一生革靴で踊りたい!
Mr.パラブーツ
横瀬秀明が明かす
インポート革靴物語
(成熟の90's編)
撮影・文/山下英介
日本のインポート靴文化を築いたキーパーソン、横瀬秀明さんのインタビュー。後編はドレスシューズとカジュアルシューズの概念が混ざり合った90年代からスタート! パラブーツ、ビルケンシュトック、トリッカーズといった、超人気ブランドの日本上陸にまつわる秘話を教えてもらったよ。
「80年代編」はこちら!
パラブーツは
撤退寸前だった!?

でもそんなふうにワールドフットウェアギャラリーという組織の中で好きなブランドをたくさん仕入れられる環境にあった横瀬さんが、どうして独立されることになったんですか?
横瀬 それは単純に方向性の違いですね。その頃ワールドフットウェアギャラリーはドレスシューズに特化していくという方向性を打ち出したのですが、ぼく自身はその前にビルケンシュトックやカンペールというポップな革靴に惚れ込んで、もっと力を入れたかった。そこで当時の深田社長から「どうしてもやりたいなら自分でやればいいだろう」というお言葉をいただいたことで、1994年に独立を決意しました。今まで開拓した卸し先はそのまま持って行っていいとのことでしたし、紹介状まで書いてくださったので、本当に感謝しています。
なるほど。よく考えると、横瀬さんが今まで扱った靴のラインナップを見ていると、いわゆる本格紳士靴というよりは、ドレスとカジュアルの中間みたいな靴ばかりですね!
横瀬 まさにそうですね。カンペールはスペインのマヨルカ島の会社でしたが、今までの靴メーカーには全くなかったコンセプトを確立しました。そしてビルケンシュトックはサンダルメーカーとしての解釈で革靴をつくり始め、ワラビーにも似た「パサデナ」というモデルが恐ろしく売れました。
あれは1990年代、裏原宿ブームの象徴的シューズですよね!
横瀬 みんな履いてましたよね。当時藤原ヒロシさんがアイリッシュセッターのブラックにホワイトソールを付けて履いていましたが、「パサデナ」も同じ発想で、黒いアッパーに白いソールをつけたら大ヒットしたんです。そのアイデアは吉祥寺にあった「ブル」という今はなき靴店からもらったんですが、実際に藤原さんも気に入ってくださって。結果的にそれがビルケンシュトックというブランドを成長させる大きなきっかけになったと思います。


ホワイトソール、流行ったなあ・・・。
横瀬 当時のマーケットはナイキの大ブームでしたが、「エアマックス95」の次にリリースされた「エアマックス96」が微妙なデザインで見事にコケちゃったんですよね(笑)。そういう流れもあって、ビルケンシュトックやカンペールみたいなスニーカー的革靴に注目が集まった側面もあるんです。なのでこの2本柱で、会社が一気に推進できました。
パラブーツも独立時から横瀬さんが手がけておられたんですか?
横瀬 パラブーツはもともとJMSコーポレーションという会社が日本での独占販売権を所有されていて、問屋としての機能はそこが果たしていたんです。弊社も問屋ではあるんですが、こちらを通してパラブーツを卸すという形で。
輸入や流通における複雑な商習慣があるんですね。
横瀬 そうなんです。JMSコーポレーションは当時青山で「フレンチマニアギャラリー」という直営店を運営していたんですが、慣れない小売業で在庫を抱えすぎて、破綻してしまった。そこでパラブーツ側の要請で、私が全国に散らばった4000足の委託在庫を回収したんです。そしたら今度は「あなたがお店をつくって売ってくれないか」と、実に軽く頼まれて(笑)。それで私は2001年に、骨董通りにパラブーツのショップをオープンしたんです。

そこから横瀬さんの会社がパラブーツの輸入元になったわけですね。
横瀬 ただ、最初は本当に苦労しましたよ。時代はクラシコイタリアやベルルッティに代表される色気たっぷりのロングノーズが中心でしたから。
わかります。私は当時『LEON』という雑誌の編集部にいましたが、パラブーツとオールデンは着用禁止でしたから(笑)。ただ、パラブーツは当時から誰もが知るブランドだったし、売れない時代が長かったなんて意外ですよ。

横瀬 実はパラブーツのビジネスが黒字になったのは、2011年の震災以降なんですよ。あのとき首都圏の交通機関が全て止まって、真っ暗闇のなかみんな数時間かけて徒歩で家に帰ったじゃないですか。そこから靴はやっぱり丈夫で履き心地がよくないと、というふうに時代のマインドがガラリと変わったような気がしています。リーマンショック頃までは、「こんなに損してるのになんでやめないの?」みたいな声が内部から出るくらいでしたから。



あの震災は日本人の靴やファッション観にも大きな影響を与えていたんですね!
横瀬 そう思います。〝ラギット〟とか〝ヘビーデューティー〟みたいなキーワードも、そのあたりから復権してきましたから。
横瀬さんといえばトリッカーズのイメージも強いですが、いつくらいからビジネスをされてきたんですか?
横瀬 ぼくがワールドフットウェアギャラリーにいた1986年からですね。英国のシューメーカーはひとつの輸入代理店と独占的に契約することがないので、いろんな問屋さんが仕入れて、競い合うように展開していたんですが。
別注モデルの豊富さでも知られていますよね。
横瀬 90年代に流行ったオズワルド・ボーテングみたいな、細身のスーツに合わせる靴としてブレイクしましたよね。
懐かしい! 細身のパンツにカントリーブーツの相性は普遍的ですよね。
横瀬 タッグを組むクリエイターによって様々な表情を見せる、本当に興味深い靴ですね。



それにしても日本のファッションの文脈で流行った革靴は、たいてい横瀬さんが仕掛けているんですね!
横瀬 それって私が学生時代から「ビームス」さんのファンだったからだと思うんです。今でも新しい靴を見るとまず「ビームス」の各セレクションが思い浮かぶし、結果としてそこにハマらない靴はやってきませんでしたから。アイランドスリッパにしても「これは『ビームス』さんが置いてくれるに決まってる!」と決めつけて契約したブランドですし(笑)。
「ビームス」が横瀬さんにとっての物差しになってきたわけですね。
横瀬 結局、現代の男靴におけるオーセンティックを定義づけたのは「ビームス」さんなんですよね。コンバースにせよ、ビルケンシュトックにせよ、「ビームス」さんがスタンダードだと決めたものが、今や世界中でそうなっているんだと思います。
日本の靴文化を海外に。
革靴の可能性は無限だ!

横瀬さんの長い靴人生のなかには、失敗もあったんですか?
横瀬 主にものづくりの面で、裏切られたという経験はありますね。靴ってやっぱり道具だから、その機能を果たさないモノを売ってしまうと、あとあとすごく苦労するんですよ。しかも靴の場合、数年経ってからそれがわかるので、悪い評判が出たときにはもう立ち直れません。まさに●●●●には、そんな理由で苦しめられました(苦笑)。
人気があればいいというものでもないから、難しいビジネスですね。横瀬さんの最近のヒットといえばインドネシアのジャランスリウァヤが挙げられますが、あれはどうやって見つけてきたんですか?


横瀬 2002年頃、イギリスの会社から紹介されたのが始まりですね。イギリスでグッドイヤーによる製靴を学んだルティ・スパーマンさんという方の工場がいいという話で、実際に会ってみたら、ウェルトを手で縫っているというから驚きました。
ハンドソーンウェルト、つまりグッドイヤー製法の原型ですよね。
横瀬 あえてそうしているというよりも、そのミシンを持っていないという話なんですが(笑)、どちらにしてもすごいことだから、ぜひやってみたいと思ったんです。実は当時のジャランスリウァヤは●●●●の靴をつくっていたんですが、インドネシアの工場で縫われた靴が、イタリア製としてものすごい価格で売られていたことにも驚かされました。
これは絶対言えませんが(笑)、ある意味では実力の証明というか。
横瀬 そうですね。インドネシアの工場を視察したところ、サンダルを縫うラインとハンドソーンウェルトのラインがあって、たくさんの若者たちが椅子に座って一足一足縫っている。これは機械がないというより、機械を入れる必要がないほど人間がいっぱいるんだなって。
若い人たちがどんどん増えている国ですもんね。
横瀬 ここで働く若い職人さんたちは、どんどん仕事をしたい!と本当に前向きで一生懸命でした。私はお手本としてエドワード・グリーンの靴を持参して彼らの目の前でバラしましたが、そのときの彼らの真剣な眼差しは、今でも忘れられません。現代の日本では、もうこんな瞳は見られないだろうなって。それで社長と意気投合して始めたブランドが、ジャランスリウァヤだったんです。ブランド名の由来は、インドネシア語で「スリウァヤ通り」。つまり工場の目の前の通りの名前で、いい名前だからそのままブランド名にしちゃいました。それが2003年のことです。


反響はどうでしたか?
横瀬 最初に買い付けてくれたのは「ユナイテッドアローズグリーンレーベルリラクシング」さんでした。もはや洋服だって中国製が当たり前の時代、インドネシア製だからってこのクオリティで2万円台だったら関係ないよって。結果素直に売れてくれましたね。百貨店では最初はこそ抵抗がありましたが、当時オープンしたばかりだった「イセタンメンズ」さんで売れると、全国からも引き合いが来るようになりました。現在ではシンガポール、バンコク、マレーシア、韓国といった国でも展開しています。
成長著しいアジア圏での展開が中心なんですね。
横瀬 やっぱり経済成長している国では、ドレスシューズが必要とされるんですよ。日本やヨーロッパのように景気が低迷するとカジュアルになってしまう。
シンプルな法則!
横瀬 東南アジアは暑いからジャケットや上着の需要は少ないんですが、それでもドレスシャツやスラックスと革靴は、一流の装いとして欠かせないんです。なので現在のジャランスリウァヤは「ストレートチップのオックスフォードを履いておけば間違いないですよ」ということを、世界に伝える役割を果たしています。
結構大きなスケールの会社に成長しているんですね。
横瀬 今や500人の職人さんを雇用しているんですが、面白いことに正規で働いているのは300人程度で、残りの200人はお金がなくならないと働かない人たち(笑)。インドネシアの職人は給料の週払いが普通で、金曜日まで働いたら日曜日に支給されるんですよ。
ちょっと江戸時代の職人っぽいシステムですね。金がないからそろそろ仕事するかって(笑)。
横瀬 これはイギリスやイタリアの会社から見るとものすごく巨大な規模です。インドネシアにはラマダン(断食)の習慣があるんですが、その前にサンダルを新調するのもセットになっているらしく、ラマダン前は大忙しなんですよ。
すごい活気を感じますね。しかし色々とお話を聞いて感じたのが、革靴のビジネスの大変さですよ。関税は高いし、輸送コストは高いし、単純にモノとしてかさばるし、細かなサイズ展開が必要になるし・・・。これほど効率の悪いビジネスはないんじゃないですか! 横瀬さんはもうやめちゃおうと思ったことってないですか?
横瀬 やめようとは思いませんが(笑)、大変さはいつも痛感しています。ただこの仕事にはひとつだけ鉄則があって、それは在庫を持ちすぎると価値が下がること。「もっとほしい」はやっちゃいけないんですよ。
なるほど!
横瀬 「ほしいけどもうないよね」というモノこそお客さんの記憶に残るし、価値も高いじゃないですか。昔でいうとコンバースやケッズなど、過剰な在庫を持って価値を落として安売りに走り、信用を失っていったブランドなんて山ほどありますよね。
「ABCマート」で3980円!みたいな世界ですね。
横瀬 ぼくが初めて手に入れたグッチのビットローファーのように、ブランドって手に入りにくいからこそ自慢できるし、ほしくもなる。だからぼくは周りから「もっとやればいいのに」と言われながらも、常に適量を心がけています。
横瀬さんはひとつのブランドとのお付き合いが長いですもんね。
横瀬 それはパラブーツも含めて、ファミリービジネスの会社が多いからです。これが後継者で揉めてどこかのグループに株式を売却しようみたいな話になると、全く違う会社になっちゃうんですよ。欲望が止まらなくなってしまう。
横瀬さんの会社自体も、家族っぽいような気がします。
横瀬 みんなで目標を合わせて頑張るというのが、やっぱり日本人のメンタリティには合ってるんじゃないですか?

横瀬さんが今いちばんドキドキしていることって何ですか?
横瀬 日本における革靴の歴史って、意外とまだ短いんですよ。日本人みんながちゃんとした靴を履けるようになったのは、戦後のことじゃないですか。逆にいえばそれほどものすごいスピードで、ぼくたちは革靴の文化を吸収してきました。だからぼくは、この歴史をもう一度海外で再現してみたいんです。
インドネシアみたいな国で、ということですね。
横瀬 そうですね。その国ごとの背景や宗教を理解しながら、かつての日本のように革靴の文化を広められたら最高です。
革靴にとっては逆風の時代かもしれませんが、まだまだ夢はあるんですね!
横瀬 世界を舞台にしたらまだまだ伸びしろは無限ですよ!