2024.12.4.Wed
今日のおじさん語録
「人間は一人では生きることも死ぬこともできない哀れな動物、と私は思う。/高峰秀子」
1970年代の原宿を共に駆け抜けた戦友、高橋靖子さんと松山猛さん。撮影したのは写真家の染吾郎さんだ。(写真提供/高橋靖子)
20th Century Girl
2
連載/20th Century Girl

1973年に送った2通の手紙

文/中村のん

1970年代の原宿は、こんなにもエキサイティングでロマンティックで、自由の息吹に満ちた街だった!  スタイリストの中村のんさんが綴る〝70’s原宿〟と、恩師である高橋靖子さんの物語。第2回目は、今はなきファッション雑誌『服装』との出会い。2通の手紙が、夢見る少女を新しい世界へと導く。

 高橋靖子さんことヤッコさんの存在を知ったのが雑誌『服装』だったことを前回書いたが、ヤッコさんの連載がスタートしたのは、1973年の10月号からだった。実はその数か月前に、私は編集部の人と知り合いになっていた。きっかけは1通の手紙だった。

 高校3年にあがった春、昼休みに買ってきたその日発売の『服装』を眺めているうちにワクワクする気持ちが抑えられなくなって、読者のおたよりコーナー「ハロー・フクソー」に宛てて手紙を書いた。5時間目の授業中、教師の目を盗んでレポート用紙にしたためたものだった。

 ここでちょっと、当時のファッション雑誌について触れておきたい。

 私が十代の頃、女の子が読むファッション雑誌は、『アンアン』(平凡出版、現・マガジンハウス)、『ノンノ』(集英社)、『MCシスター』(婦人画報社、現・ハースト婦人画報社)、『装苑』(文化出版)、『ドレスメーキング』(鎌倉書房)、『服装』(婦人生活社)くらいしかなかった。他にもあったのかもしれないけれど、私が読んでいたのはこのくらいだった。

 ロンドンやパリの先端も扱う『アンアン』が1970年に創刊されたことは、日本のファッション雑誌史上において、黒船到来といえるほどの出来事だった。翌年出版された『ノンノ』と『メンズ・クラブ』の妹版『MCシスター』は、アンアンよりもっと、日本の女の子にとって身近なファッションを扱っていた。『装苑』『ドレスメーキング』『服装』、この3冊は、元々が洋裁雑誌としてスタートした本で、モデルが着用した服のほとんどの型紙が巻末ページに掲載されていた。

 なかでも『服装』は、当時まだ駆け出しのデザイナーだった川久保玲さんや、女の子に大人気のミルクに「服装のグラビアを飾るためだけ」の服を作らせたりしていて(作り方ももちろん紹介されていた)、お金をかけた誌面作りの贅沢さは、十代の読者にもじゅうぶん伝わってきた。文学少女のはしくれで、イラストレーターになることを夢見ていた私にとって、キラ星のようなエッセイストやイラストレーターの顔ぶれも魅力的な雑誌だった。

 放課後に書いた手紙は、「毎月楽しみに読んでいます。今回は〇〇のページがとくに好きでした」といった平凡な文章に加えて、自分が好きなものや、興味をもっていることを書き連ね、いたずら書きのようなイラストを添えたものだった。

 次の号の「ハロー・フクソー」に私の名前はなかった。でも、それで当たり前と思ったし、がっかりすることもなく手紙のことはすぐに忘れた。

 だがある日、自室にいると、「服装編集部ってところから電話よ」と母が呼びに来た。「?」と思いながら出ると、「いつもご愛読いただきありがとうございます。服装編集部の〇〇と申します」に続いて「お手紙を拝見して、ぜひ中村さんにお会いしたいと考えていますが、よろしければ編集部にお越しいただけませんか」と、それは、生まれて初めて受けた仕事モードの電話だった。そのときの私の反応は、今風に言うなら「マジかよ!」だった。心の中で小躍りした。大好きな『服装』の人が私に会いたがってる?!  まさに晴天の霹靂だった。

 約束の日、校門を出るとその足でお茶の水の出版社に向かった。学校は私服だったのでこんな服装だった。

 ビニール製のミッキーマウスのアップリケが前面に付いた、水色のピタピタのTシャツ(原宿のセントラルアパートの地下の「原宿プラザ」の中にあったロンドンの服を輸入しているショップで買った物だった)、原宿の「ミルク」の服を真似して自分で作った赤と白のギンガムチェックのサスペンダー付きのサーキュラースカート、ラバーの厚底のピンクと白のコンビのスニーカーと、学生カバンとしていつも持っていたピンクのバスケットは、新宿の鈴屋で買った物だった。このスタイルは『服装』のファッションページを参考にしたもので、この頃一番のお気に入りだった。

 インターネットやスマホどころか、ファックスさえもなかった時代、お茶の水駅を降りると、口頭で教えられた道順のメモを頼りに迷いながらたどり着いたのは小さなビルだった。受付で名前を告げてしばらくすると「お電話をさせていただいた〇〇です」と女性が現れた。案内された会議室に入ると、おじさんとおばさんが座っていた。なんだかドラマみたい、と思った。おばさんは、その後、アート色の強いファッション誌として一世を風靡する『流行通信』の編集長となる二川昭子さんだった。そして、最初に私の手紙に目をとめてくださったのが二川さんだったということを知ったのは、ずいぶんあとになってからのことだった。

 おじさんとおばさん、そして若めの編集者さんにじっと見つめられて、私はひどく緊張していた。学校の帰りそのまま来たと言うと、「その服で学校に行ってるの?」と聞かれた。通学服として派手めではあるものの、相手のちょっと驚いたような表情に、ファッション雑誌を作っている人が驚くような服かな、それとも、プロの目から見たらどこか変なのかな、と思ったりもした。

 このとき印象的だったのは、「あなたの手紙に、四畳半的ではないものを感じた」と言われたことだった。(そんな表現の仕方があるのか、とも思った)当時は、かぐや姫の「神田川」を代表とする「四畳半ソング」と呼ばれるフォークソングが若者の間で人気だった。自分に向けられた「四畳半的ではない」という言葉の意味を私なりに解釈してうれしい気持ちになった。なぜなら、いわゆる「四畳半ソング」のジャンルに入る曲の貧乏くさい湿った雰囲気が私は苦手だったから。私の好みは、夢のあるポップなセンスだった。

 いくつかの質問をされ、いくつかのアドバイスをされ、「あなたに見開きページをあげるから、自由にイラストと文章を書いて下さい」と言われた。大橋歩、湯村輝彦、原田治、佐藤憲吉(後のペーター佐藤)といった錚々たる売れっ子イラストレーターたちと並んで私が書くものが掲載される?!天にも昇る気持ちになった。白羽の矢を立てられた理由が、才能を認められたというより、「読者と同世代の感覚に期待して」であることを冷静に受け止めながらも。

 私が描いた絵と文章は6月号に掲載された。編集の人に言われた通り、緊張しないで楽しみながら描いた。そんなわけで、送った手紙は「読者のコーナー」には採用されなかったが、「NONのえにっき」という私の名前をタイトルとするページを持たせてもらえるという快挙を果たしたのだった。「気が向いたら、いつでも編集部に遊びにいらっしゃい」「文章でも絵でも、いたずら書きでも、書けたら何でも見せてちょうだいね」と、編集部の人たちから好意的に扱われたこともうれしかった。

 そのうち、「明日、原宿に取材に行くけど、興味があったら一緒に来ない?」と、声をかけていただくようになり、何度か取材などにも同行させてもらった。

 原宿の新しいショップに入ったとたん、また、服や小物を見るたびに、「わー、可愛い!」「わー、素敵!」といちいち声を上げる私の様子に、「あなたといると初心に戻される気持ちになるわ。私も昔はそうだったけど、いつのまにか慣れて当たり前と思うようになってる自分に気づかされる。今のその気持ち、ずっと忘れないでね」と、編集者さんから言われた一言は、その後もずっと心に刻まれている。座右の銘のように。

 この年の秋、あるいは冬だったか、私は自分の運命を変える手紙をもう1通書いて送った。宛先は「〒150 東京都渋谷区神宮前3ー19ー7静雲アパート2Fー1」。

 今ではありえないことだが、『服装』に連載されていた「わたしはいま」にはヤッコさんの住所が載っていた。「405 0493」という自宅の電話番号まで。

 相手は海外にもしょっちゅう行っている超多忙な人、返事は期待していなかった。あなたのことを大好きな、こんな女の子がいることを知ってほしい。ただそれだけの単純な思いだった。だが、思いがけずすぐに返事がきた。コクヨの原稿用紙にブルーのインクの万年筆で書かれた手紙だった。

 「あなたからの手紙を親友に見せたところ、『ヤッコにそっくりね』と言われました」というはじまりに興奮した。すぐに返事を書いた。そうしたらまたすぐに返事がきた。そんな感じで、32歳の日本のスタイリスト第一号と、17歳の平凡な高校生の文通が始まった。

 私が住んでいた静雲アパートから100メートルと離れていない遊歩道に、若者たちが暮らすコミューンめいた建物があった。(略)そこには、カメラマン、コピーライター、デザイナーの卵など、フリーランスの若者がいっしょに暮していて、松山猛さんもそのひとりだった。猛くん(と、当時と同じに呼ばせていただく)は、フォーク・クルセイダースの「帰ってきたヨッパライ」や「イムジン河」の作詞をしていた。(略)

 その頃、「装苑」とならんで秋川リサがよく表紙に登場した「服装」というファッション誌があった。その編集長さんが二川昭子さんだったとき、彼女が「何か書いてみない?」といってくれた。すでにいろいろ書いていた猛くんと「レオン」のちょっと離れた席で、締め切りの原稿を書きあったりした。

 「僕、もう出来たよ」「うわっ、はやーい!」などと言って、まるで学校の宿題をやるみたいだった。この「服装」という雑誌はまもなく廃刊になったが、二川昭子さんはその後「流行通信」の編集長をして、「流通」を活気づけたが、現在はサンフランシスコで自然食のレストランをしていると聞いている。


 ヤッコさんの2005年のブログ「高橋靖子の千駄ヶ谷スタイリスト日記」を読むと、年齢も社会的立場も全然違ったのに、『服装』とのかかわりが似たようなものだったことがうかがわれる。

 17歳の高校生だった私は二川昭子さんに見いだされ、同時期、物書きとしては処女だった32歳のヤッコさんもまた、二川さんにその天分を見いだされていたのだった。

 「この人を載せると売れるから」「有名だから」「今、人気だから」といった理由ではなく、一編集者が個人の感性、あるいは直観で、「この人に〇〇をやらせてみると面白いのでは」と、そんな風に誌面作りをしていた時代だったのだ。

 私がヤッコさんに宛てて書いた最初の手紙は、2022年現在、私の手元にある。

 2014年に私が写真展イベント『70’s 原風景 原宿』を主催したとき、その最終日の会場にヤッコさんが大きな封筒を持って現れた。封筒の中には、十代の私がヤッコさんに宛てた手紙がぎっしり詰まっていた。引越しや断捨離を行う中でも捨てることなく、「のんちゃんからの手紙だけはちゃんとまとめてずっと取っておいたのよ」と言ってくれた。約40年の歳月を経て私の元に戻ってきた手紙の束は、驚きであり、気恥ずかしくもあったが、タイムマシーンで運ばれてきたプレゼントのように思え、感謝があふれた。

 お互いの近況や思いをしたためた手紙を送り合う一方、ヤッコさんから電話もかかってくるようになった。いつどこにいるとも知れないヤッコさんに私からかけることはなかった。電話がかかってくるのは、いつも夜遅くだった。私はほとんど聞き役だったが、会話が2時間以上に及ぶこともしょっちゅうで、受話器を手渡すとき、母は必ず「また長電話するんじゃないわよ。明日も学校があるんだからね」と、念押しするようにささやくのだった。

 ヤッコさんからでる話題のほとんどは、恋愛まっ最中の恋人とのことだった。ときにはセックスの話題が含まれることもあったが、ドギマギするというよりも、恋愛小説を朗読されているような気持ちで聞いていた。コードレス電話もなかった時代、わが家の電話はダイニングキッチンの隅に置かれていた。夜遅く、母が夕飯の片づけや、翌日のお弁当の準備をしているのを横目で見ながら、年上の女性からセックスの話をされている高校生。母を意識して声をひそめながらする秘密の会話は楽しかった。

 ヤッコさんの声は、小鳥のさえずりのように可愛いらしくて、そんなヤッコさんの声で語られると、どんな話も少女小説のように聞こえてきた。まだ一度も会ったことのないヤッコさんを、「少女のように可愛くて、恥ずかしがりやで、さみしがりや」と感じていた。

 だが、その印象は、「日本で初めてのスタイリストとして名乗りを上げた女性」、「山本寛斎が日本人初としてロンドンで行ったファッションショーを仕掛けた」、「T・レックスの写真展をコーディネート」、「デヴィッド・ボウイのスタイリスト」、「映画『キャロル』のスタイリスト」とクレジットされるパワフルな印象とはあまりにもギャップがあった。

 「会いましょう」と言ってくれたなら、すぐにでも飛んでいける都内に住んでいた私だったが、ヤッコさんはいつも「会いたくない」と言っていた。もっと言えば「会うのが怖い」と。その理由は、「実物の私に会ったら、あなたはがっかりするのではないかと思う」ということだった。「会うのが怖い」ということをヤッコさんは、電話でも手紙でもたびたび言葉にしていた。

 知り合いもいないロンドンに単身乗り込んで、山本寛斎のショーの会場を交渉した、突然、T・レックスのマネージャーを訪ねて行った、デヴィッド・ボウイと山本寛斎を繋げた、そんな行動をした女性が、平凡な高校生の女の子と会って実像を知られることを怖がっているなんて、ヤッコさんは不思議な人だった。けれど、そのギャップと不思議さがまた魅力となって、ますます私はヤッコさんに心酔した。

 1973年に書いた2通の手紙は、私を思わぬ世界に運んでくれた。

 「好き」を見つけたら、そこに向かって素直に「好き」を伝えることが大事、ということを、身をもって学んだ年でもあった。

  • SHARE
テキストのコピーはできません。