエアやベルボトムのジーンズをはいて、ヒッピースタイルにハマっていた頃の伊丹さんだったように思います。

 その契機は1971年(昭和46年)。当時伊丹さんが出演していたTVドキュメンタリー番組『遠くへ行きたい』のなかに、『親子丼珍道中』という回があるのですが、それがミリタリーウエアのデビュー戦でしょう。「OG107」というベトナム戦争期のトレンチコートの下に、丸襟のエアフォースジャケット、さらにその下にセルジュ・ゲンスブールも愛用したシャツ、というミリタリーウエアのトリプルレイヤードです。しかもパンツはベルボトムのジーンズで、バッグは毒ガスマスク入れ(笑)。どれもデッドストックで、ポリエステルを混ぜず、ミリタリーウエアをコットン100%でつくっていた時代の末期ですね。番組内では、ロケ前日にアメ横に行って揃えてきた、と語っています。当時の伊丹さんは30代前半ですから、感覚的には立派なおじさん。若者たちが楽しんでいるファッションに、おじさんが被せてきたわけです(笑)。

1969年冬の伊丹さん。ここでは軍放出品を着る根拠として物質文明に対するアンチテーゼを掲げ、当時注目を集めていた、サンローランをはじめとするデザイナーズによるミリタリールックを否定している。

 この作品の中で伊丹さんは、いろんなところで寝転んで、こんなこともできる服、というアピールをするのですが、それに対する女子アナのリアクションがすごい。〝あなたはそんな人じゃないじゃないですか〟的なツッコミをぐいぐい入れて、しまいには「その帽子ったらこじきよ」とまで言ってしまう。これが当時における、ヒッピールックに対する世間一般のイメージでしょう。もちろん人より30年早い伊丹さんは、今までのダンヒル、エルメスといった世界から見事に手のひら返しをして、そういった反応すら楽しんでいるわけですが。

 この番組の目的である「究極の親子丼」をつくるためには、伊丹さんの言うところの〝本筋〟の材料を集めなくてはいけない。だとすると、それを探し回る自分も、装いを通じても〝本筋〟を表現しなくてはいけなくなる。つまり伊丹さんのヒッピールックは、この番組におけるひとつの真髄でもあったのでしょうね。

伊丹さんがアメ横の中田商店で500円で購入したという「ズック生地のバッグ」。エッセイではベトナム戦争時代に使われていたものと書かれているが、実は小林さん曰く「M6 ARMY LIGHT WEIGHT SERVICE MASKといって、第二次世界大戦時のガスマスクを入れるためのカバン」とのこと。(写真提供/川田有二)
こちらはオーストリアを中心に北ヨーロッパのファッション文化に深く根付いた、ローデンコート。近年ファッション業界人の間で再注目されているが、伊丹さんは遅くとも1970年代後半には、このコートを愛用していた。(写真提供/斉藤翔平)

 こんな風に伊丹さんは、世間にどう見られるか、ということを見越した上で、時代ごとに自分のスタイルを変えながら、絶妙なポジションをキープし続けました。1980年代以降につくり出した和洋折衷ミックスは、その仕上げみたいなものでしょう。もちろん神の領域ですから、その目的はわかりません。でもひとつだけ言えるのは、伊丹さんは元がいいから何を着ても格好いい、ということです(笑)。(談・小林学)

本当の大人として成熟した
1980年代以降のエスニック伊丹さん

チャイナジャケットに細身のトラウザースを合わせ、上には刺し子の半纏を羽織るという、早すぎたミックスコーディネート。チャイナジャケットとパンツは麻布十番にあった仕立て屋「テーラー池田屋」でつくったもので、生地違いで似たようなものが大量に残されている。(写真提供/伊丹プロダクション)

 さて、ヒッピーやヘビーデューティといったスタイルを経て、小林さんが言うところの〝仕上げの時期〟に入った、中年期の伊丹さん。その装いは周囲が思わぬ方向へと向かった。いわゆるチャイナジャケットにクラシックなトラウザースを合わせ、刺し子の半纏をはおり、ボルサリーノのハットで締める……という、和・洋・中をフュージョンさせたスタイルである。

 宮本さんによると彼はいつも「ぼくなんか何を着ても似合わない」と嘆き、「これでもういいんだよ」と、チャイナジャケットを着ていたという。この高度すぎる選択に至った理由は不明だが、1960年代から「洋風」なる言葉に象徴される、ニセモノの跋扈に警鐘を鳴らしていた伊丹さんの、〝本筋〟論の終着点が、この装いにあったことは間違いない。

伊丹監督のアイコンだったボルサリーノのハットと、ジャカード織りのマフラー。父親も愛用したソフトハットを被ることは、伊丹さんにとって〝大人の世界に身を置く覚悟〟のあらわれでもあった。(写真提供/川田有二)
ジョルジオ アルマーニのセーターには、後からスエードのエルボーパッチが縫い付けられている。(写真提供/川田有二)

 〝早すぎた男〟伊丹さんが出した装いの結論を、ぼくたち凡人が理解するまでには、まだまだ時間が必要みたいだ。でも、そろそろ彼が50年以上も前に書いたエッセイの境地くらいには、たどり着いてもいいんじゃないか?

「刺激の強いものでないと、着ている気にならない、という、一種の病気のようなものにみんなが取りつかれている」(みんな、SNSの「いいね!」に囚われすぎてない?)

「男のお洒落のポイントはズボン、女はスカートと足もとです」(ツンツルテンは滑稽に見えるし、ズルズルは不潔に見えるよね)

「やはり紳士は野暮でなくてはいけない。野暮というのは相手を疲れさせないしね」(都会的すぎる格好って、逆に野暮ったく見えるよね)

「個性なんてどうでもいいじゃないか。第一個性なんてちっとも出てやしないじゃないか。出てるのはなにがなんでも人より目立ちたいという醜態だけじゃないか」(そういえば個性のない人ほど、〝個性的〟な格好してるなあ……)

 ……『ヨーロッパ退屈日記』や『女たちよ!』だけでも、お洒落にまつわる名言がいっぱい。しかも今の時代にそのまま通用する言葉ばかりなのが、またすごい。つまり伊丹さんが授けてくれるのは、頭でっかちの知識や、いつかは古びてしまう情報じゃなくて、いつしかぼくたちの血肉になる〝知恵〟そのもの。だからこそ伊丹さんは、永遠の〝ぼくのおじさん〟なんだ。(文・山下英介)

伊丹さんが宮本さんの影響で使い始めたという民藝品のかごバッグは、盛岡市にある民藝店「光源社」のもの。人里離れた山奥から採取した木の枝を乾かし、閑農期に編まれるもので、今ではとても貴重なもの。ちなみにイタリアの某ブランドのイントレチャートは、こういったかごバッグをヒントにつくられたのだとか。この見事な黒光りは、小林さんによると「たわしでゴシゴシこすることで生まれてくる」そう。実にいい風合いだ。(写真提供/斉藤翔平)
小林学

1966年湘南・鵠沼生まれ。1988年にフランス遊学し、パリとニースで古着と骨董、最新モードの試着に明け暮れる。帰国後、フランスのアパレルメーカーの企画を経て、岡山の最新鋭の設備を持つデニム工場に就職、3年間リアルな物づくりを学ぶ。1998年、満を持して自身のブランド「Slowgun & Co(スロウガン)」をスタート。設立20周年となる2018年には、新ブランド「AUBERGE」を設立。フレンチヴィンテージとカルチャーを煮詰めた濃厚な世界観で、目の肥えた服好きを虜にしている。『ぼくのおじさん』の世界観に最も共感してくれるデザイナーだ。

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