2024.4.27.Sat
今日のおじさん語録
「高いところへは、他人によって運ばれてはならない。/ニーチェ」
特集/ぼくのおじさん物語 『伊丹十三』 3

〝フーテン〟だった僕を
導いてくれた!
ミリタリールック時代の
伊丹さんの話

談・写真提供/井出情児
構成/山下英介

ロックやヒッピーといった、新しい文化と価値観の嵐が、世界中で吹き荒れた1960年代後半〜70年代前半。そんな時代の伊丹さんが仕事のパートナーとして選んだのが、のちに〝ロック写真家〟として有名になった井出情児さんである。かたや日本を代表するスター。かたや新宿にたむろしているヒッピー。世代も立場もまったく異なるふたりはいかにして出会い、新しい時代を切り開いたのか?

フーテンの井出さんと伊丹さんとの出会い

なんと伊丹さんが撮影した、若き井出情児さんのポートレート! TV番組『遠くへ行きたい』のロケで、長崎県平戸市を訪れた際のひとコマだ。

井出 ぼくはもともと1960年代後半、新宿でフーテンやってたんですよ。

フーテンというと、〝フーテンの寅〟みたいな?

井出 いや、ボブ・ディランとかアレン・ギンズバーグあたりの影響をモロに受けて。学校にも行かないで、新宿にあったダンモ(モダンジャズ)の喫茶店で、タバコを吸いながら200円のコーヒー1杯で、昼間から夜中までずっと居座るんですよ。

そっちのフーテンですか! じゃあ、駅前にたむろってマリファナとかシンナーとかを吸っちゃうような……?

井出 いや、シンナー族ってのは、ぼくたちの1年くらい後で、それから新宿は治安が悪くなって、交番が襲撃されたりしてたんですよね。ぼくは連中と一緒にされるのが嫌で、京都に逃げてヒッチハイクで日本一周したり(笑)。まあヒッピーの存在に憧れていたんですが、当時のヒッピーっていうのは、お金持ちじゃないとなれなかったんです(笑)。で、フーテン仲間からは白い目で見られたけど、働くヒッピーとして、当時アングラ劇団として知られていた「状況劇場」に入って、唐十郎さんの小僧として働くわけ。それが1965年。もう行き当たりばったりだね。ただ、高校では写真部だったし、劇団でも舞台写真を撮っていた。まあ、細江英公さんとかは高くて使えないからなんだけど(笑)。で、劇団では食えないし、きちっと写真をやりたいな、とは思っていたんです。

そうか、井出さんはもともと役者だったんですね! しかも唐十郎さんの「状況劇場」とは。でも、そんな井出さんと伊丹さんの接点が、全く浮かばないのですが。

井出 俳優の勉強なんてしてなかったけど、門前の小僧なんとやらで、唐さんのホンを清書したりしてたからね。で、19歳のときにオーディションに受かって、恩地日出夫監督の映画『昭和元禄 TOKYO196X年』っていう、わけのわかんない映画に出るわけです。

わけのわかんない(笑)。

井出 この映画、実は倉本聰さんの脚本家デビュー作でもあるんだけど、ト書きはあるものの、セリフは「以下よろしく」とか書いてあって、もうデタラメなの(笑)。ぼくは方言をヤジられて殺人を犯す少年役をもらったんだけど、その映画の主演俳優が伊丹さんだったのよ。

伊丹さんのミリタリールックは
中田商店で買ってきたもの

なるほど、ようやく繋がりました!

井出 伊丹さんは松山の出身でしょう? ぼくは今治で生まれたもので「愛媛県人会だね」ってんで、狸穴のマンションに呼んでもらったり、ずいぶん可愛がってもらったんだよ。

当時の伊丹さんといえば、国際俳優でもあり、カルチャースターでもある、今でいうセレブリティですよね? ファッションだって、一流品好みだし。大変失礼ながら、フーテンの井出さんとは全く立場が違うというか。しかもまだハタチですし。

井出 当時は『北京の55日』とか『ロード・ジム』にも出ていたから、大スターだよね。ブランドものを着て、マンションもふたつ持っていて、車は「MG」。それでジャワカレーのCMに出ていたりするもんだから、最初は正直言って「気に入らねえ」と思ってました(笑)。そしたら、実際に話してみたら本当に面白い人でね。ぼくがこれからカメラマンになりたいって相談をしたら、「じゃあ、これから俺の仕事は全部渡す」と言って、週刊誌や月刊誌からムービーの仕事、テレビのナイトショーまで、本当に全部僕に振ってくれたの。テレビマンユニオンと一緒につくっていたドキュメンタリー番組『遠くへ行きたい』でも、何本もカメラを回させてもらったよ。あの人と出会わなかったら、ぼくは舞台写真家で終わっていただろうね。

伊丹さんが週刊文春で1971年に連載したフォトエッセイ『チキューボシブブンカクダイズ』。フォトグラファーは井出さんと淺井慎平さん、スタイリストは高橋靖子さん。伊丹さんのエッセイに上写真のようなコンセプチュアルなビジュアルが添えられる、週刊誌とは思えない実に洒落た連載。単行本化を望む!
ハタチそこそこのフーテン上がりのカメラマンにすべての仕事を任せるとは、なんとも豪快というか、面倒見のいい方ですね! それはやっぱり、井出さんの持っている新しい価値観に興味を惹かれた、という理由もあったのでしょうか?

井出 どうだろう? それもあったのかもしれないね。でも、知り合った時の伊丹さんは、頑なに「子供はつくらない」と言っていた。あと何十年かすると世界の資源は枯渇して、大恐慌に陥るだろうから、滅亡していく地球を子供に見せたくない、という理由です。そんなポリシーが180度転換して、子供をつくって、ぼくみたいなフーテンと遊んでくれるようになったのは、宮本さんの影響が強かったんじゃないかなあ? あれだけ好きだったクルマにも乗らなくなったし、湯河原のみかん山の上にログハウスを建てたりして。ぼくもそういうライフスタイルに憧れて、だんだん田舎のほうに住むようになったんだけど。

1971年に雑誌「週刊文春」で始まった連載ページ『チキューボシブブンカクダイズ』は、まさにそんな新しい伊丹さんの価値観、スタイルを反映したものですよね? 写真は井出さんか淺井慎平さん、スタイリングは、日本におけるスタイリスト第1号、高橋靖子さん。ここで伊丹さんが着ている服は、ベルボトムや米軍放出品のM-65、そして地下足袋……。一流品好みだった今までとは、正反対のファッションです。これって、まさに当時の井出さんのファッションですよね? 伊丹さんは井出さんに影響されたんですか?

井出 ぼくの影響だったかはわからないけれど、ヤッコさん(高橋靖子さん)に中田商店で米軍放出品のいいヤツを買ってきてもらって、屋上に干したりしてね。

セレブとヒッピーが一緒にものをつくった時代

こちらは『チキューボシブブンカクダイズ』のアザーカット。外苑前の銀杏並木で撮られた写真なのだが、右に写っているのは池内万平さんのインタビューにも登場した、マイケル・チャウ氏。リーのデニム上下にバケットハットというヒッピー風の格好だが、実はこの方は超セレブリティ。当時は伊丹さんによると、「ロンドンに三軒のレストランを持ち、ロールスを乗り廻し、宏壮な邸宅を構え、ヴォーグのモデルと結婚して我が世の春を謳歌している」という。まさに70年代を象徴するスタイルだ。
1972年に出版された『再び女たちよ!』(新潮文庫)に、『放出品』というタイトルのエッセイが収録されていますが、伊丹さんが井出さんに、米軍放出品の魅力をインタビューする内容です。ここに掲載されているイラストは井出さんですよね? まさにM-65を着ているじゃないですか!

井出 あのイラスト、「伊丹十三記念館」にも飾ってあるけれど、足が短いでしょ? 伊丹さんに、「頭のほうから描いてたらスペースが足りなくなったから、足を短くしていい?」って伊丹さんに聞かれたんだよね(笑)。

井出さんの名誉のために、それだけは言っておきます(笑)! でも当時の伊丹さんは、ミリタリージャケットにベルボトムという姿でTVに出られて、『遠くへ行きたい』でも、「どこにでも座ったり寝転がったりできるから便利」なんてことを仰っていますよね。

井出 あの時の伊丹さんは、洋服だけじゃなくて仕事のスタイルも変わっていって、映画でもドキュメンタリーでも、手持ちでガンガン撮るやり方になったからね。被写体にグワッと寄ったり、いきなりどこかのお店に入って取材交渉を始めたり、今のテレビのバラエティ番組で主流になっている撮り方は、伊丹さんが始めたものですよ。地方ロケもロケ車じゃなくて、タクシーと電車を使うのだけれど、伊丹さんはタクシーに乗ると、いつもポータブルのカセットレコーダーを回して、運転手との会話を全部録音しちゃうの。それが後で面白いエッセイになるんだよね。

ポータブルといっても、今にしてみれば巨大なレコーダーですよね。でかいマイクが付いているヤツ。

井出 『チキューボシブブンカクダイズ』でも、「そういう写真じゃなくて、もっと記念写真みたいなのでいいから、自然にやりな」ってよく言ってたな。奇をてらったようなものじゃなくて、ありのままに撮るということには、こだわっていましたね。ほら、たとえばこの写真。ちょっと変わったポーズだけど、これはぼくがローアングルで撮るのが好きだから、伊丹さんはそれを笑いながら真似してるわけ。当時は下手くそだってよく言われたけれど、今見るとリアリティがあっていいんですよね。

こちらも『チキューボシブブンカクダイズ』で使用した写真。「粗衣」というタイトルで、ミリタリールックの中に見出した〝わびさび〟について綴っている。上にかかっているアウターはすべて中田商店で購入したもので、右から3000円、2000円、500円、2000円だという。ちなみに記事冒頭の写真ではM-65ジャケットにベルボトム、足元には地下足袋というハイブリッドなコーディネートを披露!
井出さんは、今でいうパンクとかヒップホップとか、まさにストリートあがりのクリエイターだったわけですよね。目線の低さは、まさにそこからきているわけで。そういう人と伊丹さんのようなセレブリティが交わって、ともになにかを創造するって、素晴らしいなあ。それが時代の空気だったのかもしれませんが。今は世の中が分断していて、価値観が異なる人同士はそもそも会うこともないし、思いもよらぬ化学反応が生まれにくいような気がしますから。

井出 当時は、フランスで1950年代にはじまったヌーヴェルヴァーグに近いようなエネルギーを感じていましたよね。60年代後半にパッと出てきて、70年頃の新宿で火がついて。当時はアングラとかいう言葉もなくて、李麗仙さんだって、身体中に金粉を塗って地方のキャバレーで踊って、それで稼いでいたんです。映画監督なら若松孝二。音楽は山下洋輔。全共闘、ヒッピー、ロック……。すべてのジャンルがクロスオーバーした、素晴らしい時代だったと思う。ぼく自身も伊丹さんをはじめとするいろんな人に出会って、助けられて、どんどん世界が広がっていったから。でもやっぱり、それには現場主義というか、リアルで人と会って、人と人との心のコミュニケーションを取らないとダメ。伊丹さんは、本当にいろんな人に会いに行って、話していたんだよ。

今という時代だからこそ、それはつくづく思いますね。

井出 ぼくは伊丹さんのおかげでたくさんの仕事に恵まれたけれど、忙しくなりすぎて、せっかく役を用意してもらった『お葬式』にも出られなくなったりして、その頃から疎遠になってしまったんです。伊丹さんご自身も映画の世界の人になってしまったし。でも、ずっと会っていなかったからこそ、亡くなった気が全然しない。絶対松山あたりで生きているんじゃないか、と今も思っているんですよ。

井出情児さんが語る伊丹十三さんとの思い出はここまで。
しかしさすがは日本における〝ロック写真家〟の第一人者。
出てくるエピソードが面白すぎるので、ボーナストラックとして収録。
もう少々お付き合いください!

井出さんにお会いする前、お名前と〝ロック写真家〟という通称から、すごくコワモテなイメージをしていましたが、とても柔らかい雰囲気の方で驚きました(笑)。会ってみないとわからないものですよね。

井出 「情児」という名前は唐十郎さんが名付け親なの。というか、本名は清児なんだけれど、ぼくの字が汚くてりっしんべんと間違えられたわけ(笑)。でも〝ジョージ、かっこいいじゃん!〟と思って、そのまま使っている。

(笑)当時はよくも悪くも、すべてがシステマチックじゃないですよね。悪くいうと、行き当たりばったりというか。

井出 デタラメというかやり逃げというか(笑)。ぼくらの世代が通り抜けていった後に、ルールができていくの。今じゃ言えないことばかりですよ。そういえば昔キャロルの矢沢永吉が、アメリカから帰ってきてそのまま、羽田空港から電話をかけてきて、「ジャケット撮ってくれよ」って頼んできたの。「いいけどいつ?」って聞いたら、「明日にでも」っていうわけ(笑)。それで慌ててヤッコさんに電話して、衣装やモデルを揃えてもらって撮ったのが、『I LOVE YOU,OK』のジャケット。

LINEのある今でも不可能なスケジュールですね(笑)。

井出 それからヤッコさんは大瀧詠一のジャケットとか、どんどん音楽関係の仕事が増えていって、ぼくはロック写真家に。チューリップのスタッフを居候させたことをきっかけに、ARB、甲斐バンドという具合に、どっと世界が広がっていくんですよ。そういえば昔、マレーネ・ディートリッヒが来日したときには、随行カメラマンをやったこともあったなあ。

ロックとはまるきり違う世界じゃないですか!

井出 そのときはホテルのバスルームを暗室にして、撮った写真をその日のうちにベタまであげておいて、彼女の部屋のドアの下の隙間に入れておくんですよ。で、昼頃に「おはようございま〜す」って行くと、気に入らない写真のベタは全部破いて捨てられている(笑)。気に入ったやつだけマルがつけてあるの。

データのやり取りでは味わえない、ヒリヒリした現場ですね(笑)。

井出 まあ、ぼくはアーティストと直接やり取りして、ときにはトイレの中までついて行っちゃうから、マネージャーやレコード会社には嫌われていたけれどね。だから本当に一番友達が大事。今、そんな原点に立ち返ろうと思って、またあの頃のフィルム写真をやろうと思っているんですよ。目が悪くなってもう暗室は使えないから、改めて勉強し直してね(笑)。

井出さんのモノクロフィルムはファッション界でも十分通用しますよ! 陰影が効いていて、すごくドラマティックですから。ちょっとエディ・スリマンの世界観に近いんだよなあ。絶対フランス人にウケるでしょうね。

井出 見ての通り、ザラザラなモノクロ写真なものでね。ファッションには憧れていて、ニットファッションなんかにも挑戦したんですが、晴海あたりの原っぱに軽四輪のクルマをひっくり返して火をつけて、その傍らに男と女がいる、と。僕が撮るファッション写真はそんな調子だから、すぐクビになるんです(笑)。

これこそがロック写真家の鑑ですよ(笑)。

井出 まあ、この年まで生きられるとは全く思っていなかったから、後先考えずにデタラメに生きてきました(笑)。でも今、中学生の娘がいるんで、もうひと頑張りしなくちゃね。

生き様までもがロック! お見それいたしました!
井出情児

1948年愛媛県今治市生まれ。1965年に唐十郎の「状況劇場」に入団。1970年からはカメラマンの内藤忠行氏に師事し、フォトグラファーとしての活動を開始する。矢沢永吉、甲斐バンド、ARB、RCサクセション、佐野元春、YMOといったアーティストの写真撮影やプロモーションフィルムを数多手がけ、〝ロック写真家〟として一世を風靡した。1960年代後半〜70年代前半のアングラシーンを切り取ったモノクロ写真は、海外でも有名だ。現在は山中湖にて、自らが建てたログハウスで暮らす。

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