2024.4.19.Fri
今日のおじさん語録
「モノがあるとモノに追いかけられます。/樹木希林」
2018年にキャロルのギターだったウッチャンこと内海利勝さんのラジオ番組、かわさきFMの「LOVE&PEACE 同じ空の下から」にゲストとして呼んでいただいたとき、昔買ったアルバムを持参してサインしてもらった。高校生の私に自慢したい出来事だった!
20th Century Girl
連載/20th Century Girl

〝永ちゃん〟に恋した、
1975年の夏

文/中村のん

中村のんさんの大人気連載『20th Century Girl』を更新しました。今回は矢沢永吉と、彼が在籍したロックンロールバンド「キャロル」が、最先端のポップカルチャーだった頃のお話。いくつもの煌めくような才能との出会いが、ひとりの少女を大人にしていく。

最近読んだ2冊の本から遠い記憶がよみがえってきた。

1冊は音楽プロデューサーの井出靖さんが今年1月に自社出版した『ROLLING ON THE ROAD』(Grand Gallery)。

「ところで僕は、75年4月13日に日比谷野外音楽堂で行われたキャロルのラストライヴを体験している。その模様を収録したDVD『燃えつきる~ラスト・ライヴ』を観ると、キャロルは今の時代においてもスタイリッシュで最先端のロックであることがよくわかる」という一文に、思わず「私もいました!」と反応し、記憶の森に入っていった。

私がキャロルに夢中だったことは、この連載の初回に書いた。ヤッコさんとの出会いのきっかけは、私が彼女にファンレターを送ったことで、ヤッコさんのファンになった理由のひとつに、彼女がデヴィッド・ボウイとキャロルのスタイリストだったから、ということについても。

キャロルがデビューしたのは1972年、この頃のミュージシャンたちはロックもフォークも、皆一様に、ヒッピーカルチャーに影響を受けた格好をしていた。長髪に裾広がりのジーンズ、くたびれたTシャツやネルシャツといった自然体のファッションが主流だった時代に、ポマードでテカテカに固めたリーゼントに、体にフィットした黒い革の上下のいでたちで現れたキャロルは、若い女の子の目に、このうえないセクシーな姿に映った。

私の落書きの下に、当時つき合ってたリーゼントの彼が「オレはどうなんだ!!愛しているか・・・?」と書いている。青春だな~(笑)。

キャロルがデビューした高校時代、リーゼント自体はとくに目新しいものではなく、同年代の男の子たちの中にもリーゼント族はいた。いわゆる「ツッパリ」「ヤンキー」に属する男子たちだ。だが彼らが着ていた黒は、長ラン、ボンタンであり、また、暴走族としてバイクを飛ばすことはあっても、体にピッタリ張り付くような黒の革の上下なんてシャレた格好はしていなかった。

キャロルがしていた、いわゆる「バイカーズ」ファッションは、すでに1953年の映画『乱暴者(あばれもの)』で主役のマーロン・ブランドが、そして、60年代のイギリスで「ロッカーズ」と呼ばれた不良少年たちがしていたスタイルだったわけだが、70年代を青春とする私たち世代には、そのファッションも、ロックンロールのリズムも、リバイバルではなく、「新鮮なもの」として入ってきた。

そして、さらにそれから50年が経って、「キャロルは今の時代においてもスタイリッシュで最先端のロックである」と断言する井出さんの言葉に私も同感だ。

75年4月13日に話を移そう。

「キャロル解散コンサート」、この日、私は、キャロルと縁が深かった山ちゃんが経営するクリームソーダで買ったショッキングピンクのパンツを穿いて野音に向かった。一緒に行った妹は同じパンツのターコイズブルーを穿いていた。開演前、野音の中をウロウロしていると、雑誌のカメラマンに、妹と並んだストリートスナップ的な写真を撮られ、インタビューを受けた。

キャロルに夢中だった18歳の頃。この当時の女の子たちは、笑わない写真のほうがクールだと思って、皆、そうしていた。

私の席は真ん中辺だったと思うが、気が付くと最前列に立っていて、後ろから押し寄せてくる人波に押されるままに、ステージに駆け上がろうとした。が、片足を乗せた途端、ステージ上で警備の役目をしていたクールス(※)のジェームス藤木に押し戻された。せっかく頑張って片足かけたのに、コノヤローと思ったことを覚えている(笑)。


※舘ひろしや岩城滉一を輩出した、バイクチームでありロックンロールバンド。「キャロル」の解散コンサートでは親衛隊を務めた。ジェームス藤木はギタリスト。この日から50年近く経ってからジェームスと会う機会があったのでそのことを話すと、「あのときはごめんね」と謝ってくれた(笑)。

アンコールが終わってメンバーが立ち去った直後、ステージに大きく掲げられていた「CAROL」の文字がメラメラと燃え始めた。炎に包まれ、落ちてゆくアルファベットを呆然と見つめながら、これでおしまい、キャロルのライブをもう二度と見れない淋しさが胸に迫ってきて泣いた。余談だが、この炎上は演出とばかり思っていたが、実は、演出効果のために放った爆竹の残り火が舞台の発砲スチロールに燃え移り、その火がステージの天井まで炎上してしまったという、メンバーやスタッフにとっての想定外のアクシデントであったことをのちに知った。

ライブが行われて間もなく、ライブの模様がテレビで放送されることになった。私の記憶では土曜日の午後だった。私はヤッコさんと一緒に衣装集めで原宿をうろついていた。時計を見たヤッコさんが「あ、もうすぐ始まる!」と言った。番組録画もビデオテープもなく、テレビはオンタイムでしか見られなかった時代だ。ヤッコさんは原宿交差点にあるセントラルアパートの中のデザイン事務所「ペンシルポイント」に駆け込んだ。事務所の人たちが黙々と仕事をしているそばで、突然入っていった私たちはテレビに向かって、キャーキャー声を上げた。そして、私はまた泣いた。

私の中で、キャロルも永ちゃんも終わった、はずだった。

だが、キャロルが解散した年の夏、赤坂のホテルの一室で、私の目の前に永ちゃんがいた。信じられないことだった。テーブルの向こう側にいる永ちゃんの姿に、これは夢なんじゃないか、ずっとそんな気持ちでいた。キャロルを解散した矢沢永吉がソロアルバムを出す、そのジャケット撮影にスタイリストとしてヤッコさんが参加することになり、その打ち合わせに私も同席することになったのだ。

「これはシークレットの打ち合わせだからね」、行く前にヤッコさんから念を押された。アシスタントとはいっても、このときの私はまだ桑沢の学生でありアルバイトの立場だった。性格的にもいかにも友だちに言いふらしそうな私に、「シークレットだからね、内緒よ」と、ヤッコさんはいつになく強めの釘を刺した。

打ち合わせの様子はまったく覚えていない。私はひたすら夢の中にいる気分でボーっとしていたのだと思う。

打ち合わせが終わって帰ろうとするとき、永ちゃんの隣にいた男性が私に話しかけてきた。「あの、前にどこかでお会いしたことありますよね」と言われ、咄嗟に「いえ、ありませんが」と答えると、「いや、絶対会ったことあると思うんですが」となおも言う。「平凡な顔ですから、誰か似た人ではないですか」と答えたのは、十代にしては上手い交わし方だったと今でも思う(笑)。

というのも、「会ったことある」と言われた私は、実はついこの間まで、キャロルのライブが終わるやいなや、楽屋口に押しかけて「はい、帰って、帰って」と扱われていた子だったからだ。こんな大事なシークレットな場に、図々しい一ファンが紛れ込んでるなんて、絶対にあってはならない、知られてはいけないことだと思ったのだ。帰りのタクシーでヤッコさんに「あの人は誰ですか」と尋ねると、「キャロルのロードマネージャーだった〇〇さんよ」と言われた。「ロードマネージャー」という言葉は、このとき初めて聞く言葉だった。

衣装集めをしたときのことを思い出すと、のどかな情景が浮かんでくる。

表参道に面したビルの中にある古着屋さんに行ったときは永ちゃんも一緒だった。「スタークラブ」という店名を知ると、自分にピッタリだと喜んだ。ヤッコさんと三人でタクシーに乗ったとき、後部座席にいた永ちゃんに向かって運転手さんが「お客さん、歌、好き?」と聞いてきた。誰に向かってなんちゅう質問をするんだと思ったが、永ちゃんは、普通に「好きですよ」と答えた。運転手さんが「これ、私が歌ってるんですけどね」とカセットテープを入れ、車内に演歌が流れた。「運転手さん、歌、上手いですね」と真面目に言ってる永ちゃんを、なんていい人なんだと思った。

私の記憶を呼び覚ましてくれたもう一冊の本は、昨年出版された山内マリコさんの『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』(マガジンハウス)だ。この本の中には、「シー・ユー」ことシー・ユー・チェンさんが多く登場する。ヤッコさんが「チェンさん」と呼んでいたこの人の名前はヤッコさんとの会話によく出てきた。ふたりは親しかった。

永ちゃんの衣装集めでVANのPX(※)に行ったとき、そこにシー・ユー・チェンさんもいたことを思い出した。私がチェンさんと会うのはこの日が初めてだったが、なぜここにチェンさんがいたのか、今もってわからない。この頃のチェンさんは、二十代後半だったと思うが、オシャレでカッコイイ、物腰の柔らかいジェントルマンで、それまでに会ったことのないタイプだった。

※「PX」とは、Post Exchangeの略。基地や駐屯地の居住者のための日用品売店であり、一般人は購入できない。VANはアメリカナイズされた会社であったため、社員が自社商品を安く購入できる店として、VAN-PXを運営していた。記憶では、青山の目立たない場所にあり、倉庫のような建物だった。

事実に基づいたこの小説によると、シー・ユーは香港生まれの華僑で、日本のアメリカンスクールに通い、学生時代に高橋幸宏さんの兄である高橋信之氏や成毛滋と共にグループサウンズの「フィンガーズ」のメンバーとして活動。良家のお坊ちゃまたちによって結成されたフィンガーズは中学時代のユーミンが追っかけをしていたバンドであり、その中でもベースのシー・ユーのファンであったとされている。

「由実はその青年の一挙手一投足に目を奪われた。こんな人もいるのかと、ため息が出るようなスマートなルックスと物腰。楽器を持つ手がさまになっていて、なにか哲学的なことでも考えていそうな寡黙な雰囲気だ」と描かれているシー・ユー・チェンさんは、「ユーミン」という呼び名のきっかけの人であり、デビュー前のユーミンに、音楽的にもカルチャー的にも多大なる影響を与えた人物であったことを、この本によって初めて知った。

私かヤッコさんが撮ったスナップ。後ろ姿は、カメラマンの井出情児さん。

撮影は神宮外苑の中にある絵画館前で行われた。カメラマンは井出情児さん。永ちゃんの衣装は白いタキシードに、足元はプロケッズ。この当時、ミック・ジャガーをはじめとするミュージシャンたちがしていたスタイルに影響を受けたコーディネートだった。

絵画館の建物の中の控室で、私は永ちゃんのシャツにスタッドボタンを付けることになった。タキシードを触ること自体初めてで、それだけでも緊張なのに、私の頭の上に永ちゃんの顔がある、しかも、息がかかりそうなくらい近くに。ドキドキがマックスで、小さなボタンをつまんだ指先が震え、穴に入れようとすると、ポロリと落ちてしまう。床から拾い上げてまたトライするも、また落としてしまう。そんな様子を永ちゃんは静かに見守ってくれていたが、そのうち、笑いながら「自分でやろうか」と言ってくれた。「すみません、お願いします」、私はスタイリストのアシスタント失格だった。

白のリンカーン・コンチネンタルをバックに、永ちゃんは美女と並んだ。美女は、ヤッコさんが手配したモデルのスーザン矢口だった。つい先日、デザイナー・花井幸子さんの訃報を知り、このとき、スーザンに着せたドレスが、花井幸子さんのデザインであったことを思い出した。

絵画館前の撮影を終えると、渋谷に移動した。西武デパートの前にあったゲームセンター「ファンタジア」のネオンをバックにした撮影だった。永ちゃんが着用したチェックのジャケットは、チェンさんと一緒に行ったVANのPXで入手した物だった。カメラマンがセッティングをしている間、車の中で待機していたが、永ちゃんからゲームセンターに行こうと声をかけられた。車を降り、入っていくと、中にいた若い子たちがざわついた。「あの子、誰?彼女?」、そんな声が聞こえてきた。永ちゃんと並んでスロットマシーンに向かう背後に人だかりができていた。

つい数か月前まで、楽屋口で追い払われ、ステージから突き落とされていた私が、と思うとほくそ笑みたい気持ちにもなったが(笑)、それは何もかもが、ヤッコさんからの恩恵の賜物だった。

この撮影が終わってからもしばらくの間、興奮が冷めなかった。キャロルに夢中になっていた頃とはまた違う興奮状態だった。永ちゃんのことばかり考えていた。永ちゃんのカッコよさ、直に感じた優しさ、まわりを和ますユーモア、ステージだけでは知りえなかった永ちゃんの、人としての、男としての魅力。付き合っていたボーイフレンドと一緒にいても、頭の中は永ちゃんのことでいっぱいだった。まだ何もしてないくせに、上から目線で語る彼の言葉にイラついた。

別れ話を切り出した場所は下北沢の洋食屋だったと思う。理由を尋ねる彼に、「永ちゃんを好きになったから」と、大真面目に言ったはずだ。好きになったとは言っても、ステージを見る以外には、もう二度と会えないかもしれない相手だ。そんな相手とボーイフレンドを較べる自分はいったい何をやってるんだ、という気持ちもないではなかったが、私の中で彼の魅力は色褪せ、一緒にいる時間に楽しさや喜びを見出せなくなっていたことは事実だった。「これって、矢沢永吉に彼女を奪われた、ってことになるのかな」。ボーイフレンドが釈然としない様子で言った一言が今も記憶に残っている。

そもそも、その何か月も前から、私はボーイフレンドから「ヤッコさん禁止令」を出されていた。「オマエ、気が付いてないかもしれないけど、二言目にはヤッコさん、ヤッコさんって。オレが何か言うとすぐに、でもヤッコさんは、ヤッコさんなら、って。オレはオマエみたいにヤッコさんに興味があるわけじゃない。ヤッコさんの仕事を手伝うのはいいけど、オレといるときは、『ヤッコさん』って言葉は禁止!」

彼は明らかにヤッコさんに嫉妬していた。ヤッコさんが私に与えている影響に。

私はヤッコさんと、ヤッコさんの周りにいる人たちや、ヤッコさんを取り巻く世界に魅了されていた。そこは、キラキラしていると同時に、人として大切なことを教えてくれる世界だった。私はヤッコさんから与えられたものについて話したくて仕方がなかった。彼にも知って欲しかった。でも、いつしか、私はそんな話題を遠慮するようになっていた。

私は幼かった。彼もまた幼かった。幼い同士としている世界は、それはそれで楽しかったけれど、ヤッコさんとの出会いによって、私は彼より少し早く、幼いだけの世界から出ていこうとしていた。ふたりの世界は交わらなくなっていった。永ちゃんとの撮影を経験しなくても、彼と別れる理由は、私の中にとっくにあったのだと思う。

キャロル解散から5カ月後、1975年9月21日に、矢沢永吉の初ソロアルバム『I LOVE YOU OK』が発売された。

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