〜70年代のスタイリスト〜
ヤッコさんとの
はじめての仕事
文/中村のん
スタイリスト中村のんさんによる、エキサイティングで自由の息吹に満ちた〝70's原宿〟と、恩師である高橋靖子さんの物語。今回は〝スタイリスト〟という概念がまだ存在しなかった、1970年代におけるヤッコさんの仕事ぶりを綴ってくれた。一見華やかに見える世界の裏側で、携帯もネットも、FAXすらなかったあの頃のクリエイターたちはどんなことを考えて仕事をしていたのか? なにかを表現することに憧れている人、そして悩んでいる人には、ぜひ読んでいただきたい。
学校に通うかたわら、私がアルバイトとしてヤッコさんのアシスタントをスタートさせた70年代の中頃は、その仕事内容はおろか、「スタイリスト」という職業名もまだ世間に浸透していなかった。私自身にしても実際に現場に立ち会う前は、『anan』で紹介された「スタイリストの仕事」の記事から知った「ファッション撮影に使う服をリースして、大きなバッグを持って原宿を駆け回り、靴の底にガムテープを裏張りし、服をコーディネートして撮影に立ち会う人」といったイメージしかもっていなかった。そんな背景のもと、1976年に講談社から出版されたヤッコさんの著書『あいさつのない長電話』の帯に、伊丹十三さんが「スタイリスト」の仕事とヤッコさんについて、このような紹介文を寄せられている。
推薦のことば ○伊丹十三
友人、高橋靖子さんを紹介します。彼女は第一流のスタイリストであります。スタイリストというのは、ファッションの写真や、コマーシャルフィルムを作る場合、たとえば、適当な家、それらしい室内、狙い通りの家といったものを、どこからともなく捜し出してきてくれる人なんですね。ついでに、その場所に合った小道具も工面してくる。衣装も調達する。場合によってはモデルもつれてくるし、ヘアやメイキャップの助言もするという、実にまァ、「心利きたる者」なんです。彼女と組んで仕事をするということは、私にとっては誇張ではなく天国なんです。彼女は、この世界において、徹底的なプロフェッショナルなんです。いつだったか、適当な家が見つからなかった時、悔し涙を流しながら徹夜で町をさまよい、ついに見つけ出したという人です。つまり頑固なんです。プロフェッショナルとして頑固なだけじゃない、彼女の場合はむしろ、自分の心を自由に搏かせることに関して頑固なんです。だからこそ彼女は常に彼女自身であり、それはまぎれもなく才能の域に達している、と私は思えるのであります。
そして、ヤッコさんは著書『表参道のヤッコさん』(アスペクト)の中で伊丹十三さんについてこのように書いている。
伊丹十三さんとはじめて仕事をしたのは、セントラルアパートにバーズスタジオという事務所を持っていた浅井慎平さんの紹介だった。
「週刊文春」の見開きカラーページで、伊丹さんのエッセイに浅井さんの写真(のちに井出情児さんも加わる)、スタイリストは私。60年代後半の当時、スタイリスト名が一般週刊誌のグラビアに毎週載ったのは、これがはじめてだったと思う。
当時、伊丹さんのアンテナはとても感度が高かった。私がニューヨーク行きの準備をしているとき、「ニューヨークには『ホール・アース・カタログ』という電話帳くらいの大きさの本がある。それを買ってきて」と。
その本にインスパイアされた伊丹さんの連載タイトルは「地球部分拡大図」だった。すでに、伊丹さんは地球規模でいろいろなことを考えていた。私もその意を汲んで、楽しく大胆なスタイリングに励んだ。
※「地球部分拡大図」は、正しくは「チキューボシブブンカクダイズ」。
80年代に入ると、DCブランドブームが佳境に入り、ファッション雑誌が次々に創刊され、広告やCMは最盛期に向かい、スタイリストの仕事を必要とする場も、スタイリストの仕事に就く者も、あれよあれよという間に増え、スタイリストは女の子たちにとっての「あこがれの仕事」のひとつとなった。それにつれてスタイリストの仕事は専門的に細分化され、「雑誌メインのスタイリスト」「広告メインのスタイリスト」、また、「メンズファッションがメインのスタイリスト」、さらには「雑貨スタイリスト」や「クッキングスタイリスト」といった肩書で仕事をする人たちも現れた。けれど、「日本のスタイリスト第一号」とされるヤッコさんが仕事を始めた頃、また、私がアシスタントだった頃は、伊丹十三さんが書かれたように、撮影場所も、モデルも、衣装も、家具もお皿も観葉植物も、写真に写る何もかもをスタイリストが調達することが当たり前だったのだ。
余談だが、1974年から75年にかけて放送されたショーケンこと萩原健一が主役のドラマ『傷だらけの天使』のエンドロールには「衣装協力・メンズビギ」と毎回クレジットされていて、ショーケン人気に伴って、メンズビギにあこがれる男の子たちが続出したが、それはドラマ史上初の衣装クレジットだったことを何十年も経ってからメンズビギのデザイナーだった菊池武夫さんからお聞きした。そしてそれは、メンズビギの服を愛用していたショーケンのアイデアだったということも。
ドラマの最後に、スタイリストの名前と、「衣装協力」として数々のブランドロゴがクレジットされるのは今や当たり前だが、『傷だらけの天使』以前は、ドラマの衣装はテレビ局の衣装部さんの仕事であり、誰が揃えたのか、どこの服か、なんてことは、誰も気にしていなかった。
あるとき、ヤッコさんから「撮影のお手伝いに来てくれる?」と電話があった。撮影日は学校のある日だったが、迷うことなく、即座に「行きます!」と答えた。ヤッコさんから聞いた「カメラマンは横須賀功光さん」の名前を教室で男子学生たちに言うと、彼らは目を輝かせた。「横須賀さんの撮影を見れるんだ、いいなー」「どんな人だったか、あとで教えて」等々、写真好きの男子たちは好奇心をたぎらせた。
横須賀功光さんは広告業界で名実ともにトップのカメラマンだったが、グラフィックを専攻していながらも私はそのことに関して無知だった。だが、私が大好きな山口小夜子の資生堂のポスターも、当時、もっとも話題になっていたアートディレクター・石岡瑛子さんによる渋谷パルコのポスターも、横須賀さんがカメラマンなのだと男子たちから教えられ、その撮影現場に立ち会えるチャンスに浮き立つ思いになった。
撮影日、集合は早朝だった。気持ちのいい光の日だった。モデルのメイクが終わって衣装に着替えたところに横須賀さんが現れた。大きな外車から降りてきた横須賀さんは、ベージュっぽい麻(だったと思う)の三つ揃いを着てゆったりと歩いてきた。ウェーブのかかった長髪とスレンダーな体に、ソフトな雰囲気のスーツがとても似合っていて素敵だった。カメラマンの実物を目にしたのは初めてだったが、「少女漫画で見ていたイメージ通りにカッコイイ!」と思ったことを覚えている。
翌日学校でそのことを男子たちに報告すると、「さすが横須賀さんだ!」「やっぱりカメラマンっておしゃれでカッコイイんだ!」と彼らは無邪気に興奮した。「カメラマン」が花形の職業だった時代だ。けれど、その後、しっかり業界に入って、数えきれない数のカメラマンと仕事をすることになったが、ベージュの三つ揃いで現場に立つカメラマンなど一人も会うことはなかった。そして、その後、ヤッコさんのアシスタントとして、また、フリーになってからも、横須賀さんとは何十回もお仕事をご一緒したが、撮影現場でスーツを着ている横須賀さんを見たのは、この日が最初で最後だ。それはともかく、人生で初めて会ったカメラマン、横須賀功光さんの印象は、「時代の寵児」「早熟な天才カメラマン」と呼ばれるにふさわしいオーラに包まれた強烈なものだった。
午前中の路上でのロケを終えると、元赤坂にあった横須賀さんの事務所に移動して、広いリビングでの室内ロケに移った。モデルは十代のハーフの女の子だった。撮影の直前だったか始まってすぐだったか、突然、横須賀さんが「ポピーをたくさん買ってきて」とヤッコさんに言った。現場にいなくちゃならないヤッコさんから「のんちゃん、ポピーをたくさん買ってきて」と振られた。思いつく限りの赤坂、青山近辺にあるお花屋さんの手描きの地図と1万札を何枚か渡された。「一軒だけじゃ足りないわよ、きっと。全部回ってあるだけ買ってきて。いっぱいよ、いっぱい」と言われた。当然ながら、花のそんな買い方などしたことがない。というより、実家暮らしで花を買うといえば、母の日のカーネーションか、友達の誕生日に数本の花を贈ったことしかなかったので、「いっぱい」と言われても、「いっぱいが、具体的にいったいどのくらいの量なのか…」とドギマギした。
「タクシーを使ってね」と言うヤッコさんの指示通り、教えられたお花屋さんを回ったが、思いのほか、ポピーはなかなか見つからなかった。あっても「いっぱい」には程遠い量しか置いてなく、言われたお花屋さんのすべてを回ってすべて買ったが、それでも足りない気がした。スマホもグーグルもなかった時代だ。お花屋さんに行くたびに、「この辺りに他にお花屋さんはありませんか」と聞いて、そこも訪ねた。「間に合うだろうか…」、時間にもドキドキした。
なんとか両手で抱えられるくらいの量のポピーを集めることができたので、撮影場所に戻った。撮影は始まっていた。必死で集めたポピーを見ても、誰も「お疲れ様」も「ありがとう」も言ってくれなかった。そこにいた人たちの目はモデルに集中していた。横須賀さんのアシスタントさんが、水を張ったバケツを持ってきて、ポピーはそこで出番を待つことになった。「いつになったら必要になるのかな~」、ポピーと一緒にスタンバってる気分で横須賀さんが次々にシャッターを切る音を聞いていた。
と、突然、横須賀さんが「はい、お疲れ!」と言った。シャッターを切る音がやみ、撮影は終了した。おずおずとヤッコさんに「あのー、ポピーは・・・」と言うと、「横須賀さん、気が変わったみたいね」と言われた。きっと私はがっかりした表情をしていたのだと思う。「よくあることよ、とくに横須賀さんは」とヤッコさんに言われ、へ?こういうのって、よくあることなんだ、と思った。スタイリストの大変さを最初に思い知った瞬間だった。
結局、ポピーはスタッフが分けて持ち帰ることになった。私ももらえた。それはそれで嬉しかった。そして、その後、横須賀さんの現場では、いや、横須賀さん以外の現場でも、ヤッコさんが言った「よくあること」を何度も経験することになるのだった。
ウイスキー、ロバートブラウンのCMは、ヤッコさんのレギュラーの仕事だった。出演者は毎回違う各界の著名人や文化人で、ヤッコさんはその衣装だけでなく、ウイスキーグラスも、テーブルにあるものすべてを揃えていた。この撮影のために、麻布十番のスウェーデンセンターや、赤坂の東急ホテルや帝国ホテルやプリンスホテルのアーケード、そして、ジョージ・ジャンセンやアンティークのポートベローなどをヤッコさんに連れられて回った。当然ながらどこも初めて行く店ばかりで、「グラスにもこんなに種類があるんだ」「世の中には、こんなに高いグラスがあるんだ」と知ったのもこの物集めのおかげだった。
買うのではなく、「リース」というやり方があるのも知った。
スタジオには集めたたくさんの小物を持ち込んだが、実際カメラの前に置かれるのはその中から選ばれたごく一部だった。また、現場では並べられていたのに、出来上がったCMを見ると、映っていない物もたくさんあった。
ロバートブラウンの撮影の合間に一人のスタッフが私に言った。「ヤッコさんはね、アングルに入らない物のこともいつも考えてくれるんだよね。だから、とても助かる」と。短い言葉だったが、この言葉がずっと、私の中に印象的に残り続けているのは、右も左もわからないながらも、何か大事なことを教えられた気持ちになり、ヤッコさんを象徴する言葉に思えたからだったような気がする。ヤッコさん自身は、私がアシスタントに就いていた4年間の間に「スタイリストの仕事にとって大事なこととは」といった教訓めいた物言いをすることは一度もなかった。だが、ひとつだけ覚えていることがある。
あるとき、CM撮影が大幅に押して、ヤッコさんはスケジュール的に現場を立ち去らなければならなくなった。プロデューサーの許可を得て、私だけを残してスタジオを出るとき、不安になった私が「私、何もできませんけど…」と言うと、「もうあとは片付けだけだから大丈夫」と言ったあと、「ニコニコしててね。男性ばかりの現場では、潤滑油になることも大事なことよ」と言われた。「潤滑油になる」、生まれて初めて耳にする言葉だった。今だと、ジェンダー問題に引っかかることなのだろうか? でも、望まれた衣装や物を揃えるだけでなく、撮影現場において、笑顔や、楽しいおしゃべりも重要な役割をもつことを、その後の現場で何度も実感した。
言葉で「教える」ということはほとんどしないヤッコさんだったが、「この仕事のはかなさが自分に合ってる」という台詞は、ヤッコさんの口から何度も聞いてきた。
プロたちが結集して作ったステージが「お疲れ様」の声と共に、取り壊され、跡形もないガランとした場所になる、一本の仕事でまるで家族のように仲良くなったスタッフでも、撮影が終わると別々の場所に帰り、その後、連絡をとることもなくなる、そのはかなさが好きだと、よくヤッコさんは言っていた。
『週刊文春』の連載後も、伊丹十三さんがCMに出演する折にはスタイリストをやったり、私服を揃えたり、また、ヤッコさんが寛斎さんのロンドンでのショーをプロデュースしたときには、ロンドンの重要人物を伊丹さんに紹介してもらったりと、交流を続けてきた二人だったが、『表参道のヤッコさん』の中で伊丹さんについて書いた章をヤッコさんはこの言葉で締めている。
ものをつくる世界では、それぞれのスタッフの組み合わせには蜜月がある。それは永遠に続かないものだし、むしろ続かないほうがいいとも言える。私は、映画の〇〇組といった結束のほうに違和感を感じるたちだ。ゆるく、はかなく結ばれて、人とその才能がくっついたり、離れつつ仕事するほうが私には合ってる。
私が知っているのは、あの頃の伊丹さん。伊丹さんは、あの時期、私にたくさんのものを与えてくれた。
何の保証もないフリーのスタイリストの仕事を続けてゆく中で、私がヤッコさんからもっとも影響を受けたのは、この感覚かもしれない。