2024.11.7.Thu
今日のおじさん語録
「人間は一人では生きることも死ぬこともできない哀れな動物、と私は思う。/高峰秀子」
特集/ぼくのおじさん物語 『伊丹十三』 5

〝ぼくのおじさん〟
にして兄貴、
伊丹さんに会えた
幸せな人生

談/玉置泰、撮影/古江優生

愛媛県・松山市にある伊丹十三記念館で、館長代行を務める玉置泰さん。彼は伊丹映画を支えた名プロデューサーであると同時に、この地に深く根付いた郷土菓子「一六タルト」の製造を手がける老舗企業「一六」の会長。もともとCMのスポンサーとして出会い、公私にわたって伊丹十三を知り尽くした彼だから知り得たその人間的魅力を、たっぷり語ってもらった。それにしても、伊丹さんのまわりにいた人は、そろいもそろって魅力的。僕も一度でいいから会ってみたかった!

大江健三郎を通して知った伊丹十三の存在

玉置さんは1949年生まれ。ちょうど『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)を書かれたり、『平凡パンチ』などのファッション誌に出まくっていた1960年代の伊丹十三さんを、リアルタイムでご覧になっていた世代かと思います。もともと伊丹さんに対しては、どんなイメージを持たれていたんですか?

玉置 私は中高時代はずっと坊主頭で、私服を着たのも大学に入ってからというくらいでしたから(笑)、『ヨーロッパ退屈日記』もファッション雑誌も、読んだことがなかったんです。それよりも純文学のほうに夢中で、伊丹十三……当時は「一三」と名乗っていましたが、その存在を初めて認識したのも、1960年代に愛読していた大江健三郎さんのエッセイがきっかけでした。高校時代の友人でフランス俳優のような容貌の男がいて、それが伊丹万作の息子である、という内容だったのですが、当時の松山では、お父さんの伊丹万作のほうが圧倒的に有名だったのです。あとはたまたま東京に行った時に、原宿のコロンバンの近くでTVドラマ『コメットさん』の撮影をやっていた伊丹さんに出くわしたりして(笑)。『日本春歌考』のイヤな先生役も記憶に残っていましたね。

文学青年だったんですね! それがなぜ、伊丹さんと出会うことに?

玉置 1978年に、家業である「一六タルト」のCMに出演してもらったことがきっかけです。当時の伊丹さんは子育てに時間を費やしていたこともあり、拘束時間の少ない講演やCMに、仕事の軸足を移していました。私は電通にいたもので、広告代理店を通さずに自分で直接当時のマネージャーさんに交渉したところ、「伊丹は子供にお菓子を食べさせないから多分やらないと思うよ」と言われたのですが、不思議とすぐに引き受けてくれました。その後しばらくは音沙汰がなかったのですが、マネージャーさんから電話がかかってきて、「松山で伊丹万作の33回忌をやるから、玉置さん、クルマ出してくれませんか?」と言われたんです。

運転手ですか!

玉置 父から借りたセンチュリーにご家族を乗せて、2、3日ずっと一緒です。そこで宮本さんとも親しくなれましたし、信頼関係も生まれたように思います。法事のときのおふたりの振る舞いや、私に対するケアは、今思い出しても、本当に素晴らしかったですね。それから「一六タルト」のCMが生まれたわけです。

伊丹さんが松山弁でカメラに向かって語りかけるそのCMは、愛媛県では知らぬ人がいないくらいの大ヒットを果たしたそうですね。広告代理店任せにしていたら、そういう関係、そういうCMは生まれなかったでしょうね。

玉置 普通のCMの現場に行くと、仕事をしない人たちがたくさんいて、コーヒーを飲みながらふんぞり返っていたりするわけです(笑)。その点、伊丹さんは『遠くへ行きたい』のテレビマンユニオンと制作チームを組んでいたのですが、現場ではみんなが体を張って働いていて、遊んでいる人なんて誰もいない。この光景を見たら、ほかのCMに愛着が持てなくなっちゃいますよね(笑)。

CMのでき栄えには満足されたんですか?

玉置 もちろん。ただ、まわりに見せたところ、半分は面白いというものの、残り半分は「こいつ騙されたな」という反応でした(笑)。でも、自分が面白いと思って任せたわけですから、失敗しようが大丈夫、という気持ちではいましたね。

伊丹さんは、ぼくに言った。
「死ぬまでにはお金は返しますからね」

その信頼関係が、のちに伊丹映画への出資につながるわけですね。でも、デビュー作の『お葬式』って、ある意味ではギャンブルですよね?

玉置 私はあまり細かいことは得意じゃないので、任せるときはパッと任せちゃうんですよね。五千万円お金を出す、と決めたら送ればいいだろうと。その後の自分の役割なんかは考えていなかったです。でも伊丹さんやプロデューサーの方々はとても気を遣ってくださって、制作発表にもロケにも呼んでくれたし、ずっと一緒にいさせてもらいました。伊丹さんに熱海の洋食屋に連れて行ってもらい、大滝秀治さんといっしょにごちそうになったときは、楽しかったなあ。

これは当たる、という手応えは?

玉置 面白いとは思いましたが、当たるかどうかはわかりませんでした。そもそも当時の映画って、配給会社がつかなかったらお蔵入りになるのが当たり前だったんです。なのでヒットするか、というよりも劇場にかかるか、ということのほうが心配でした。当時こんなことは妻にしか言えませんでしたけど、出資金がまともに帰ってくるとは思っていませんでしたよ。誰かに相談したら、そりゃ騙されたよ、と言われたでしょうね。

伊丹さんご自身はどう思っていたんですかね?

玉置 プレッシャーは感じていたと思いますよ。どの段階かは覚えていませんが、ふたりきりのとき、「僕は死ぬまでにはちゃんと返しますからね」と言ってくれたんです。だから本当に誠実な方ですよ。

決して返済の義務はない〝出資〟なのに、そういう思い、責任感でつくられていたんですね。人のお金だから、好き勝手にやっちゃえ、という感覚ではなかったんだなあ。

玉置 そうです。だからこそ、私もやりがいがあったんですよ。

そして、映画は驚きの大ヒットを遂げて、12億円の配給収入が生まれたと。

玉置 ヒットの後、私は伊丹さんに「あの出資金、出資じゃなくて伊丹プロに貸したことにしてください」と申し出たんです。そのときの伊丹さん、私の顔を見て「変な人ですね」と言っていました(笑)。

え、何倍にもなるはずだった配当金を放棄したんですか? それは確かに〝変な人〟ですよ……(笑)。

玉置 もう時効ですからね(笑)。

天才の信頼を得るにはおもねってはいけない

その後玉置さんは、伊丹プロの取締役として、本格的にプロデューサーとしての活動を始めるわけですね。

玉置 私が電通に入社したのは、テレビの仕事をやりたかったからなのですが、実際はお堅い新聞の仕事に配属されたわけです。その後いろいろあって松山に帰るわけですが、自分の中ではやっぱり、東京で仕事をしたかった、という心残りがあったと思うんです。当時、なんで伊丹さんは経験のない私を引き込むんだろう?と不思議に思いましたが、そういう気持ちをわかってくれていたんじゃないかな。しかも実際にやってみたら、電通でやっていた仕事とほとんど同じで、全く違和感がなかったですし。だから伊丹さんは、人を見る目がすごくあったんでしょうね。

玉置さんの人生においても、伊丹さんとの出会いはターニングポイントだったわけですね。

玉置 伊丹さんと付き合っていた20年というのは、私にとって本当に幸せな時間でした。カンヌやベネチアなど、様々な国の映画祭に一緒に行って、素晴らしい体験をさせてもらえましたから。その後どれほど海外に行っても、同じような感動は得られませんでした。

玉置さんにとって、伊丹さんこそが〝ぼくのおじさん〟だったんでしょうか?

玉置 そうですね。私には兄貴がいなかったから、〝ぼくのおじさん〟でもあり、兄貴でもありましたね。30歳くらいまでにそういう人と出会えたことは、今考えるとすごい人生だったなって、72歳になってつくづく思います。

〝ぼくのおじさん〟がいる人生って、素敵ですよね。でもそういう人との出会いを引き寄せるのも、玉置さんの人徳のなせるわざというか。ぼくたちはどうすれば、〝ぼくのおじさん〟と出会えるのでしょうか?

玉置 それは、私があまり人におもねったり、擦り寄ったりしないのがよかったのかもしれません。ある程度の距離は保つわけです。伊丹さんとは一緒に夜の銀座に行ったこともありますが、悪いことをしたことは一度もありませんから(笑)。でも、なにか困ったことがあれば、電話でもかけてきて、「頼むよ」と言ってもらえるような関係だったなら……とは思いますね。

伊丹さんがいなくなった後、同じような才能を感じる人に出会えたことはありますか?

玉置 全くいません。求めてもいませんし。伊丹さんは、どう考えても天才だったと思うんです。でも、非常に常識をわきまえているから変人ではない。そして、天才たる所以を最も表現されたのが、その最期だというふうに私は捉えています。だから私たち凡人には理解できない。そう思うしかないじゃないですか。

伊丹十三を知らない人にも
「伊丹十三記念館」に来てもらいたい

今ご存命だったら、88歳ですよね。

玉置 日本でいろんなことが起こるたびに、伊丹さんだったらどんな映画にしたんだろう?とは思えて仕方ありません。ネタには困らないでしょうね。古巣の人間もたくさん関わったから悪いことは言いたくないのですが(笑)、今回のオリンピックとか、残念でしたね。まあ、今のクリエイターは、本当に気の毒だと思いますよ。

確かに、今の世の中をどんな風に切り取るのか、とても気になりますよね。しかし伊丹さんが亡くなってもう随分たちますが、「伊丹十三記念館」を通じて、こんなことを若い人に感じてもらいたい、という希望はありますか?

玉置 ここは公益財団法人ですから採算なんて全く考えていませんが、とにかくこの空間に来てもらいたい。伊丹さんはとても多面的な方だったから、感じ方は人それぞれ違っていいのですが、来てくれた人の心に、何かを残す自信はありますから。毎週金曜日に、記念館のホームページで「みなさまのこえ」をアップしているのですが、ここでは来館者の方が書いてくださったことを、全部載せるんです。皆さん、本当に嬉しいことを書いてくださるから、これを読むだけで私たちの苦労なんて吹っ飛んじゃう。ほら、これなんてすごいですよ……。

本当に愛情のこもった記念館ですよね。僕のような生業の人間にとっては、ある意味身の引き締まるような空間でもあります。全クリエイター必見ですね。

玉置 設計を担当された中村好文さんは、伊丹さんとの面識はなかったけれど、私たち以上の〝イタミスト〟でした。そういう人たちの応援によって、つくられている空間ですからね。カメラマンの古江さんはどう思いましたか?

古江 ぼくは今26歳で、伊丹さんについては正直、お名前を知っている程度だったんです。でもこの記念館を訪ねてみて、その美学の徹底されぶりに驚かされました。そしてこの空間自体もすごい。床の材質ひとつとっても、伊丹さんと同じでまったく隙がないというか。

玉置 26歳ということは、伊丹さんが亡くなったときはまだ2歳か(笑)。さすがに、もう知らないという人も多くなったけれど、だからこそ記念館のやりがいもありますよね。宮本さんとふたりで、これからもがんばって伝えていきます。

玉置泰

1949年生まれ。1977年に慶應義塾大学を卒業後、電通に入社。1977年に退社後、実家である製菓会社「一六」に入社、宣伝担当として伊丹十三に出会う。その後伊丹プロダクションの社長に就任し、伊丹十三の映画づくりをプロデューサーとして支え続けた。現在は「伊丹十三記念館」を運営するITM伊丹記念財団の理事長も務めている。

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