渋谷のテーラーと
レコード屋が語り合う!
ぼくたちが知っている
1980〜1990年代
渋谷カルチャー物語
撮影・文/山下英介
リアルタイムを知っている世代にとっても、知らない世代にとっても、最近なぜだか気になって仕方ない〝あの頃〟の街の記憶。でも実際に記憶を辿ってみると、写真が全く残っていなかったり、毎日のように通っていたお店の名前すら思い出せなかったりして、愕然としてしまうんだ。今回は、そんな状況に危機感を覚えた〝渋谷のおじさん〟が登場。テーラーと中古レコード屋という異なる立場からストリートカルチャーを担ってきたふたりが、1980〜90年代の渋谷を語り尽くす。
渋谷には「大人クラブ」の
チケットが売っていた
今日は「ぼくのおじさん」ではおなじみの「テーラーケイド」山本祐平さんと、渋谷のレコードショップ「フェイスレコード」創業者の武井進一さんにお越しいただきました! 今回はふたりで〝渋谷〟をテーマに語り合っていただきたいと思いまして。

山本 ぼくと武井さんはほぼ同世代なんですが、〝あの頃〟・・・つまり1980年代〜90年代の渋谷で遊んでいたことが共通点なんですよ。ぼくの場合小学校が世田谷だったから、自転車で国道246号線を走って、渋谷までモデルガンを買いに行っていた頃から、この街を見続けている。こんなこと書かなくていいけど(笑)、中学3年になったら年齢をサバよんで、放課後は悪い友達といっしょに東邦生命ビル(※)の「珈琲館」でアルバイトするようになりました。そうしてこづかいを稼いでは公園通りにあった「スーパーシティ」というカフェバーで女の子をナンパしたり、そういう寛容な青春時代。渋谷が渋谷らしい時代だったというか・・・。1970年代を引きずっていた東京が、80年代に入ったころから急に変わっていく時代の空気感を、ギリギリ覚えている最後の世代でもありますよね。
※現在は「渋谷クロスタワー」。「珈琲館」はいまだに営業中!

武井 ぼくは栃木出身なんですが、高校を中退して、1990年にDJをやるためだけに上京してきたんです。最初に住んだのは世田谷だったかな。ただそこで致命的だったのが、お酒が飲めないということ(笑)。当時のDJ業界って酒飲んでナンボみたいな世界だったので、これはちょっとまずいなと。そんなときに「スカフレイムス」(※)というスカバンドと出会ったんですが、彼らは大人でサラリーマンをやりながらバンド活動をしていました。これだ!と思い、ぼくも彼らを手伝いながらレコード屋で働くようになったんです。それから紆余曲折あって、自分のお店を始めたのが1994年です。最初は横浜でしたが、1996年には渋谷でお店を出せました。
※1985年に結成した日本初の本格的スカバンド。現在も活動中。
まさに〝渋谷系〟の最盛期ですね!
武井 ぼくは小沢健二やコーネリアスに代表されるキラキラした人たちを〝表渋谷系〟と呼んでいるんですが、それに対してうちはジャズやファンク、ヒップホップを掘っているような〝裏渋谷系〟の集まる店になっちゃいました。もともと黒人音楽が好きで、あんまりロックも置いていませんでしたし。
山本 アンダーグラウンドの〝裏渋谷系〟的流れは、ぼくの記憶では1980年代後半から始まっていますよね。ぼくもちょうどその頃バンドをやっていたので、「ネクタリンコンボ」や「ジャックナイフ」(※)あたりのメンバーと、よくつるんで遊んでいました。そんな土壌から「スチャダラパー」や小沢健二みたいな才能が生まれて、よりポップなカルチャーに進化していくんですよね。ノーザンソウルのアレンジやジャズのリフをちょっとパクったりして、小股の切れ上がった粋でマニアックなセンスが、どんどんメジャーになっていきました。
※どちらも渋谷のジャズ喫茶「SWING」オーナーの鈴木興さんが在籍した伝説のバンド
今や山本さんがバンド活動をされていたことを知らない若者のほうが多いかもしれませんね。
山本 1980年代の渋谷にはまだ〝ジャズ喫茶〟みたいな大人のカルチャーの残党がいっぱい残っていて、ぼくは若いうちからそこに出入りして、ジャズのヒップとクールネスを、音楽とファッションを通じてたっぷり学ばせてもらいました。財布の中身はいつも空だったけど、レコード屋のブルーペーパーを毎月チェックして、給料が入ったらレコード買って、スーツ着て、クラブに踊りにいくような若者は本当に多かったと思いますよ。ぼくが最初に勤めたお店は渋谷の「ボストンテーラー」(※)だったのですが、当時のモッズやロカビリー、テッズみたいなカルチャーの若者もよく来てくれました。
※1952年に横田基地で創業したテーラー。70年代に渋谷へと移転し、現在も営業中!

武井 ぼくが初めて山本さんと会ったのも「ボストンテーラー」です。先輩の結婚式に出るためのスーツをつくりに行ったんですが、山本さんがモデルガンを磨いている姿を見て、なんだこの店は、と(笑)。それが1990年代初頭でしたね。
「ボストンテーラー」は梅ヶ丘にあった「洋服の並木」(※)と並んで、当時の若手ミュージシャンが足繁く通ったお店でしたよね。
※日本の若手ミュージシャンや芸人たちに愛される町のテーラー。1990年代後半まではモッズミュージシャン御用達店として知られていた。
山本 「並木」は財布に優しいお店だったけど、その倍くらい払えば「ボストン」でフルオーダースーツがつくれたからね。常に生活の中に音楽とファッションがある人たちのためのテーラーでした。
武井 ぼくはDJの先輩から教えてもらいましたが、音楽好きのテーラーって「ボストン」しかなかったんですよね。
山本 今や大御所イラストレーターになったソリマチアキラさんや早乙女道春さんもまだ駆け出しの頃で、ヒップなスーツを着て一緒に飲みに行ったりバンドを組んだりしていました。当時の渋谷って、音楽とファッションの偏差値が高くないと話にならなかった。いくらお金を持っていても、ダンスがうまくてセンスがないとリスペクトされないし、女の子にもモテない。そんな時代だったと思いますよ。
当時の若者の写真って、今見ても大人っぽくて格好いいですよね。
山本 みんな「大人クラブ」に早く行きたいと思ってたから。ぼくはそれこそ10代からどこへ行くのにもスーツを着ていました。リーバイス501にライダース合わせてエンジニアブーツ履いてるチーマーの連中だって、みんなガキっぽくなかったですよ。「大人クラブ」のチケットを買って、一生懸命背伸びをしていたんです。今みたいにアンチエイジングの時代じゃなかったから。
武井 ジャズで踊るというカルチャーも、あの頃に生まれたものですが、「UFO」(※)が格好よかったのは、やっぱりスーツを着てDJしてたからですよね。
※「ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション」。1990年に結成された、アシッドジャズのパイオニア的グループ。
山本 みんなスーツを着て踊ってましたね。菊池武夫さんあたりも、バップスタイル(※)のスーツを着たモデルがモダンジャズをかけながらランウェイを歩く、みたいなショーを提案していて、それがすごくクールだったね。
※バップ= ビ・バップ(Be bop)が語源。1930〜40年代に流行ったジャズのスタイル。
武井 90年代までは、歩いている人の洋服を見ると、どんな音楽を聴いているのか一瞬でわかる時代でした。
山本 当時の若者たちのカルチャー偏差値が高かった理由のひとつとしては、〝食通〟みたいな概念がなかったことも大きいですよね。ぼくらの時代は「食べログ」もSNSもないし、食よりサブカルチャーにエネルギーを費やせたから。
武井 スマホ以前の食指南って、池波正太郎の本や『美味しんぼ』くらいしかなかったですもんね。
基本は行き当たりばったりの時代ですもんね。
武井 定食屋の「八竹亭」や「サブロー」、美味しかったなあ。あと「109」の地下2階にあった、おばあちゃんがやってる定食屋。
山本 あとは洋食の「おおき」、中華の『龍の髭』『新楽飯店』あたりですね。どこも閉まっちゃいましたけど。「ゴールドラッシュ」(※)はデートのディナーにおけるマストで、それぞれよく行きました。でも、あくまで腹が減ってるから食べるというだけで、わざわざ並ぼうなんて思わなかったし、今みたいにB級グルメを語ったからってヒップに見えるなんてことは全くなかった(笑)。
※1980年創業のハンバーグ店。現在も営業中!
Instagram以降、食もファッションのひとつになりましたよね。
渋谷カルチャーを応援した
伝説の不動産屋

山本 でも今にして思うのは、どうして渋谷ってあんなにレコード市場が発展したんでしょうね?
武井 ぼくが調べた限りでは、1960年くらいの『スイングジャーナル』には〝渋谷はレコード屋のない街〟と書かれているんです。その状況が変わる契機になったのが、東京オリンピックです。在日米軍施設だった「ワシントンハイツ」(※)が返還されて、オリンピックを放送するための施設としてNHKがこのあたりにできると、当然音楽の需要が高まる。それによってクリエイターやレコード屋がこの街に集まってきたと思うんですよね。オリンピック前の渋谷って、商業施設といえば「東急百貨店東横店」くらいしかなかったから、山手的なカルチャーが主流だったようなのですが、オリンピック後に「東急百貨店本店」(1967年)や「西武渋谷店」(1969年)が開店します。そして西武百貨店が若者向けの施策を次々と打ち出して、渋谷が若者の街になっていくという。
※第二次世界大戦後の1946年につくられた米軍将校とその家族向けの住宅地。1964年の東京オリンピックでは選手村として使われ、その後は返還されて代々木公園になった。


山本 「渋谷パルコ」の影響も大きかったですよね。あれによって公園通りに活気が生まれてきたというか。
武井 「渋谷パルコ」は1973年に開店しているんですが、〝パルコ〟って〝公園〟という意味だから、そもそも公園通りの〝公園〟ってパルコのことみたいですね。
山本 全盛期の公園通りのバイブレーションはすごいものがありましたよ。あそこは緩やかな坂道なんだけど、渋谷の文化は坂道に集中して生まれているところが興味深いですよね。今「テーラーケイド」がある〝奥渋〟と呼ばれているエリアなんて、80年代はなんなら野犬が歩いてたくらい(笑)、薄暗くて何もない場所でした。
武井 松濤はお茶畑だったらしいですからね(笑)。渋谷はもともとは品のいい山手エリアだったけど、道玄坂を登るとラブホテル街があったり、坂道がポイントなんですよね。でも、実は戦後の東京でラブホテルというか連れ込み宿が一番多かったエリアって千駄ヶ谷なんですよ。住民運動によって1957年に文京地区指定され、姿を消しましたが。
山本 そうなんですか! そういえば昔から原宿は夜が早いエリアですもんね。
武井 昔から原宿ってホテルもディスコもライブハウスもないし、お酒を飲める場所すら少ないじゃないですか。それって文京地区だから守られていたんですよね。
原宿の場合はクリエイターの街というイメージもありますが。
武井 それは1958年にできた「セントラルアパート」(※)の影響が大きいかもしれませんね。もともとあそこは米軍関係者を対象にした共同住宅だったのですが、ワンルームが中心で、個人事務所に適した間取りだった。それでクリエイターが集まるようになったと聞きました。
※表参道と明治通りの交差点にあったマンション兼商業施設。糸井重里さん、浅井慎平さん、タモリさんといった有名人が事務所を構えていたことで知られている。1990年代に解体され、現在は「東急プラザ表参道原宿」に。
山本 ぼくは渋谷で育った人間だけど、渋谷と原宿では棲み分けがあるというか、遊んでいる人たちも毛色が違うんですよね。渋谷ならではのバイブスって絶対あると思うんだけど。それにはやっぱり西武というかセゾングループが果たした役割が大きかったんですかね? 西武百貨店しかり、パルコしかり、レコード店の「WAVE」や「シスコ」しかり。
武井 そうですね。そもそも関東大震災(1924年)の前まで、渋谷は郊外の田舎町でした。そこに西武グループの創業者だった堤康次郎が「百軒店(ひゃっけんだな)」という商店街をつくり、被災した名店を誘致したことに、街づくりのルーツがあるんです。

山本 道玄坂の2丁目あたり、「名曲喫茶ライオン」やラーメンの「喜楽」、ロック喫茶の「BYG」なんかがあるエリアだよね。あとはもう閉まったけど、焼きそばと餃子とビールしか出さない「大芽園」。あそこの焼きそば、もう一度食べたいなあ(笑)。
武井 『孤独のグルメ』に出てましたよね(笑)。もともと戦前にあった「百軒店」は下町の名店が軒を連ねる商店街でしたが、意外にも復興が早く進んですぐに出ていってしまった。でも、逆にそれによってジャズ喫茶やカフェといった、当時の若者文化を象徴するようなお店が続々と集まる繁華街へと成長していったんです。
渋谷のちょっと猥雑な文化のルーツはそこにあるんですね。
山本 ぼくが少年の頃はまだストリップ小屋もいくつかあって、戦後の闇市を思わせるムードがありました。非現実的というか、タイムスリップ感覚というか。
武井 実際に渋谷は戦後闇市だったわけですが、そのときの名残で台湾の人が多いんですよ。道玄坂小路の「麗郷」をはじめ、「大芽園」や「喜楽」の創業者も台湾出身でしたし。
昭和30年に創業した「麗郷」とその一角は象徴的ですね。あそこだけ昔の渋谷と変わらない。
武井 あとは米軍の影響ですよね。今マークシティがあるあたりは租界でしたし、道玄坂下には「メリケン横丁」という、「ワシントンハイツ」や「グランドハイツ」から出た中古品を販売するアメ横みたいなエリアがありましたから。そして、「メリケン横丁」の有力店が昭和23年(1948年)にオープンした「さかえや」(※)であり、1975年にはその付近に「シップス」の前身である「ミウラ&サンズ」がショップを構えるんです。
※宮治千蔵氏が創業した古着とアメリカ輸入品のショップ。若かりし高倉健がアルバイトをしていたことで知られる。1980年代まで営業していた。

山本 まさに渋カジのルーツだね。
武井 そうです。「ワシントンハイツ」がなかったら、このあたりは全く違うエリアになっていたかもしれません。あそこに住んでいた米軍関係者は3年おきに異動があるので、そのときに私物をほとんど処分してから出ていくんですよね。そこで市場に流通した古着やレコードが相当あったそうです。
「ワシントンハイツ」がなかったら、渋谷のレコードやアメカジ文化もなかったかもしれない、と! でも、渋谷みたいに家賃の高い街で、若い人たちがインディペンデントなお店を次々と出せたことが不思議なんですよね。
武井 その背景には「アベさん」という伝説の不動産屋さんがいて、彼が若いレコード屋に物件を貸しまくっていたんです。「若い人が店をつくんないと街が死んじゃうから」って。残念ながら亡くなってしまいましたが、たまに会うと両脇に女性を抱えてて、どこか寅さんみたいな人だったなあ・・・。
山本 渋谷にお店を出したのには、なにか理由があるんですか?
武井 それは宇田川町エリアに「マンハッタンレコード」がお店を出したことが大きかったです。でも物件を借りられたのは本当にアベさんのおかげで、みんなが競っていた物件を、「武井さんだったらなんとかやりそうだから」と大家さんに交渉してくれました。そのおかげでぼくはこのエリアでお店を出せたんです。渋谷の路面店で、確か当時の家賃が約30万円。高いけれど、手の出ない金額ではありませんでしたから。たぶんぼくの同世代で宇田川町でお店を始めた人のなかで、アベさんに世話にならなかった人っていないんじゃないかなあ。
伝説の不動産屋・アベさん! 掘りたくなるキャラクターですね。
80年代カルチャーも
今や忘却の彼方だ

山本 渋谷系のうるさいお客さんに対して、武井さんはどういう買い付けをしていたんですか?
武井 当時は基本的にアメリカなりヨーロッパなりに行って、現地の友人や口コミを頼りに勉強しながら、買い付けたレコードだけを売っていました。初めて行ったのはロンドンでしたが、ロンドンっ子たちのフィルターを通したジャズやソウルといったアメリカの音楽が新鮮で、日本で売れるようになりましたね。
山本 レア・グルーヴ(※)もそういう流れで流行ったよね。昔のレコード屋さんとその街に集うお客さんのコミュニケーションって、本当に濃密でしたから。そこではきっと、ロマンチックな物語がたくさん生まれていたんじゃないかなあ。
※1980年代にイギリスで生まれた概念で、リリース時に正当な評価を受けなかったものの、のちに再評価された過去の楽曲のこと。主にソウルミュージックなどの黒人音楽をさす。
武井 そうなんですよね。ぼくが最近この時代の渋谷のことを調べているのも、まさにそうした理由で、50年代や60年代のことを語れる人はもはやほとんどいないし、70年代のことも埋もれつつありますから。
山本 80年代、90年代だってよくわからなくなってきていますよ。
武井 ぼくは中古レコード業界がどこから始まったのか調べているんですが、かなり年配の方でも「渋谷最古のレコード屋は『ハンター』(※)だ」っていうんですよ。あそこが渋谷にお店を出したのは80年代なんですけど(笑)。つまり中古品の商売って、当時の日本ではそれほどまでに文化的な価値を認められていなかったんです。しかも洋服屋さんもそうですが、写真が残っていないから、どんな格好いいお店として記憶に刻まれていても、記録がない。お店の名前すら思い出せない。本当に儚いですよね。それこそぼくもオープン時の写真、1枚も持ってないですから。
※銀座を拠点に一時期都内に複数の店舗を構えていた中古レコード店。2001年に廃業。
山本 あの時代、あれだけ街を沸かせたお店やデザイナーブランドのお店の写真がほとんど出てこない。本当に忘却の彼方ですよね。
郷愁と、キラキラ。
1980年代の渋谷は
東京のパリだった!?


やっぱり渋谷における最大のキーパーソンって、セゾングループの堤清二さん(※)ということになるんですかね?
※西武の創業者・堤康二郎の息子。1980年代に西武百貨店をはじめとする「セゾングループ」を率いた経営者であると同時に、作家・辻井喬としての顔をもっていた。80年代カルチャーの立役者だ。
武井 そうですね。ある時期までは、若者をフックアップしてカルチャーをつくっていこう、という気概はありましたよね。あとは私みたいなものがこんなんことを言うのは畏れ多いのですが、「東急ハンズ」や「Qフロント」などをプロデュースしてきた浜野安宏さん(※)の存在も大きいと思います。
山本 通称アンコウさん。赤坂に「MUGEN」というディスコをつくった伝説のプロデューサーですよね。
※その活動は書ききれないので割愛するが、1941年生まれのライフスタイルプロデューサー。
商業施設でいうと、学生でもローンでモノが買える仕組みをつくった「マルイ」の影響も欠かせないと思いますが。
山本 昔ぼくも利用したけど、初期は引き落としじゃなくて、最上階までお金を払いに行かないといけなかったんですよね。今はそんなことないけど、当時はちょっと怖かった(笑)。でも、ぼくなりの解釈では、渋谷のカルチャーって誰かひとりの立役者の功績というよりも、この街に惹かれて集まってきた同じ周波数の若者たちによって、自然発生的に生まれてきたものなんじゃないかなあ。のちのギャルカルチャーしかり。
武井 西武の堤さんしかり、不動産屋のアベさんしかり、そういう若い子たちを応援する大人たちがいる街でもあったんですよ。
渋谷の何が若者たちを惹きつけたんでしょうね。
山本 渋谷って、ある目的をもった若者たちが集う街である一方、ちょっとした路地や坂道に、下町にはないタイプの〝戦後〟っぽさが残っていて、それが1980年代から90年代に青春を過ごしたぼくたちにとっては、郷愁を誘いつつもキラキラしたイメージを抱かせた理由だったんですよ。ぼくたちにとっての『ミッドナイト・イン・パリ』というか・・・。もしも夜の公園通りにあのクルマがやって来たら、18歳の頃に戻って確認したいことが山ほどあるよ(笑)。ぼくが行き始めたころのジャズ喫茶なんて、学生運動時代の亡霊たちがまだ大量に漂っていましたからね。
今まで全く考えたことなかったけど、渋谷と『ミッドナイト・イン・パリ』を重ねることもできるわけですね(笑)。
山本 公園通りの近くにはアニエス.bやオールドイングランドも出店したから、当時のカルチャー班としてはワクワクしながら見に行ったよ。
武井 かと思えば東急ハンズからNHKに抜ける道は「無国籍通り」と言って、「大中」や「チチカカ」みたいな、当時でいうエスニックとかエコロジー系のお店もたくさんありました。

当時の渋谷は混沌としていたんだな(笑)。でも、今の渋谷にはそういうカルチャーの匂いはさほど感じられませんよね。
山本 こないだN.Y.のメディアにも聞かれたけど、今現在、街としてそういう匂いを感じさせるのは神保町だよね。それってやっぱり、目的がはっきりしている人たちが集まっているからなんだと思いますよ。渋谷もかつてはそうだったけど、ある時期からすっかりマーケティング優先の街になってしまった。
武井 ある程度社会の仕組みをわかっていたり、相当売れていないと、今の渋谷の商業施設には参入できないでしょうからね。
山本 このへんだって、うちが渋谷新南口から移転した2010年頃は静かな通りだったけど、今や家賃がどんどん上がって、抹茶を出すようなカフェがたくさんできてますよ(笑)。
そろそろ神保町に移転しようか、みたいな気持ちにはならないですか(笑)?
山本 それはやっぱり、渋谷という街のローカルな面白さを、諦めていないから。銀座や青山でビジネスをやろうとしたら肩肘張らなくちゃいけないけど、渋谷にはそういう敷居の高さはなくて、町中華に入るような気分でテーラーの暖簾をくぐれるじゃないですか。まあ、今どきこんな格好して街を歩いているのはぼくくらいになったけど(笑)、やっぱりこの街に音楽と若い人のバイブスがある限り、渋谷からは離れられませんね。
武井 ぼくも山本さんと同じく渋谷という街に育てられた人間として、最近はオーラルヒストリーというか、当時の渋谷についての証言を残す活動をしているんです。人から聞いた話って間違っていることも多いんですけど、それはそれで仕方ないので、自分なりに裏付けをとってね。
※最高に面白い武井さんのnoteはこちら!


山本 「ぼくのおじさん」とも通じる活動ですよね。未来に対する投資というより、〝今〟をつくるための投資というか。ぼくもジャズ喫茶のオヤジの話とか、けっこう録音していますよ(笑)。こういう活動、将来化けると思うな!