2024.4.27.Sat
今日のおじさん語録
「モノがあるとモノに追いかけられます。/樹木希林」
1968年、新宿伊勢丹横のビルにオープンした、日本初のロックンロールショップ&バー「怪人20面相」のメンバーと高橋靖子さん。「キャロル」のメンバーも御用達だった。(写真提供/高橋靖子)
20th Century Girl
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連載/20th Century Girl

1973年、ヤッコさんが
わたしの人生の扉を開いた

文/中村のん

1970年代の原宿は、こんなにもエキサイティングでロマンティックで、自由の息吹に満ちた街だった! スタイリストの中村のんさんが綴る〝70’s原宿〟と、恩師である高橋靖子さんの物語。初回は1973年、運命の出会いから。

 人生の扉が開くとき、そのきっかけはたいてい、ほんのささやかなことだったりするものだ。だから人はその時点では「きっかけ」とは思わず、「あれがきっかけだった」と気づくのは、何年も経ってから。そして気づいた途端、人はその出来事を「運命」と名付けたくなる。

 私にとっての「運命」、それは1973年に、雑誌で出会ったこの一文だった。

 もしも私が十五歳だったら、ロックスターをおいかけまわしていたでしょう。
 もしかしたら、グルービーと呼ばれる集団のひとりになって、お目当ての歌手の赤ちゃんを産みたいなどと真剣に思いつめ、お母さんを心配させていたでしょう。

 この言葉を目にしたとき、私は15歳ではなく17歳だった。けれど、その言葉は、ミラーボールの破片がキラキラと降ってきたような感じに心に届き、広がった。

 それは、「あなたは今のままのあなたで素敵なのよ」というメッセージであり、「未来へのインスピレーション」だった。

 この頃、一番好きなファッション雑誌は『服装』だった。沢渡朔、吉田大朋、長濱治といった本人のルックスもカッコいいカメラマンたち、秋川リサ、ブレンダ、そしてのちにショーケンの妻となる小泉一十三といった、個性あふれる魅力的なモデルたち、そして彼女たちが着ていた素敵なファッション、大橋歩、湯村輝彦、河村要助、原田治、奥村民江等々のオシャレなイラスト、松山猛、砂山健のポエティックなエッセイ、あれから半世紀近く経った今でもその写真が、姿が、絵が、文章が、輝きをもってよみがえってくるほど、どのページも好きだった。発売日には、昼休みに学校を抜け出て本屋に走り、5時間目の授業で、机の下に本を広げ、1ページ1ページめくりながら丹念に読みふけった。

 私にとって「運命」となった一文は、この『服装』に連載されていたエッセイ「わたしはいま」に書かれていた言葉だった。書いた人は高橋靖子。のちに「日本のスタイリスト第一号」「日本のスタイリストの草分け的存在」という肩書きがつけられることになるのだが、この時点では、スタイリストという職業は一般にはまだ浸透しておらず、その人数も少なく、彼女自身もまた、スタイリストになって数年しか経っていなかった。私が「高橋靖子」という人の存在を知ったのはこのエッセイによってだった。そしてこれは、高橋靖子が生まれて初めて書いたエッセイだったということを、後に知ることになる。

 都立高校に通う私の日常は退屈で平凡なものだった。勉強は嫌いだった。毎日同じ椅子、同じ机に縛られていることは苦痛に近かった。部活にも学校行事にもさほど興味はなかった。けれど心の中には、抑えきれないほどの好奇心が詰まっていた。興味の対象のメインは、ファッション、そしてボーイフレンドのこと。絵を描くことが好きで、本を読むのも好きだった。そしてロックが大好きだった。とくにキャロルとデヴィッド・ボウイ。

 1973年が明けてすぐ17歳の誕生日を迎えた私にとって、この年は特別な年だった。

 4月にデヴィッド・ボウイが初来日し、新宿の厚生年金ホール、渋谷公会堂等でコンサートを行った。3か月後に行われたイギリス公演を最後にボウイは架空のロックスター「ジギー」を永遠に葬ることになるのだが、来日した時点でのボウイはまだギンギラギンの衣装に身を包んだ宇宙の申し子であり、グラムのスターだった。

 デヴィッド・ボウイの存在を初めて知ったのはその音よりも、雑誌で見た姿が先だった。ロックスターといえば、長髪でジーパンをはいて、くたびれたTシャツを着ているのが定番だった時代に、山本寛斎デザインの、ラメやスパンコールやビニールの、体にピッタリした衣装に身を包み、ありえないほどの高さのハイヒールを履き、オレンジ色の髪で、その上、メイクまで施し、そのメイクがまた今までに目にしたことがないような不思議なメイクで、そんなデヴィッド・ボウイのいでたちは、新鮮という枠を超え、驚きをもって一瞬にして私の心を鷲づかみにした。ボウイはまさしく、ほかの星からやってきた素敵な宇宙人だった。

 「ロック」「フォーク」「ソウル」といったジャンルの音楽を聴いてきたなかで、初めて知った「グラムロック」という響きも新鮮で、ボウイの声も、曲の旋律も、「これまで耳にしたことがない種類」の鮮烈な響きだった。レコードを買い、ボウイに関する情報を少しでも知ろうと、音楽雑誌をむさぼるように読んだ。

 1972年暮れにデビューしたキャロルの存在を私が初めて知ったのは、新宿のアドホックビルの1階のレコード屋だった。

 高校2年から3年になる間の春休み、新宿の花屋でアルバイトをしていた私は、新宿のアドホックビルの各階の踊り場に置かれた観葉植物に水やりをするのも仕事のひとつだった。その途中で目にしたポスターに目を奪われた。黒い壁をバックに、ポマードで固めたリーゼント、黒光りする皮ジャンと皮パン、ワルそうな眼をして立つ男四人の姿が「カッコイイ」なんて言葉では足りないほどのインパクトをもって、目に、そして心に飛び込んできた。

 バイトが終わるとすぐにレコード屋に向い、発売されたばかりのファーストアルバム『ルイジアンナ』を買った。家に持ち帰ってレコードに針を落とした途端、ロックンロールのリズムに心をかき乱された。それは「音楽による初体験」と言えるほどの強烈さで、「恋に堕ちた」という表現がふさわしいものだった。

 新宿三愛のジーンズコーナーに貼ってあったB倍の大きさのキャロルのポスターを頼みこんでもらってきて、布団の真上の天井に貼った。朝起きて「おはよう」、夜寝るときには「おやすみなさい」、下敷きに雑誌から切り抜いたキャロルの写真を挟み、気持ちのなかで一日中キャロルと一緒だった。

 この年の夏がはじまろうとするとき、リーゼントの男の子が私のボーイフレンドとなった。彼自身に惹かれたのか、単にリーゼントということだけでキャロルと重ね合わせて惹かれたのか、そこのところは今もってわからないが、ともかくリーゼントの男の子と出会った途端、お互いがひとめ惚れして、私より彼のほうが私に夢中になった。そしてそれは、生まれて初めての、本物のディープな恋だった。

 17歳の恋する女の子にとって、会えない時間は一日だって苦しい。電話で話せない日が3日も続くと不安になって、息ができないほどせつなくなった。最後に会った日にケンカなどしていようものなら、彼のことを考える以外、何も手につかなかった。そんな気持ちの日々を過ごしている最中に、セカンドアルバム『ファンキー・モンキー・ベイビー』が発売された。

「レディ・セブンティーン」「二人だけ」「ハニー・エンジェル」「彼女は彼のもの」、キャロルの曲を聴いていると、せつなさが倍増されて涙せずにはいられなかった。曲に酔って泣いたのか、恋に酔って泣いていたのか、あるいは、セブンティーンという自分の年齢に酔っていたのか、きっと全部がミックスした涙だったはずだ。

♪アイム・ジャスト・レイディ・セブンティーン、いつだってディドンディーン♪

 ジョニー大倉が、これ以上ないほどの甘い声で歌う「レディ・セブンティーン」なんかはもう、自分のために作られた曲のように思えたものだった。

 ボーイフレンドが運転するナナハンの後ろにまたがって、彼の腰にギュッとつかまって風の中を飛ばすとき、「このまま死んでもいい」と本気で思った。そういうときには育ててくれた父や母の顔も浮かばない。若さとはそういうものだ。

 高校を中退して、バイクにまたがって私に会いにくるリーゼントの男の子に母は優しく接してくれ、付き合っていることを真っ向から反対することはなかったけれど、けっして快くは思っていないこと、内心心配していることは、時々かけられる言葉から感じていた。そんな環境で目にしたこの言葉。

 もしも私が十五歳だったら、ロックスターをおいかけまわしていたでしょう。
 もしかしたら、グルービーと呼ばれる集団のひとりになって、お目当ての歌手の赤ちゃんを産みたいなどと真剣に思いつめ、お母さんを心配させていたでしょう。

 30代の、うんと年上の女の人と繋がった気持ちになった。

 連載エッセイ「わたしはいま」のページには、高橋靖子、その人の写真もたくさんあった。キャロルのメンバーと一緒にいる写真、キャロルが出入りし、ライブを行った新宿のロックンロール喫茶「怪人二十面相」の店内で撮影された写真、この店のオーナーであるヤマちゃん(山崎眞行)をはじめとするリーゼントの従業員たちと一緒に、彼らの故郷である北海道に旅したときのスナップ等々。彼らから「ヤッコさん」と呼ばれる彼女のルックスもまたロックな雰囲気でクールだった。キャロルと友だちなんだ! 興奮した。

 「わたしはいま」の中にはこんな文章もあった。

 デビッド・ボウイが好きで、ロンドン、ニューヨークと彼のコンサートを追いかけているうちに、いつのまにか彼や彼としごとをしているファミリーの一員となってしまったのです。
 彼が日本にきたときも、日本各地のツアーに同行しました。めまぐるしくかわる彼の衣装をつけたり、はずしたりする役目でしたけれど、それでもちょっと時間があれば、通用口から会場に出て、はるかなステージでうたい、おどっている姿をみつめ、音楽に聞きほれました。
 いま、わたしは、毎日のように、レコード会社のひとたちにあったり、セールスプロモーションの資料やアイデアをつくったり、アーチストのインフォメーションをのせた新聞や号外をつくったりしていました。
 いまでも、デビッド・ボウイ、イギ―・ポップ、ルー・リード、モットザフープル……などのアーチストたちは、いつまでも私の夢なのです。
 デビッド・ボウイがとまっていたニューヨークのホテルのまくらで眠っているわたしは、いつまでたっても、十五歳のグルービーなのかもしれません。

※当時の原文のまま

 デヴィッド・ボウイのファミリーの一員! ツアーに同行! 日本にこんな女性がいるんだ!という驚き。しかもこの体験から1年も経っていないのに、この凄い出来事をさらっと語る。なんてカッコイイ人なんだろう!

 キャロルともデヴィッド・ボウイとも親しい、自分の好きな仕事でワクワク生きている女性、雑誌に連載されたエッセイで知ったヤッコさんは、17年生きてきた人生の中で出会った「この世でもっともカッコイイ女性」として、私を夢中にさせた。心の底から憧れ、彼女の書いたエッセイを何度も何度も読み返した。

 1973年、この年は、デヴィッド・ボウイと、キャロルと、バイクに乗ったリーゼントの彼と、そしてヤッコさんに、それまでにない熱さをもって、同時に恋をした年だった。

 『服装』、デヴィッド・ボウイ、キャロル、ヤッコさん、全部がつながっているこの中のどれひとつ欠けても、その後の私はいなかったと断言できる。

 1973年、歴史を紐解けば、この年は「第一次オイルショック」として語られる年だが、1973年、この年は、17歳の私にとっては、まさしく私の人生の扉が開かれ、今まで見たこともない風景が、キラキラと目の前に広がった年だった。「私はもう子どもじゃない」、そんな気分をリアルに感じた年でもあった。

中村のん

1956年東京生まれ。桑沢デザイン研究所に在学中から、日本におけるスタイリストの草分け的存在、高橋靖子さんに師事。4年間の修行ののち、フリーのスタイリストとして活躍する。自身が体験した〝70’s原宿〟の語り部としての活動も開始。杉野服飾大学の教授も務めている。著作に『70’s 原風景 原宿』 (DU BOOKS)、『70’HARAJUKU』(小学館)などがある。

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