2023.2.8.Wed
今日のおじさん語録
「字は病や毒から分泌される。そして、人を病ませ、毒する。/開高健」
お洒落考現学
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連載/お洒落考現学

鴨志田さんに聞いてみた!
N.Y.トラッドって
アメトラとなにが違うの?(前編)

撮影・文/山下英介

今回の「お洒落考現学」は、みんなが大好きなトラッドファッションがテーマ。でもちょっとへそ曲がりな「ぼくのおじさん」としては、あえて脇道にそれて、〝ニューヨークトラッド〟という概念を探ってみることにした。そのキーパーソンとして登場してもらったのは、なんとユナイテッドアローズの創設者のひとりであり、現在はポール・スチュアートのディレクターを務める鴨志田康人さん! まるで芸術のようなセンスととびきりの笑顔で、ファッションを通じてぼくたちを幸せにしてきた、超大物だ。ウェブマガジン【Paul Stuart Culture CLUB】とのコラボレートのもと、前後編にわたってお届けします!

1970年代、アイビーには
〝西派〟と〝東派〟があった!

鴨志田さんが2019年からディレクターをつとめるポール・スチュアート、絶好調みたいですね。ぼくもほしいものだらけです。

鴨志田 ありがとうございます。

ただ、ポール・スチュアートが標榜する〝ニューヨークトラッド〟っていう概念がいまいちピンとこなくて。ぼくたちの考えるアメトラって、『POPEYE』〜BEAMS史観の日本で培われた、ある種ガラパゴス的な概念だと思うのですが、そうじゃない傍流みたいな存在は意外と語り継がれてなかったりするんですよね。今日はそのあたりをみっちりお伺いしたいと思います!

鴨志田 お手柔らかに(笑)。

そもそも鴨志田さんは1957年生まれ。いわゆる第一次アイビー世代と第一次シティボーイ世代のちょうど真ん中の世代にあたると思うのですが、1970年代初頭〜中頃の日本のファッションシーンで、すでに〝ニューヨーク〟っていう概念はあったんですか?

鴨志田 もちろん行ったことはなかったけれど、ありましたよ。憧れのブルックス ブラザーズの本店やF.R.トリプラー、ポール・スチュアートなどがマンハッタンのミッドタウンに存在することも知っていたし。ただ、当時は〝西派〟〝東派〟みたいなざっくりとした分け方だったかな。

〝西派〟と〝東派〟ですか!

鴨志田 当然ウエストコーストは陽気でカジュアル、それに対してイーストコーストはタイドアップして革靴履いて、みたいな。音楽においては、いまだに西と東では大きな違いがありますよね。ぼくたちはアメリカしか知らなかったから、黒人のジャズマンのスタイルを〝ジャイビー〟つまりジャズアイビーと呼んだり、アイビーをいろいろとカテゴライズしていたんですよね。

当時はヒップホップなんて存在しないし、あくまでアイビーとかトラッドのなかでのカテゴライズだったわけですね。

鴨志田 そう。雑誌も『MEN’S CLUB』を読んでる人はイーストコースト派、『POPEYE』はウエストコースト派、といったざっくりとした志向がありました。イーストコースト派からしてみれば、開襟の半袖シャツとかメキシコっぽいプリントものなんて絶対着ねえぞ、みたいなこだわりがあったりして。

じゃあ、鴨志田さんは東派だったんですか?

鴨志田 いや、普通というかど真ん中を行っていたと思いますね。

今のスタイルからは想像もつきませんが、『POPEYE』のヘビーデューティみたいな時代もあったんですか?

鴨志田 けっこう好きでしたよ。ノースフェイスとかエディバウアーあたりも着ていたし。ただ典型的なシティボーイまではいかない。それはちょっと恥ずかしいよねって(笑)。

本日は鴨志田さんが自らディレクションした、ポール・スチュアートのスーツで登場。なんと500gというヘビーウェイトのツイードには2色のチェックが施されており、なんとも洒落ている。
やっぱり昔からちょっとへそ曲がりだったんですね(笑)。じゃあ、1968年にデビューしたラルフ・ローレンは? もともとはドレスクロージングの人だったと思いますが、ニューヨーク生まれで、まさに東の象徴的存在ですよね。

鴨志田 1970年代初頭はテーパードのパンツしか穿かなかったので、彼がつくっていた裾幅24㎝のバギーパンツとか、ふたつボタンのワイドラペルみたいな世界は、あまり自分の心には響かなかったかな。でも彼の影響で、日本のトラッドブランドも、どんどんそういうスタイルに変わっていってしまった。いきなり3つボタンから2つボタンに変わって、ラペル幅も広くなって。

やっぱりラルフ・ローレンの影響は大きかったんですね。

鴨志田 VANですらそういうテイストの404というブランドを立ち上げて、キラー通りにお店を出していましたから。

鴨志田さんはそれにハマったんですか?

鴨志田 ハマらなかった。奥手というか、やっぱりコンサバだったんでしょうね。そういう青山っぽい匂いがちょっと苦手で、やっぱり俺は下町なんだよな、っていう気持ちがあったんです。ただね、実はちょっと後悔してるんですよ。ぼくの世代は菊池武夫さんのビギに走ったような人も多かったけど、そういう服を着てこなかったから(笑)。

1989年、ぼくが体験した
古きよきニューヨークの残り香

西にも東にも染まりきらなかったのは、下町生まれの性なんですかね(笑)。でも鴨志田さんらしいです。ともあれアメリカから多大なる影響を受けてきた鴨志田さんが初めて渡米したのって、いつだったんですか? やっぱりビームスに入社された1980年頃ですか?

鴨志田 それが遅いんですよ。1989年。

意外ですね。

鴨志田 ぼくが多摩美を卒業してビームスに入った当時(1980年)は、すでにヨーロッパ旋風がすごかったんです。なのでもちろんアメリカの仕入れもあったけれど、ぼくはデザイナーズとかドレス系の担当と決められたので、出張もいきなりヨーロッパ。だからアメリカには行けなかったんです。行きたかったなあ(笑)。

70年代の『メンクラ』や『POPEYE』を通して思い描いていたようなアメリカは、実際には見られなかったわけですね。

鴨志田 そうですね。当時はパリによく行っていて、そこでフランスや英国のクラシックと、ドリス・ヴァン・ノッテンに代表される新世代のデザイナーの台頭を目の当たりにできたことは、自分にとって大きな財産になっていますが。

てことは、初のアメリカはユナイテッドアローズに入ってからですか?

鴨志田 そう。実はアローズの立ち上げのために、創業メンバーみんなで世界一周出張をしたんですよ(笑)。

な、なんと(笑)。バブリーというか、実に1989年的ですね!

鴨志田 アメリカに入って、ニューヨーク、ボストン、ダラス、ニューメキシコからサンタフェ、サンフランシスコからロス、そこからヨーロッパに渡って・・・。我ながらすごい経験をしましたね(笑)。衝撃でした。創業者の重松理(しげまつおさむ)さんが詳しかったから、各都市の名店はもちろん、郊外のショッピングモールもたくさんリサーチしました。その時に初めて、ブルックス ブラザーズやポール・スチュアート、ラルフ ローレン、バーニーズ ニューヨーク、バーグドルフ・グッドマン・・・といったお店を見ることができたんです。

初めてのニューヨークはいかがでしたか?

鴨志田 いや、それがすでにジョルジオ アルマーニのパワースーツ全盛で、トラッドは完全に薄まっていたんですよ(笑)。ブルックス ブラザーズだけは健在で、自分の思い描いていた世界そのままでしたが、ほかはね。もともとニューヨークってヨーロッパの飛び地と言われるくらいだから、アイビーやトラッドの街ではないんです。そういうのはボストンが本場なわけで。

鴨志田さんの憧れていた世界はすでに失われていたと(笑)。

鴨志田 映画の『タクシードライバー』(1976年)とか『マンハッタン』(1979年)みたいな世界が好きだったんですけどね。『大統領の陰謀』(1976年)みたいに、コーデュロイスーツを着たビジネスマンはいなかったなあ・・・。

1989年といえば『プリティ・ウーマン』(1990年)ですから、大違いですね(笑)。

鴨志田 ジゴロ系というかね(笑)。ただ、まだ当時のマンハッタンでもロウワーイーストは行っちゃいけない場所と言われていて、煙がもうもうと立ち籠めてイエローキャブが行き交う、『タクシードライバー』の世界はかろうじて感じられました。

ああ、それは羨ましいなあ。危険なのがいいってのも変な話ですが(笑)、ぼくたちはどんどん均質化されていく世界を生きているので、映画で観るヒリヒリした感覚を味わうことって稀ですよね。

鴨志田 今や、ヤバいのはパリくらいじゃないですか(笑)。

確かにパリの街は、モロッコとかインドよりずっとヒリヒリしますね(笑)。

セザラニって誰?
ニューヨークトラッドの全盛期は
1980年代前半だった

まさにニューヨークトラッドの全盛期といわれる1983年年に出版された、『MEN’S CLUB』の別冊。表紙はアラン・フラッサー。1945年に生まれ、ピエール・カルダンを経て独立した彼は、ニューヨークにおけるトラッド派のキーパーソンとして、ラルフ・ローレンと並び称された。現在は服飾評論家としてのほうが有名だが、実は現在でも自身のブランドは健在である。
本題に戻りますが、1980年代後半のニューヨークのファッションシーンって、どんなものでしたか?

鴨志田 最初に言っちゃうと、いわゆるニューヨークトラッドの全盛期って、1980年代前半だったんです。

そうですか! 知りませんでした。

鴨志田 ひとつのスタイルとしてのニューヨークトラッドって、1970年後半〜80年代にかけて、ヨーロッパの影響を受けてアップデートされた、ちょっと色っぽいトラッドのことを指すわけです。つまりアイビーやトラッドを縛っていたルールが、ヨーロッパ旋風によって崩れていき、そこから生まれたより自由なスタイル。だからぼくが初めてニューヨークを訪れた1989年のことは、あくまでその延長線上のことと考えてください。

なるほど。当時のアイコンとなるデザイナーやファッション業界人って、ラルフ・ローレン以外に存在したんですか?
鴨志田さんの所有する資料『AMERICAN CLASSIC MAGAZINE』より。ラルフ・ローレンに代表される、当時のニューヨークデザイナーを解説している。

鴨志田 ラルフ・ローレンの右腕として活躍したサルヴァトーレ(サル)・セザラニ。アレキサンダー・ジュリアン、あとはアラン・フラッサーですかね。

1976年生まれのぼくでも、ほとんど知らないです・・・。アラン・フラッサーは『DRESSING THE MAN』などの書籍で有名な服飾評論家ですが、デザイナーという印象はありませんし、アレキサンダー・ジュリアンに至っては、タカキューのスーツをつくっていた人ですよね(笑)?

鴨志田 そうか、知らないのか(笑)。でもまさにそうです。当時は格好よかったですよ。彼らは1920〜30年代スタイルにヨーロッパのテイストを掛け合わせたようなスタイルで一世を風靡しましたが、色彩感覚が見事で、スコットランドに別注したツイードやフェアアイルニットなんて、本当に素晴らしかった。アラン・フラッサーはもともとピエール・カルダンでデザイナーをやっていた英国好きのデザイナーで、めちゃくちゃハンサムな方でした。ぼくもブレザーを買ったなあ。

ユナイテッドアローズでも扱っていましたか?

鴨志田 つまみ食い程度には扱っていましたが、すぐに大手企業が入って、大規模なビジネスを始めると、ありきたりなブランドになっちゃうんですよね。そうなるとぼくたちは興味がなくなるから。

なるほど、それがニューヨークデザイナーが大成しなかった理由なのかなあ・・・。

鴨志田 そうかもしれませんね。それに対してクラシコイタリアのブランドは手づくりの世界だから、大規模なビジネスにそぐわなかった。それが今でも残っている理由ですよね。

街を歩いている人はどんな感じでしたか?

鴨志田 ぼくが行った1989年には、もうそれほどお洒落な人はいなかったですね。パリとはだいぶ違う。スタイルのアイコンも、ウディ・アレンくらいしかいなかったですし。

そうですか? でもぼくが2012年に旅行したときは、感動しましたよ。ピタピタの服が全盛だったときでも、おじいちゃんがダブダブのトレンチコートを着て、丈の長いスラックスに『ビーンブーツ』を合わせたりして。

鴨志田 どの街でもおじいちゃんが格好いいんだよ、やっぱり。唐突な色のマフラーとかソックスを履いたりしてね(笑)。そういう人はまだいますよ。

また見に行きたいなあ。

鴨志田 とはいえ、やっぱりニューヨークトラッドの全盛期は80年代前半なんですよね。この雑誌は知っていますか? クリケットという日本のネクタイブランドが当時つくっていた『AMERICAN CLASSIC』という雑誌なんですが。ここのスナップに出ている人たちが最高なんですよ。

かつてエーボンハウスを展開するなど、日本のトラッド史に大きな足跡を残したブランド、クリケットから出版された雑誌『AMERICAN CLASSIC』。ファッションのみならず建築やグルメなど、アメリカのトラディショナルなライフスタイルを記録した、歴史的な資料だ。
うわあ、これは初めて見ました。めちゃくちゃ格好いいですね。まさに『アニー・ホール』とか『トッツィー』あたりのニューヨークだ。うわあ、なんとも言えない喉越しの悪い色使い(笑)。

鴨志田 でしょ? こういうパープルのシャツなんて、いわゆるアメトラには絶対いないわけじゃないですか。でもぼくの口からはうまく言えないけれど、これこそがニューヨークトラッドなんですよ。

この方はちょっと不健康というか(笑)、退廃的な夜のカルチャーの匂いもしますね。明朗快活なブルックス ブラザーズの世界とはまるきり違うなあ。

鴨志田 その通り。やっぱりヨーロッパの影響を感じさせますよね。この時代は女性も格好よかったです。

後編に続く!

鴨志田康人

1957年、東京下町生まれ。多摩美術大学卒業後、株式会社ビームスに入社。1989年に退社し、ユナイテッドアローズの創業に参画。クラシコイタリアブームの立役者として世界的に名を馳せる。2007年には自身のブランド「Camoshita UNITED ARROWS」を立ち上げ、世界のセレクトショップで話題に。アジア人では初めて第「ピッティ・イマジネ・ウオモ賞」を受賞する。2018年に自身の会社を設立し、2019年秋冬コレクションから、ポール・スチュアートの日本におけるディレクターとして活躍する。下町育ちのフランクな人柄と、圧倒的なセンスで、業界歴40年を超える今も若手バイヤーの憧れの的だ。

このインタビューの続きは、
ポール・スチュアートHP内の連載
【Paul Stuart Culture CLUB】
からお楽しみください!
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