2024.12.6.Fri
今日のおじさん語録
「世界はあなたのためにはない。/花森安治」
写真提供/染吾郎
20th Century Girl
連載/20th Century Girl

原宿レオンは仕事場のサロン

文/中村のん

中村のんさんの大人気連載『20th Century Girl』が更新されました! 今回のテーマは、原宿にあった伝説の喫茶店「レオン」。『ぼくのおじさん』にもちょくちょく出てくる固有名詞だから、気になっている人も多いんじゃないかな? もう知らない人も多いと思うけれど、明治通りと表参道の交差点、今でいう東急プラザのある場所には、かつてセントラルアパートという集合住宅があって、そこには高橋靖子さんをはじめ、世の中で一番格好いいクリエイターたちが集い、切磋琢磨していた。そんな彼らの憩いの場だった喫茶店「レオン」を巡る物語を、じっくり読んでみてください。

1976年、桑沢デザイン研究所の卒業を控えたある日、ヤッコさんから「卒業したらどうするの?」と聞かれ、「とくに考えていません」と答えたら、「だったら、このまま私の専属のアシスタントにならない?」「はい、ありがとうございます。そうします」という流れからヤッコさんの専属アシスタントに就くことになった。

アシスタントのバイトと学業の両立はそれなりに大変だったので、あー、これからはアシスタント業だけに専念できる! といううれしい解放感ばかりで、給料はどのくらいもらえるのだろう? 休みはあるのか? といったようなこともまったく頭に浮かばなかった。今の若い人たちが聞いたら信じられないことかもしれないが、時代の空気感が、もともと楽天的な私をそんな気分にさせてくれたのだと思う。

毎日通うことになった職場は、原宿にあるヤッコさんの事務所兼自宅だった。

小田急線沿線の実家から千代田線に乗り換えて明治神宮前で電車を降り、表参道と明治通りが交差する神宮前の交差点に立つと、春の陽射しがケヤキ並木にキラキラと降り注いでいて、空を見上げて深呼吸したくなる。雨の日も、風の日も、寒い日もあったはずだが、なぜか記憶にない。その頃の原宿を思い出すと、キラキラした陽射ししかない。

地上に出て最初に目に入るのは、国民相互銀行の看板。銀行を背にして明治通りの信号をセントラルアパート(現・東急プラザ表参道原宿)に向かって渡り、左方向に向かう。

ビルの角にあるのは宝飾店のHITOMI、続いてレストランSAVOY、日本で最初にできたケンタッキーフライドチキン、女の子向けのアイビーっぽい服のCABIN、メンズのBERKLEY、セントラルアパートが終わる角にあるのは、マドモアゼルノンノンの細い入り口だ。

出勤する時間には店はまだオープンしておらず、人の気配もまばらな原宿の街にあふれているのは、ただただ光だった。

竹下通りの出口を左手に見ながら右の路地に曲がる。この通りは、「ファッションの街・原宿」とはほど遠い雰囲気で、この町に暮らしている人たちが利用する昔ながらの普通の商店が並んでいる。のちに「キャットストリート」と呼ばれることになる遊歩道に突き当たると、左に曲がって少し歩いて側道のような小道に入る。その右手にある「静雲アパート」の2階の一番奥の部屋がヤッコさんの自宅であり、社会人一年生になった私の職場だった。

「おはようございます」とドアを開けると、洗濯と朝ごはんを終えたヤッコさんが笑顔で出迎えてくれるが、朝風呂に入ったあとのタオルを巻いただけの姿のときもあった。

「じゃ、レオンで打ち合わせしましょうか」と言われ、靴も脱がないまま、今来た道をヤッコさんと一緒に戻る、ということもしょっちゅうだった。「ドンキイに行きましょう」と言われる日もあった。ドンキイは竹下通りの出口近くにあるコーヒーショップで、ドンキイに移動する日は、そこにヤッコさんの恋人も来て一緒にコーヒーを飲むのがお決まりだった。ヤッコさんの恋人は「レオン」には行かない。「常連がいる店は苦手だ」と言っていた。ドンキイにも常連たちがいるにはいたが、そのほとんどは学生で、彼らが店に来るのは大学を終えてからなので、朝のドンキイはすいていた。レオンはセントラルアパートに勤務するクリエイターたちが仕事前の一服として利用することが多かったから、朝早くから常連たちでいっぱいだった。60年代の終わり頃、セントラルアパートの会社に勤めていたヤッコさんは常連中の常連といった感じで、店のスタッフはもちろん、いつもいるお客たち全員と顔見知りだったので、そんなヤッコさんの恋人の立場でレオンにいることが、彼にとって居心地悪いことは想像がついた。

ドンキイでは、ガラス越しに明治通りが見える窓際の席に座るのがお決まりだった。

会った途端、「昨日の夢はどんなだった?」、ふたりの会話はいつも夢の話から始まるのだった。夢には深層心理が隠されているというのがふたりの共通の考えで、夢の報告をし合うことは、一緒にいない時間のお互いを報告し合っているという感じだった。ヤッコさんが自分の夢を語ると彼が「それはきっとコレコレこういう心理からきてるんじゃないかな」なんて真面目に感想を言う。最初は男女の不思議な会話だな~と思っていたが、そのうち慣れてくると私も自分が見た夢をノートに書き留めたり、勝手な夢分析をしてみる癖がついてしまった。

そんなわけで、出勤後の朝いちばんのスケジュールは、ヤッコさんと恋人のロマンチックな会話に付き合うところから、なんてことも珍しくはなかった。

ヤッコさんがもっともよく行っていた「レオン」は、神宮前交差点の角のセントラルアパートの表参道側の1階にあったガラス張りの店で、現在は「今をときめくクリエイターや芸能人たちが常連としてたむろっていた伝説の喫茶店」として語られている。そんな風に書くと、いかにも華やかな洒落た喫茶店だったような印象だが、店自体は黒い壁に曲木の椅子が並んだ、ごく普通のインテリアで、トースト、チーズケーキのあるメニューも普通だった。ただし、1杯分のお値段でコーヒーを何杯もおかわりできるところは当時としても普通ではなく、セントラルアパートの若きクリエイターたちが長居していた理由に、そこも大きかったと思う。

喫茶店「レオン」のコーヒー。
写真提供/染吾郎

2019年に出版した拙著『70s原宿 原風景』(DU BOOKS)の中でヤッコさんが執筆したレオンについての文章を抜粋する。

原宿の喫茶店レオン。(略)私はその場所を自分の居間のように思っていました。(略)


レオンがカッコいいということはなかったけど、そこに集まる人たちがレオンを特別な場所にしてゆきました。山口はるみさん、伊丹十三さん(当時は一三さん)、浅井慎平さん、鋤田正義さん、糸井重里さん…と挙げてゆけばきりがないけど、そういうプロフェッショナルな人たちと、まだ時代の予感だけでうごめいている若者たちが何の違和感もなく、混在していた場所でした。


音楽的なことを言えば、レオンにはほぼ現れなかったけど、階上のセントラルアパートには、小沢征爾さん、ピアニストの中村紘子さんがいました。


京都からは、村八分のメンバーや、桑名正博さんが現れたし、加藤和彦さん、ジョー山中さん…etcがいました。


ある日、静かにコーヒーを飲んでいた川久保玲さんが「私、洋服をやろうと思う」と一言いったのを覚えています。多分、1968年か69年のことでした。(略)

1970年の春、レオンに、ビートルズの「Let it be」が流れていました。


私は2回目のニューヨークから帰ったばかりで、この新曲をビレッジのいろんな所で聴いていました。その曲が流れているレオンに迎えられた時、「あ、世界はつながっている」と心底感じたのでした。


それから間もなく、私はロンドンに行き、生まれて初めて、山本寛斎さんのファッションショーをプロデュースすることになります。


71年、その私に、レオンで初めて話しかけてきた人が鋤田正義さんでした。お互い、3年ほど同じレオンで過ごしながら、口をきいたことはありませんでした。それほど広くない喫茶店の、私は道路側のガラス張りの席。鋤田さんはいちばん奥の席でした。


私は鋤田さんの話を聞き、彼が望むミュージシャンとのフォトセッションのために、再びロンドンに向かい、一気に、T・レックス、デヴィッド・ボウイとつながっていったのです。

私がレオンに通うようになったのはそのあと、73年からだ。

その頃のレオンは、今をときめく有名人やファッションピープルたちが集まる店としてすでに雑誌などでもよく取り上げられていて、おしゃれな高校生たちにとって、BIGIやMILKといったブティックと並ぶ「あこがれの店」だった。

表参道に面して一面ガラスだったレオンの前を通るとき、若い子たちは誰もが歩行を緩め、首を伸ばして店内を覗き見た。後になって「田舎から出てきた自分には入る勇気がなかった」といった証言を当時大学生だった多くの人たちから聞いた。たかが喫茶店なのに、なぜか敷居が高い感じがする店、それがレオンだった。

やはり拙著『70s原宿 原風景』からの抜粋となるが、70年代にプラスチックスのメンバーだった中西俊夫(1956―2017)は、二十歳前後の目から見たレオンについてこう書いている。ちなみにトシちゃん(中西)と私は同い年だ。

まず、人生で大事なことはほとんどレオンで学んだような気がする。


夢の実現の仕方とか、何が粋で何が粋じゃないかとか、皆自由業の人ばかりだったので、どう仕事に繋げるかとかね。皆、レオンのピンクの電話を事務所代わりのように使っていた。(略)行けば誰かいるし、話題も出たばかりの向こうの雑誌とか、イケてる髪型とか、映画とかデヴィッド・ボウイのこととか多岐に渡った。本当にカフェ・ソサエティだったね。だって一日中たむろって、表参道の人々のファッションショーを見てるんだもの。


一度なんて上のセントラルアパートの鋤田さん(鋤田正義)のとこを訪ねてきた本物のボウイを皆目撃したこともある。僕はトイレなんか行ってて見逃したけど。(略)


作詞家の松山猛さんもよく出入りしてて、僕は彼のT・REXの「電気の武者」の訳詞に感銘を受けていたので恐る恐る声をかけさせていただいたこともある。


だいたい皆、自然に顔見知りになるというオープンな場所だったね。(略)類は友を呼ぶというか、自然発生的に友達になるという、それが普通の街の喫茶店だったはずのレオンが、サロンというかカフェソサエティになってゆく過程で起こっていたことだな。

私にとってのレオンは、午前中はヤッコさんと打ち合わせする場所。CMのコンテやラフを広げながら、その日やることのメモを渡されたり、ヤッコさんの指示をメモしたりする場所だった。店内にいる人に向かって「これから何々を探さなきゃならないんだけど、いいのを置いている店、知ってる?」なんて聞いてアイデアをもらうこともたまにあった。

ヤッコさんにとっては、当時、雑誌に連載中だった原稿を執筆する場所でもあった。

書き上がった原稿用紙をお店の人に預けると、お店の人は事務的に、なぜかチーズケーキが陳列されているガラスケースの中にしまった。編集者がそれを受け取りに来た。

夜中に書き上がった原稿は私が預かってレオンまで届ける役目をした。

それぞれ別々のところを回って衣装集めをして、ヤッコさんとレオンで落ち合うこともしょっちゅうだった。

舘ひろしや岩城晃一がメンバーにいたクールスがレオンの常連だった話は有名だが、実際、クールスのメンバーはしょっちゅうレオンに出入りしていた。黒い革の上下を着た彼らがいると、黒い壁の店内がクールでおしゃれな雰囲気になり、その傍らにモデルが座ると一気に華やかさか増した。ホットパンツを穿いた十代の若いモデルがキレイな足を組んで、リーゼントの舘ひろしさんの膝の上に座っている光景はまるで映画のワンシーンのようで、今も私の脳裏に焼き付いている。

70年代終わり頃になると、奥のほうにインベーダーゲームが設置された。その席にいつも長時間張り付いていた糸井重里さんと鋤田正義さんの姿も印象的に残っている。

トシちゃんも書いている通り、店内のピンク電話を事務所の電話の如く使っている人たちもたくさんいた。ギャラの交渉をしている声も時折聞こえてきたし、80年代にブームを起こしたパーソンズの岩崎君が(彼も私と同い年だった)、自分がデザインした靴を紙袋に突っ込んできて、いろんな席を回って売り込んでいた姿も覚えている。常連だったカメラマンとスタイリストのカップルは、自分たちはSMだと、その関係をあっけらかんと話してくれた。Kちゃんは、当時ショーケンの奥さんだった小泉一十三さんの妹さんで、「家にいるときのショーケン」の様子について面白おかしく語ってくれた(ショーケンこと萩原健一の人気は当時絶大だった)。

レオンに行けば、必ず面白い人や面白い話題に出会えた。

上司ひとり、部下ひとり、電話番もいないふたりだけの事務所に勤務しながらも、ヤッコさんがレオンを仕事場のサロンのようにしていたおかげで、面白い上司や楽しい同僚に囲まれているような日々だった。

追記

携帯電話もインターネットもファックスもなかった時代、仕事の連絡は100%電話で、外にいることが多いヤッコさんにとって「留守番電話機」は命綱だった。今みたいな一体型ではなく、電話機は大きな箱型の留守番電話機の上に置かれていた。

事務所兼自宅を出るとき、ヤッコさんは必ずメッセージを入れ替えた。

「高橋靖子は、今日は10時から12時まではレオン、電話番号〇〇〇〇の〇〇〇〇に、2時から3時までは××××、電話番号〇〇〇〇にいます。ご用件のある方は、ピッという音のあとに伝言を吹き込んでください」と、行先の電話番号を告げながらスラスラ吹き込んだ。だが、なぜか私の耳には最初から「ピッという音のあとに」というフレーズが「ピットヨートナットに」と聞こえていた。そして、「ピットヨートナット」というのは留守番電話機の名前だと思い込んでしまっていた(なんせ、留守番電話機の存在を生まれて初めて知ったのはヤッコさんによってだったし)。ヤッコさんが海外ロケに行っている間、留守電の吹き込みを頼まれた私は緊張しながら、ヤッコさんがいつもやっている通りに最後に「ご用件のある方は、ピットヨートナットに伝言を吹き込んでください」とやった。

帰宅して留守電を確認したヤッコさんは訝し気な顔で「ピットヨートナットって何?」と私に訊ねた。「だから留守番電話のことです。ヤッコさんもいつもそう言ってますよね」と言うと、「私は、ピッという音のあとに、と言ってるのよ。ずっと『ピットヨートナット』って聞こえてたの?あなた、変わってるわね」と言うだけで、怒りもせず、バカにもしなかった。「あなた、変わってるわね」という台詞は度々言われたが、そんな私の「変わってる部分」も、ヤッコさんは面白がって愛してくれてた(と思う)。

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