2024.4.27.Sat
今日のおじさん語録
「高いところへは、他人によって運ばれてはならない。/ニーチェ」
写真提供/染吾郎
20th Century Girl
連載/20th Century Girl

ヤッコさんと小夜子さん

文/中村のん

スタイリストの中村のんさんによる、エキサイティングで自由の息吹に満ちた〝70's原宿〟と、恩師である高橋靖子さんの物語。今回は世界的なファッションモデルであり、パフォーマーや女優としても活躍した、山口小夜子さんとの思い出を綴ってもらった。時代を象徴すると同時に時代を超越し、今もなお多くの才能にインスパイアを与え続ける、世にも稀なる表現者。その美しさをあなたは知っていますか?

 高校卒業間近のある日、資生堂の美容部員さんたちが学校にやってきて、女子だけが集められた教室で美容指導が行われた。「あこがれの女性は誰ですか?」という質問に、「山口小夜子さんです!」と、即答した私だった。

 大好きだったファッション雑誌『服装』にも登場していた小夜子さんの古風な日本的容姿は、ハーフのモデルたちが多いグラビアの中で独特の魅力を放っていたが、動く小夜子を初めて見たのは資生堂のCMだった。

 ♪ベネフィーク♪ベネフィーク♪と歌う軽やかな曲に乗って、傘を持ってひらひらと、蝶が舞うようにパリの階段を降りてゆく小夜子さんのファンタジックな存在感は鮮烈だった。

 杉野学園ドレスメーカー女学院を卒業してすぐの1971年にモデルデビューした山口小夜子は1973年に資生堂の専属モデルとなり、山口小夜子の存在がお茶の間にも知られるようになったのは資生堂のCMに出演してからだ。

 ウェーブのある髪、長いまつ毛のパッチリした目のハーフ顔にあこがれていた女の子たちにとって、黒髪のおかっぱの、切れ長の目の山口小夜子が見せてくれる美は、「あなたたちはそのままで美しいのよ」と、教えられたひとつの「気づき」となった。女の子たちの多くが、小夜子を真似ておかっぱにし、長いアイラインを引くようになった。私も長かった髪を切っておかっぱにした一人だった。

 2015年に公開された松本貴子監督によるドキュメンタリー映画『山口小夜子 氷の花火』には、小夜子さんと関わった数々の人が登場して小夜子について語っているが、この映画の冒頭に登場したのはヤッコさんだった。

 2005年に書かれたブログ「高橋靖子の『千駄ヶ谷日記』」によると、ヤッコさんが小夜子さんの姿を初めて目にしたのは、マリー・クワントが初来日したときの歓迎パーティの場だったようだ。

「群れの中に印象的なおかっぱの少女がいた。ふじ色の着物風の打ち合わせのブラウスを着た彼女は、細くて小柄に見えた」

「その後、小夜子さんとはいろんなところで会った。小さなフロアショーの楽屋で。デザイナーのアトリエで」

 そしてヤッコさんはこのように書いている。

ある時、ロンドンからデザイナーのザンドラ・ローズが突然やってきて、急きょ、西武デパートでショーをすることになった。ロンドンで知り合ったザンドラ・ローズがショーをしたいと言い出し、私は西武デパートに橋渡しをするというスリリングな役目を引き受けてしまったのだ。オーディションで小夜子さんをひと目見たザンドラは、ただちに彼女を決定した。小さな展示会やショーや、デザイナーの仮縫いモデルとして、静かに出番を待っていた彼女は、はじめての大きなステージで、堂々と大きく映え、美しかった。それから、小夜子さんは急に大きくなった。寛斎さんや一生さん、ケンゾーさんなどが競って起用し、ステージの上で彼女はどんどん大きくなっていった。

 小夜子さんをショーのモデルとして最初に起用したのは山本寛斎さんだが、1971年にロンドンで日本人初として行われた寛斎さんのショーをプロデュースしたのは、当時30歳だったヤッコさんであり、ザンドラ・ローズに小夜子さんを紹介したのもヤッコさんだった。

 資生堂と専属契約を結ぶ前の小夜子さんを直接知る人は、ファッション業界でもごくわずかだが、ヤッコさんは貴重なその一人だ。

 1974年に制作された龍村仁監督による映画『キャロル』にヤッコさんはスタイリストとして参加しているが、小夜子さんが登場するシーンで使われたのは、ヤッコさんが住んでいた原宿の静雲アパートのガランとした部屋だった。

 あるとき、ヤッコさんと書類を整理していたとき、「あ、これ、小夜子さんよ」とモデルクラブのパンフレットを見せられた。保険会社や洗剤メーカーの広告が適役といった感じの平凡な美人のモデルたちと同列の扱いで小夜子さんのモノクロのプロフィール写真が載っていた。「ここから飛び抜けたんだ、小夜子さんは・・・」と思った。

 ある男性から追いかけられていた小夜子さんから頼まれて、ホテルの同じ部屋に泊まった話は『山口小夜子 氷の花火』の中でもヤッコさんは語っているが、このことは、その直後にもヤッコさんから聞いていた。また、「小夜子さんの髪はけっして量が多いほうではなく、あのおかっぱは、朝起きるとすぐにシャンプーして、丹念にブローして作っているのよ」なんて話も聞いた。「朝シャン」なんて言葉も、シャワーヘッド付きの洗面台もまだ登場してなかった頃の話だ。生活感の一切を感じさせない小夜子さんのリアルをのぞき見するような話題にワクワクした。

 桑沢デザイン研究所に通うかたわら、ヤッコさんのアシスタントをしていた私だったが、ファッションショーの仕事に就いたことはなかった。ある日、学校のホールの掲示板に「ファッションショーのフィッター募集」の張り紙があるのを目にした。募集の対象は「ドレス科の学生」で、私は「リビングデザイン科」(グラフィックデザインを専攻していた)だったが、事務に行って希望する旨を伝えたところ、すんなりOKがでた。ファッションショーの裏側を覗けることに心がときめいた。

 1975年6月、渋谷区桜丘の「渋谷エピキュラスホール」で行われたこのショーは、デザイナー・池田貴雄のコレクションだった。元「天井桟敷」の劇団員、そして、パルコ出版から出版されていた人気雑誌『ビックリハウス』の初代編集長の萩原朔美さんが演出を担当されていたことを知ったのは2014年になってからだ。「ファッションショーの演出をしたのはこのときが初めてで最後」と朔美さんから聞いた。

 ショーが行われる数日前、小夜子さんが出演することを知ってヤッコさんに言うと、「あら、だったら小夜子さんから借りている本があるから返しといてくれる?」と、一冊の本を渡された。『ジェニーの肖像』という本だった。

 当日の朝、フィッターたちはモデルたちが入ってくる前に楽屋に集合した。「誰が誰を担当するか」を決めるとき、思い切って、「私を小夜子さんの担当にお願いします」と言ってみた。私は小夜子さんの担当になった。

 リハーサルのためにモデルたちが次々楽屋に入ってきた。みんな眠そうな顔で、頭にスカーフを巻いたり、ゴムでテキトーに束ねている中で、小夜子さんだけはきれいにブローされたおかっぱだったのが印象的だった。70年代に入って、『アンアン』『服装』など、ファッション雑誌の表紙をもっとも多く飾ってきたモデル、秋川リサもいて内心興奮した。丸顔の、ピチピチと健康的でお日様のような存在感の秋川リサと、物静かな楚々とした雰囲気の小夜子さんは対極のタイプだったが、どちらも大好きなモデルだった。秋川リサはおなじみの舌たらずの口調で仲間のモデルたちに明るく挨拶していてイメージ通りだった。小夜子さんの佇まいもイメージ通りだったが、話し方はテキパキしていて、サバサバした人柄を感じた。後日その印象をヤッコさんに話すと、「小夜子さんはハマッコだからね」と言った。♪異人さんに連れられて行っちゃった♪ 『赤い靴』のメロディが思わず浮かんだ。

 衣装に着替えるとき、「これ、持っててくれる?」と、小夜子さんが身に着けていたポシェットを首にかけられた。チャイナ風の刺繍が施されたヴィヴィッドカラーのシルクのポシェットは、私が欲しいケンゾーの物だった。小夜子さんにすごく似合っていた。ポシェットの中には煙草と紫色のBIGのライターが入っていた。小夜子さんが煙草を吸うのは意外だったが、銘柄がパッケージに桜の絵がついた「チェリー」なのは、小夜子さんにとても似合っていると思った。煙草が、おしゃれの小道具のひとつだった時代だ。

 後年、小夜子さんは着替えているところを人に見せないモデルとして知られるようになったが(機織りしているとことを人に見せない「夕鶴」のようだと思った)、このときの小夜子さんはそんな風ではなかった。他のモデル同様に、ちゃんと肌を見せて着替えていた。モデルの体が「肉」を感じさせないスレンダーなものであるのは当然だが、小夜子さんの体は「人の体」というより「陶器のようだ」と思った。顔も日本人形のようなら、体も陶器でできたお人形のようだと。このとき小夜子さん、24歳。

 ヤッコさんから預かった『ジェニーの肖像』を渡すと、「ヤッコさんは元気?よろしくね」と言われ、小夜子さんと共通の知り合い(ヤッコさん)がいることを嬉しく思った。

 私にとって二度目となるファッションショーの舞台裏に入ったのは山本寛斎さんのショーだった。ヤッコさんはこのショーのスタイリストではなかったが、リハーサルの場に陣中見舞いのような感じで行ったのだと思う。そこにも小夜子さんはいた。リハーサル会場に入ってきた幼い寛斎さんのお嬢さんが小夜子さんの姿を見るなり、「小夜子~」と言いながら駆け寄り、小夜子さんは片膝つくポーズをとって満面の笑顔でお嬢さんを抱きとめた。小夜子と子ども、意外な光景だったが、とても美しい瞬間だった。私の傍らでヤッコさんが「小夜子さんは子ども好きだからね」と、微笑ましそうに言った。

 この日のことで忘れられないのは、ヤッコさんが私を寛斎さんに紹介してくれたときのことだ。椅子に座ってショーのディレクションをしていた寛斎さんに私を連れて歩み寄り、「新しくアシスタントになった中村のんちゃんです」と紹介してくれただけでもドギマギしたが、いきなり寛斎さんが椅子から立ち上がって直立の姿勢で手を差し出し、「はじめまして。山本寛斎です」と言ったのには心底驚いた。当時、山本寛斎は、ファッションに興味のない人でもその存在を知っているくらいの有名人であり、光り輝く「時の人」だった。その寛斎さんが、見るからに小娘の私に向かってこんなに紳士な態度を示してくれるなんて! リハーサル会場をでてその感激をヤッコさんに伝えると、「ちゃんとしてる人はね、分け隔てなく誰にでもちゃんとしているものよ」と言った。このとき寛斎さんが見せてくれた態度とヤッコさんの言葉は、その後、何十年経っても私にとって座右の銘のようなものであり続けた。22歳でヤッコさんから独立してフリーになったとき、私が若いというだけで、いかにも見下したような態度をとる人や、偉そうに振る舞う人に何人も出会った。そのたびに、寛斎さんの態度とヤッコさんの言葉を思い出し、「この人は、人としてちゃんとしてない人なんだな」と思うのだった。そして、多くの人から一目置かれている人に限って、誰にでも礼儀正しく、分け隔てのない態度をとることは事実だと実感した。

 その後、1981年にパルコ西武劇場(現・パルコ劇場)で上演された『山口小夜子の世界「小夜子」』では、このお芝居のスタイリストを担当したヤッコさんのお手伝いをさせていただいた。資生堂のコマーシャルでも一度だけ小夜子さんとお仕事をする機会に恵まれたが、ヤッコさんが「どんどん大きくなっていった」と書いているように、世界的な存在となった小夜子さんは、近くにいても「手の届かない遠い世界に住む人」のように感じられ、「私のアイドル」と呼べるような存在ではなくなっていた。

 だが、2015年に私が作って出版した写真集『70‘HARAJUKU』の表紙には、原宿レオンでヤッコさんと並んだ染吾郎さん撮影の小夜子さんの写真を使わせてもらった。70年代の私にとって、もっとも影響をうけたあこがれの女性はヤッコさんと小夜子さんだったから。

 メディアにおいては能面のような表情を維持し、めったに笑顔を見せなかった小夜子さんだったが、この写真の小夜子さんは珍しく笑顔を見せている。そしてこの笑顔は、撮影のための笑顔ではなく、ヤッコさんといるときのリラックスした自然の笑顔だ。

 小夜子の顔の魅力は「切れ長の目」として語られることが多いが、私は個人的に「笑わなくても口角が上がった口元」の魅力も大きいと思っている。微笑んだような口元があるから、どんなに目を吊り上げても、小夜子の顔は優しい表情になるのだと。そんな小夜子さんは、この写真では、さらに口角の上がった楽しい表情になっている。

 2007年8月、小夜子さんは57歳で突然この世を去った。翌月の9月19日、小夜子さんのお誕生日に築地本願寺で「お別れの会」が執り行われた。『G線上のアリア』が物悲しく流れる中、大きなスクリーンに白い羽衣のような布をまとった小夜子さんが、ゆらゆらと舞う姿が延々映し出されていた。参列していた誰もが「小夜子は月に帰っていった・・・」と思った。

 小夜子さんがいなくなってから、ロバート・ネイザンの『ジェニーの肖像』を再読してみた。

 絶望のどん底にあった売れない画家のもとに突然、謎の少女が現れる。

「どこから来たのか だれも知らない どこに行くのか みな行くところ 風は吹きふさび 海はめぐる けれどだれも知らない」

 と、不思議な歌を歌う少女。

 次に会ったとき、少女は成長していた。

 「わたしを描いたら?」と言う少女。そして少女はいなくなったが、突然また現れる。

 画家は少女の肖像画を描き始める。だがまた少女は姿を消す。そしてまた現れる。その度に前より美しい成長した姿となって「きみはいったいだれなの?そして、誰がきみをここによこしたの?」

「わたしが住んでるところなんか、聞いてもしょうがないわ。どうせ来れやしないんだから。ただ、わたしのほうから来れるだけなのよ」

 出来上がった絵は、高額な値段で売れる。 

 そしてジェニーという名のこの少女はいなくなり、二度と帰ってこない。だが、画家の記憶の中で少女は生き続ける。

 この世にいるときには多くのクリエーターにインスピレーションを与え続け、デビューから最期まで日本人形のようなおかっぱでい続け、「老いた姿」を誰にも見せることなく、ひとり静かに、自分の部屋から消えていった小夜子さん。

 小夜子さんが二十代のときにヤッコさんに貸して私が返したファンタジー小説『ジェニーの肖像』と、小夜子さんの存在は、小夜子さんがこの世から去ってからずっと、私の中で重なり続けている。

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