2026.1.10.Sat
今日のおじさん語録
「高いところへは、他人によって運ばれてはならない。/ニーチェ」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
32
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

〝アメカジをつくった男〟
中曽根信一が
憧れの人に会いに行く!
ぼくの人生を変えた
中村雅俊さんと
『俺たちの旅』

スタイリング/中曽根信一&土屋大樹
ヘア&メイク/鈴木佐知
撮影・構成/山下英介

きっかけは、昨年「ぼくのおじさん」に登場してくれた中曽根信一さんにふと尋ねた質問「今一番会いたい人って誰ですか?」。中曽根さんが迷わず挙げてくれたその人の名前は、国民的スターの中村雅俊さんだった・・・! 日本のアメカジカルチャーを築いた名バイヤーと、中村さんとの間にどんな関係が? そして1970年代、中村さんの代表作『俺たちの旅』がいかに当時の若者たちに大きな影響を与えていたのか? 奇跡的に実現した夢の対談、ぜひ読んでみて。

伝説のバイヤーは
『俺たちの旅』から生まれた

数十年ぶりに原宿で再会した、中村雅俊さんと中曽根さん! この記念すべき1日のために、中村さんのスタイリングも中曽根さんにプロデュースしていただいた。詳細は後ほど。

中曽根 中村さん、本当にご無沙汰しております! ぜんぜんお変わりないですね。

中村 いやあ、懐かしい。40年以上ぶりですかね? 渋谷や原宿に来るのも本当に久しぶりで、あの頃のことをちゃんと思い出せるか不安だなあ(笑)。

中村さんは当時このあたりで遊んでいたこともあったんですか?

中村 1970年代、明治通りのビームスの近くには飲み屋がけっこういっぱいあったんですよ。今じゃ「上海娘」くらいしか思い出せないけど、ほとんど飲むしかないようなお店(笑)。あとは山崎さんという方がいた・・・。

中曽根 「クリームソーダ」! 「ピンクドラゴン」の創業者だった山崎眞行さんのお店ですね。

中村 そう、懐かしい。

中村さんは学生時代、ブームだったヒッピーとか、西海岸カルチャーに憧れたりしていたんですか?

中村 いや、貧困との戦いでしたね(笑)。ただデビューして少し生活に余裕ができると、人と違う格好しよう、みたいな感覚はあったかな。当時は自分の個性を一番表現できるのってファッションだったし、今の若者みたいに人と同じ格好したいなんて全く思わない。だから俺、とんでもないヤツでしたよ。レコード大賞で森進一さんがタキシード着ている横で、俺だけ普段着で突っ立ってるんだから(笑)。ただ、不思議と怒られたことはないんですよね。当時はまだ〝禁止〟とか〝自粛〟が今より極めて少ない時代だったからかなあ。

中村雅俊さんは1951年宮城県生まれ。慶應義塾大学在学中に文学座附属演劇研究所に入所、1974年に俳優デビュー。『われら青春!』の主役に抜擢されるとともに、デビュー曲『ふれあい』で100万枚のヒットを飛ばす。以来俳優兼歌手として50年以上にわたり第一線で活躍を続け、なんと今までの主演作品は100本以上! 今年1月から公開している『五十年目の俺たちの旅』で映画監督デビューを果たした。
中村さんは初めて監督を務められた『五十年目の俺たちの旅』が公開間近。ご多忙のところ取材にご協力いただき、ありがとうございます!

中村 今回初めて監督をやったんですが、そうなると役者のときよりも「どうにかして作品を観てもらいたい」という気持ちは強くなりますね。感想を聞くのが怖いけど(笑)、積極的にメディアに出させてもらってます。

しかし50年前のドラマの続編って、ちょっと考えられないですね。それだけ影響力が強かったということだと思いますが。

中曽根 だってぼく、18歳のときに『俺たちの旅』を観て東京に出てきたんですから。

中村 それ、すごいですよね。

中曽根 あれはぼくの人生を変えた作品なんですよ。

どのあたりが50年前の中曽根少年に刺さったんですか?

中曽根 16歳のとき、ぼくが通っていた長野の高校が制服を廃止したんですよ。それで一体何を着たらいいのかわからなくなっているときに、中村さんがテレビの世界に登場したんです。本当にセンセーショナルでしたよ。あのパッチワークのフレアのジーパンはどこで買えるんだろうって夢中で探しましたね。でも最初は田舎の学生だから、フレアジーンズに学生服を合わせてたんですけど(笑)。

中曽根信一さんは1957年長野県生まれ。1977年から「バックドロップ」で働き、バイヤーとして同店をカリスマショップへ導くがのちに退社。ビギグループでのデザイナー活動を経て、1988年に「ラブラドール レトリバー」を設立。1999年には、アメリカから見た日本をテーマにしたショップ「AKIZ(あきづ)」を設立するなど、日本のアメカジ文化をリードした立役者のひとりだ。
学ランにフレアジーンズ! それは斬新すぎる(笑)。

中曽根 もちろんアーミージャケットにもハマりましたね。そんな風に中村さんみたいな格好をして『俺たちの旅』を観ていたら、普通に就職して働くというイメージが全くできなくなって、東京ならなんとか日々やっていけるだろうという思いで、上京したんです。場所はもちろんドラマの舞台だった吉祥寺で、家賃1万5000円の北向きのアパートを借りました。全くカースケの部屋と同じでしたよ。隣の部屋には植木等さんの甥っ子さんが住んでいて、彼やその仲間たちとまさに『俺たちの旅』のように暮らしていました。

1975年当時は、ああいう下宿みたいなスタイルは一般的だったんですか?

中村 全然普通の光景でしたよ。安ければ安いほどいいという人は多かったから。俺も貧乏大学生だったから、ちょっと前まではそういう暮らしをしていたしね。

中村さんの当時のスタイルって、アメリカへの憧れからきたものだったんですか?
古着のパッチワークジーンズに米軍放出品のシャツやバッグ、桐の下駄を合わせた、『俺たちの旅』時代の中村さん。誰かのマネではなく、中村さん自身の内面から生まれたそのスタイルは、1970年代の若者に衝撃を与えた!

中村 いや、もともと俺の夢は外交官だったんですよ。それもソ連。五木寛之さんの『さらばモスクワ愚連隊』や『青年は荒野をめざす』といった小説に影響されて、当時最も謎めいていた国で外交官になりたいなって。だから大学受験も第一志望は東京外国語大学のロシア語科だったんですが、落ちちゃった。それで慶應に通いながらESSで英語を勉強しようと思ったんです。だからあのファッションは、アメリカが好きだったというより、貧乏なりに自分を主張したいという思いからだったのかな。慶應らしくないけど下駄を履いてね。その後有名になってファンの方たちが大量に下駄を送ってくれたものだから、履ききれなくてちょっと困ったけど(笑)。

確かに下駄はアメリカンカルチャーではないですね(笑)。でも、それがまさに『俺たちの旅』のスタイルだったと。

中村 そう、まさにこの感じ。『俺たちの旅』をやるときに最初にみんなで決めたのは「自分の人生の一部を出そう」ということでした。だからこのドラマにはファッションだけじゃなくて、あの頃の自分たちが考えていたことや、過去に体験したリアルなエピソードも散りばめられていたんです。当時の俺は20ヶ所くらいバイトを掛け持ちしていた貧乏大学生だったわけですが、それがそのまま主人公の人物設定になっていたんですよ。ただ、アパートは吉祥寺じゃなかったけど(笑)。

中曽根 ぼくが上京してまず最初に探したのはドラマに出てきた坂道と噴水でした。今みたいにネットで探せないから苦労しましたよ。でもどちらも吉祥寺じゃ見つからなくて、なんでないんだろうって(笑)。実は坂道が瀬田のほうで、噴水は歌舞伎町だったんですよね。

中村 すごいよね(笑)。吉祥寺では1年間撮影したけれど、すごく楽しい場所だったな。

1980年代後半以降の若者向けのテレビドラマって、憧れのファッションやライフスタイルを描いたものが多いですが、1970年代の少年たちは、四畳半の安アパートに住んで地ベタに座り込んで・・・みたいな暮らしに憧れていたというのが面白いですね。

中村 本当にそうだね。

中曽根 当時のぼくたちは、地位やお金よりも、自由がほしかったんですよ。

1970年代の中村雅俊と
アメカジカルチャー

話はファッションに戻りますが、中村さんが1970年代当時着ていたジーンズやアーミーシャツは、どういったところで手に入れていたんですか?

中村 アメ横の「中田商店」みたいな米軍放出品のお店とか、古着屋さんに行っていましたね。当時の東京には、すでに古着屋がいくつかありましたから。

そんななかで偶然行かれたのが「バックドロップ」だったと。

中曽根 『俺たちの旅』で中村さんが穿いていたパッチワークのジーンズは、「バックドロップ」がお店をつくる前に生産して、ほかのお店に卸していたものなんですよ。当時はオイルショックの影響で縫製工場がたくさん倒産したんですが、その廃屋に捨ててあったボロのジーンズを洗って干していたら、「クールス」のメンバーが買ってくれたらしいんです。で、これを使ってなにかできないかな?ということで生まれたのが、あのジーンズだったと聞きました。

中村 あのパッチワークのジーンズを初めてドラマで穿いたのは、『俺たちの旅』の前に放送された『俺たちの勲章』。松田優作さんと共演した刑事ドラマでしたね。最初は「ビギ」のスーツを着ていたんですが、途中でやめて、こっちに変えたんです。初めて見たときから「いいな〜」って思ったね。

なるほど。放送当時、すでに中村さんが穿いていたジーンズの情報は広まっていたんですか?

中曽根 同じパッチワークでも、日本のジーンズを縫い合わせたものと、リーバイスやリーといったアメリカのジーンズを縫い合わせたものでは価値が違いますよね? その点中村さんのパッチワークはアメリカものだ、なんて話は耳にしていました。もちろんそれが、ぼくがのちに勤めることになる「バックドロップ」製だとは知らなかったけど。

1975年の10月に始まった『俺たちの旅』。放映時間は日曜日の夜8時。大河ドラマの真裏に当たるものの尻上がりに評価を高め、丸1年にわたって続いた、伝説のドラマだ。YouTubeや配信サービスなどでも観られるから、ぜひチェックしてみよう。
©︎ユニオン映画

中村 考えてみると不思議な現象ですよね(笑)。俺、お洒落とは程遠い人間だったから。

中曽根 いや、当時のお洒落の本筋ですよ。最近再放送を正座しながら観たんですが(笑)、洋服屋の視点から見ると、ジーンズやアーミーシャツだけじゃなく、実はめちゃくちゃマニアックなものばかり着ていらっしゃるんです。井の頭公園のシーンに登場する真っ白なラビットファー付きのコートなんて、自衛隊の雪中用コートですよ。自衛隊の服って市中で着られると困るからわざとナイフで傷をつけていたりするんですが、中村さんはそれを直して着ておられたということですよね!?

中村 もう忘れちゃったなあ。あの頃は勝手に「これ着るよ」って事後報告の世界だったけど、それが楽しかったんですよね。イギリスのポストマンのツナギとかもお気に入りだったけど、俺、どこで買っていたんだろう? いや、こんな見方をされるのは初めてだけど、意外と面白いですね(笑)。

中曽根 本当に中村さんの影響力は絶大でしたから。

憧れて同じ格好するどころか生き方までマネしちゃう、中曽根さんみたいな若者がたくさんいたわけですからね(笑)。でも、中曽根さんはそんなスターと実際に会うところまでいったわけだからすごいですよ。

中曽根 本当に偶然でしたね。実は「バックドロップ」には、一度面接で落とされかけたんですよ。社長に「ボクシングとプロレスどっちが好き?」って聞かれて「ボクシング」って答えたら、「じゃあお前いらない」と。

「バックドロップ」なわけですからね(笑)。

中曽根 そのときに「タダでもいいから使ってくれ」と食い下がって、ようやく雇ってもらえたんです。本当にしばらく無給だったけど(笑)。で、「バックドロップ」で働き出した後で、当時のオーナーが中村さんの大ファンで、実際にお店に来てくれていたこともわかったんです。

実際に働くまで知らなかったんですね。

中曽根 そうなんです。ぼくにとっては神様みたいな存在ですから、目の前にボーンと現れたときは、本当にびっくりしましたよ。当時の「バックドロップ」では中村さんに勧めるモノを全部取り置きしていたんですが、入社後にぼくがそれを任されました。中村さんが着るウエスタンシャツは襟の小さいDEE-CEEのホワイトで、ジーンズはリーのこれで、スタジャンはグランドコートみたいに着丈が長いもので・・・みたいなことを全部教わりました。

中村 すごい! 俺、結構スタジャン買いましたよ(笑)。『俺たちの旅』のあと、NHKの大河を挟んで『俺たちの祭』(1977年)をやったときは、「バックドロップ」で買った自前のスタジャンを着ていたなあ。洋服って一期一会というか「これだよ、これ!!」みたいな直感があるじゃないですか。当時の「バックドロップ」にはそういうものがあったんでしょうね。お洒落好きにとっては本当に楽しいお店であり、楽しい時代でしたよ。

当時の「バックドロップ」は中村さんのみならず、内田裕也さんや松田優作さんなど、錚々たるスターが通うお店だったとか。

中村 2階にある目立たないお店だったからね。そういえば俺も桃井かおりにこのお店の存在を教えてもらったんですよ。

中曽根 隠れ家っぽいお店でしたからね。

中村 宝物を探しに行くような気持ちはあったかなあ。ウチに持って帰るまでの時間も楽しかった。

本当にお好きだったんですねえ。

中村 うん。でも・・・俺ってちょっと浮気者なのかわからないけれど、そういう服を買ってたのに、いきなりニコルにハマっちゃったんだよね(苦笑)。

中曽根 あのときは悲しかったです(笑)。

中村 いや〜、たまたまなんだけど、また歌が売れて(笑)。『ザ・ベストテン』に出るときに、自分でニコルのプレスルームに行ったんですよ。デザイナー兼社長だった松田光弘さん(ニコル創業者)も色々なデザインを勧めてくださって。

いわゆるDCブランドに転向されたんですね(笑)。

中村 俺、1982年に紅白歌合戦に出たんだけれど、そのときは松田光弘さんが祝いに衣装をつくってくれました。タキシードなんだけど、なぜかサンバイザーとアームカバー付きで、しかもそれが全部黒いレザーなんですよ。同じ出演者の西田敏行さんに「シュンちゃん、どんな格好で出るの?」と聞かれたとき、「俺、役場の出納係みたいなんですよ」って言っちゃったもん(笑)。それで当日お見せしたら、「シュンちゃん、それすげえ!」って。・・・当時は今とは全く違って、ファッションも遊び心満点の時代でした。

実は取材当日に中村さんが着て来られた私服は、1980年代前半にハマったという、ニコルのライダースジャケット! 現代のニコルからは考えられない、個性的な一着だ。もとからピンバッジが施されていたそうだが、中村さんはさらに自らカスタムを加え、長年にわたって着込むことで、オリジナルな一着に昇華させている。
光景が目に浮かびますね(笑)。

中曽根 ぼくは紅白ではなかったけれど、なにかの歌番組かコンサートのときに、中村さんから「どうしても古着のジージャン着てNHKで歌いたいんだよ」と連絡をもらった記憶があります。それで「最高に格好いいやつ持って行きますよ」と言って、リーバイスのファーストをお届けしたんです。でもお店に帰ったらまた電話があって、今度は「アームホールが小さくてギターを弾きにくいから、切っちゃって!」と(笑)。なのでぼくはハサミを持ってNHKまで行って、本番前に袖をジョキジョキ切ってベストにしちゃいました。

中村 今考えたらすごいことだね。

中曽根 ヘタしたら1,000万円くらいしますよ(笑)!

中村 それは今更ながら、すみませんでした(苦笑)。

青春ドラマの
スタイリング秘話

©︎ユニオン映画
話を少し戻すと、中曽根さんは1970年代後半から1981年くらいにかけての中村さんのファッションに、かなり関わっていたわけですね。

中村 『ゆうひが丘の総理大臣』(1978〜1979年)くらいからかなあ。

中曽根 そうですね。スタイリストということではなく、当時は中村さんの好みに合う古着を、わざわざ仕入れていたんです。中村さんは、ご自身で選んだ私服でドラマに出演されていましたから。新しいドラマが始まるときには電話でイメージを教えてもらって、それに合うものを一生懸命探していました。

中村 今聞くと贅沢というか嬉しい話だなあ(笑)。

中曽根 『ゆうひが丘の総理大臣』のときは、L2-Bのジャケットやリーのジーンズ、あと鷲のマークが入ったUSネイビーのシャツ、ネイビーブルーのポリスマンシャツなんかを揃えました。で、「アメリカ国旗で弁当包んだらどうですか?」って。

中村 そうそうそう! だから登場のシーンではそれで本を包んでいる風にして。

中曽根 当時の中村さんはシルエットが真っ直ぐ落ちるリーのジーンズしか穿かなかったから、好みのサイズや色を探すのに苦労しましたよ(笑)。でも中村さんはスタイルもいいし、なんでも決まっちゃうんです。あの頃の若者とは、古着の着こなしが全く違いましたから。

そうか、だから今日のスタイリングにはリーバイスではなく、リーのジーンズが必要だったんですね!

中曽根 そうなんです。ほどよくフェードしたリーのライダースジーンズ「101Z」に、M-65ジャケットという、あの頃の中村さんが大好きだったスタイルをイメージしました。ただ、昔のままだとつまらないから、アウターはポロ ラルフローレンのモダンなタイプに変えて、インナーには上質な黒いタートルネックニットを合わせて、あくまでも大人っぽくね。

中村 俺は本当に忘れやすいタチなんだけど、今どんどん記憶が蘇ってきた(笑)。やっぱり当時の若者たちの主流はジーンズで、それをもとにどうやって自分らしさを表現するか、ということになるんだよね。みんなで揃いのTシャツをつくろう、みたいな前へならえの感覚とは最も遠いところにいたかな。

中曽根 ぼく的にはウエスタンブーツのイメージも強いですね。

中村 そういえば、ウエスタンブーツもものすごくたくさん持ってました! 俳優座の裏にあった専門店や、キラー通りにあった「ベーリーストックマン」でよく買ってたね。いやあ、でも今日は中曽根さんの話を聞くんじゃなかったな。あの頃のスタジャンやブーツがどこに行ったのか、今さら気になってしょうがないよ(笑)。

『俺たちの旅』が
ぼくたちに教えてくれたこと

お話を伺っていると、中村さんが出演されていた青春ドラマって、中村さん自身のリアルなセンスやキャラクターが反映された作品だったんですね

中村 ファッションもヘアメイクも今みたいに誰かがコーディネートしてくれる時代じゃないから、自分で全部やらなくちゃいけない、という事情もあったんですけどね。ただ、俺たちの世代に共通するのが、「人と違うことをやる」という考え方。『俺たちの旅』はドラマを通してそういう生き方を提示していたから、ありがたいことに今でも共鳴してくれる方がいるんでしょうね。

たくさんの若者たちの人生を変えちゃったわけですからね。

中曽根 本当にそうですよ。ぼくは2011年に東日本大震災があったとき、その2週間後に中村さんの故郷である宮城県の女川町に行ったんです。山の上に登って町を眺めたときのショックは、今も忘れられません。そこからぼくは10月まで、毎週土曜日は欠かさず女川まで通って、水を運んでお風呂をつくりに行きました。中村さんも復興支援に取り組まれていましたもんね? さっきまでこんなこと言うつもりもありませんでしたが、ぼくにとって中村さんは、それほどの存在なんです。

中村 女川まで行ってくれていたんだ・・・。そう、バカばっかりやってるようで、実は『俺たちの旅』というドラマは、人間にとって最も普遍的なテーマを描いていたんだよね。友情、愛、親子、人生・・・。そういったテーマに対して俺たちは、「こんな結論もありますよ」というひとつの例を示していたわけで。当然、時代によってその答えには微妙な違いも出てくるかもしれないけど、根源的なところで人間は変わっていないんじゃないかな。

©︎ユニオン映画
今観ると、人と人との距離感が近いというか、コミュニケーションが濃密ですよね。酒飲んでときには殴り合って、本音をさらけ出して泣きながら仲直りするなんて、最近じゃなかなか聞きませんから。

中村 1970年代までは機動隊と学生たちが本気で戦っていた時代だから、今とは社会背景がだいぶ違っていたかもしれませんね。

中曽根 だってぼくが「バックドロップ」に勤めはじめた頃は、よく警察署からお店に連絡がありましたよ。「代々木公園で集会があるから投石されないように道端の石を拾ってくれ」とか、「パルコの前で戦うからシャッター閉めてくれ」って。だから中村さんの世代はものすごく熱かったんですよ。

中村 俺が大学に入った頃はちょうど70年安保の真っ只中で、学校もしょっちゅう封鎖されていましたから。三島事件(1970年)やあさま山荘事件(1972年)もよく覚えている。そんな激動の時代だったし、気合い入れて生きなくちゃって思いはあったかもしれないね。

中曽根 そんな中村さん世代の熱い若者たちがつくったからこそ『俺たちの旅』は伝説になったんですよね。あれを観ていなかったら、ぼくは今ここにいませんから。中村さんに憧れてギター1本抱えて上京して、吉祥寺のおんぼろアパートを借りて、ありとあらゆるバイトをしながら弾き語りをして・・・。そんなときに付き合った女の子が古着好きだったことがきっかけで、ぼくも古着が好きになってバイヤーになれたんです。そんな神様みたいな人と久しぶりに会えて、今日はこんなに嬉しいことはありません。

中村 そんな風に思ってもらって、本当に嬉しいね。ありがたいことに50年経った今でも、『俺たちの旅』の影響力の強さは実感させられます。やっぱり俺、ファッションって生き方だと思うんですよ。中曽根さんもそうだけど、自分は何を主張して、何を大切にして生きてきたのかが、その人のスタイルを見ればすぐにわかる。

中曽根 本当にそう。中村さんは昔も今も、テレビ画面で見せている姿と、普段の姿との間に全くギャップがないんですよね。ファッションも人柄も。

そこに嘘がなかったから、『俺たちの旅』は50年経っても忘れられないドラマであり続けているんでしょうね。

中村 50年前に撮影しているときは、そんな未来のことなんて誰も考えたこともなかったから、本当に嬉しいの一言だよね。自分のやってきたことが、こんなにも多くの人たちの人生に影響しているなんて・・・。

中曽根 『俺たちの旅』って、1975年のドラマシリーズを皮切りに、今まで3回スペシャルドラマが放送されていますよね(1985年/1995年/2003年)。どういうわけか、そのタイミングごとにぼくの人生に転機が訪れているんです。上京とか退社とか、事業の大きなトラブルとか・・・。そういう意味では今回もなにか起こるんじゃないかとドキドキしています(笑)。

中曽根さんが上京して探し回った〝あの坂道〟も!
©️「五十年目の俺たちの旅」製作委員会

中村 今回の作品は2023年に脚本家の鎌田敏夫さんから監督を仰せつかって以来、1年以上をかけてひとつひとつの課題をクリアしながら制作したんですよ。それこそ大学受験みたいな気持ちになってね。50年前の名シーンもたくさん盛り込んでいるから、ぜひ中曽根さんにも当時を思い出してもらいたいな。

中曽根 絶対に観に行きます!

中村さんの衣装クレジット
ジーンズ¥18,700/リー(エドウィン・カスタマーサービス TEL0120-008-503)
ニット¥31,900/キャッシュアンドバルバ
靴は中村さんの私物

『五十年目の俺たちの旅』

1975年10月にスタートし、1年にわたって続いた、中村雅俊さん主演の連続ドラマ『俺たちの旅』。その初の映画版として制作された『五十年目の俺たちの旅』では、中村雅俊さんが主演と監督を兼任! 中村さんをはじめとするオリジナルキャストが結集し、脚本は鎌田敏夫さんが担当。1975年版の名シーンもたくさん盛り込まれているから、リアルタイムを知らない人も、ぜひ観てみよう。

TOHOシネマズ日比谷ほかで全国ロードショー中。

©️「五十年目の俺たちの旅」製作委員会

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