2024.7.27.Sat
今日のおじさん語録
「人生は四毛作。/石津謙介」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
18
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

1970年、時代は動いた!
イラストレーター
小林泰彦が〝ヘビアイ〟に
たどり着くまで(中編)

撮影・文/山下英介
SPECIAL THANKS/粕谷誠一郎

カッコよすぎる山小屋暮らしに思わず圧倒されて、本題に入るのが遅くなってしまった小林泰彦さんインタビューの第二弾。まずは小林さんのキャリアについて伺おうと思ったら、これまた凄まじい話の連発。しまいには日本の歴史に名を残す文豪まで登場して・・・!? 読んだらわかる、小林泰彦さんのすごさを知らずして、アイビーとかアメカジを語るべからず!

〝ヘビアイ〟はアイビーの
パロディだった!

それでは、ここからインタビューの本題に入らせていただきます(笑)。若々しいルックスからは到底想像もつきませんが、小林さんは1935年(昭和10年)生まれ。この間インタビュー記事を公開させていただいた石川次郎さんより、さらに歳上なんですよね? もう全く信じられません。

小林泰彦 実をいうと1935年というのは戸籍上の生まれ年で、本当は1934年12月31日生まれなんですよ。年が明けてから届けを出したということで。なので同業者でいうと宇野亜喜良さんが同じ年ですね。和田誠さんはふたつ下かな? そして横尾忠則さんもふたつ下。

粕谷誠一郎 昭和11年はクリエイターの当たり年なんですよ。

小林 実は来年卒寿なんです。なんかやってくださいね(笑)。

ぼくたち取材班をもてなすために、山で摘んだ花を飾ってくれた小林さん。山麓の水で淹れてもらったコーヒーは最高だった!
がんばります(笑)。最近どうやら中国圏がトラッドブームみたいで、穂積和夫さんのアイビーボーイもフィギュアになってバカ売れらしいです。小林さんのイラストも世界的に注目されていますよ。

小林 そうなんですか。昔ぼくは『永遠のトラッド派』(文藝春秋/ネスコ)って本を出版して、復刊の話もあったんだけど、もうトラッドはダメだろうってやめちゃった。今だったら売れるかな(笑)。

小林さんといえば〝ヘビーデューティー(HEAVY-DUTY)〟や〝ヘビーデューティーアイビー〟、略して〝ヘビアイ〟という概念の生みの親ですし、それも含めて大チャンスだと思いますよ!
雑誌『メンズクラブ』、というか小林泰彦さんが1970年代〜80年代前半にかけて徹底的に紹介したスタイル、それが〝ヘビアイ〟。後にその原点として〝ヘビーデューティートラッド〟略して〝ヘビトラ〟も生まれた。
『メンズクラブ』での小林さんの連載をまとめる形で、1977年に出版された単行本『ヘビーデューティーの本』。〝ヘビアイ〟の思想からその典型的なスタイル、必携アイテムに至るまでが掲載。その奥深い内容に驚かされる。現在でも山と渓谷社から文庫版を入手可能。

小林 ぼくが描いた『ヘビーデューティーの本』は婦人画報社から1977年に出版されたんですが、ものすごく売れました。あのおかげで今の家が建ったんですから。

ものすごくっていうのは、だいたいどれくらいなんですか?

小林 初版2万部で、約1万部ずつ増刷をかけて結局8刷までいったんですよ。だから10万部は売れたんじゃないですかねえ?

うわあ、メンズファッションの本で10万部! 夢のような話です。

小林 〝ヘビアイ〟(ヘビーデューティーアイビー)は、アイビーが疲れちゃった時代に生まれたんだよね。VANが倒産する頃で、アイビーの価値観がグラグラしてたときに冗談で。

粕谷 え〜っ、冗談だったんですか(笑)?

小林 そうですよ。ぼく、冗談しか考えてないんで。この服着たときはこれ、このときはこの靴で帽子はこうっていうふうに、アイビーのドレスコードをパロディにしちゃった。仕事ってエンタメだと思っているんで、みんなが笑ってくれればいいかなって。

本当ですか? にわかには信じがたい証言ですね(笑)。

小林 ぼくは学生時代から、明日学校で何をしたらみんなが笑うかなってことばかり考えていたんです。でも結構勉強はできたんだけどね。だから〝ヘビアイ〟のときも、アイビーを転がしたらみんな笑うぜっていう。その頃はアイビーの象徴だった『メンクラ』も困っていたんだけど、ぼくがアイビーのパロディをやりたいと言ったら、西田豊穂編集長も乗ってくれた。12ページくらいもらって特集した『ヘビアイ党宣言』の号(1976年11月号)は、めちゃくちゃ売れました。そういう時代だったんですよね。

1970年を皮切りに
アメリカの文化は大きく変わった

もちろん小林さんは、もともとアイビーファッションがお好きだったんですよね?

小林 そうですね。石津謙介さん時代のアイビーが。

そして山登りもお好きだったんですか?

小林 中学2年生の頃からけっこう生意気な山登りでした。今は坐骨神経痛が痛くてとても山登りはできません。自転車は楽に乗れるんですが、立って歩くのが大変。でも乗鞍岳あたりならほとんど山頂直下までバスで行けるから、3年前に行ってきました。ほぼ3000mの山なのに2800mくらいまで行けちゃう。バス停で降りて100mくらい登ると山頂らしきものがあって、3000m峰へ登った気分になれるんです。ちょうど天気もよくて、雲海も出ていて、もうこれで終わりかなって思いながら見てきました。

粕谷 小林さんの低山シリーズが、里山ブームの走りみたいなものですよね。

小林 あの本(山と渓谷社の『日本百低山』)は「百名山」のパロディというだけで売れちゃって(笑)。そういえば、あれもパロディだな。

小林さんが、長年活躍した雑誌『山と渓谷』のために描いたイラスト。
そういう趣味が高じて、アイビーとアウトドアをくっつけちゃったということですか?

小林 そうなんです。もともとはアメリカ人が山に登るなんて考えられなかったんですが、1970年を境に変わった。ぼくたちはその光景を目の当たりにしているわけです。

1970年、ですか。

小林 まあ、69年頃からその気配はあったんだけど。それまでアメリカの若者はドラッグカルチャーの時代だったでしょ? それが70年を皮切りに、急に荷物を背負って山を歩き始める。不健康なものは全部やめて、外志向になるわけです。突然アメリカのパシフィックトレイルとかアパラチアントレイルといった散歩道をみんなが歩き出したり、山の中に丸太小屋をつくったり、という現象が始まった。ぼくはそれにぶつかったもんだから、日本でアメリカ式をやったら面白いんじゃないかと思ったんですよね。

「もうかなり処分した」というが、小林さんのカントリーハウスは、まさにヘビーデューティーの博物館! 日本、アメリカ、ヨーロッパ・・・。実際に使い込まれた、様々な国のアウトドアギアが飾られ、唯一無二の世界観をつくりだしている。これをそのまま東京で再現したい!
もともと小林さんがアメリカに行かれたのは、何年なんですか?

小林 1967年、『平凡パンチ』のイラストルポ企画が最初ですね。石川次郎ちゃんが言い出して。それまではアメリカ取材なんてとてもできなかった。

粕谷 すでに海外旅行自由化の時代は始まっていましたよね? 確かにドルは360円で高かったけど。

小林 自由化から3年経っていたけど、まだ誰も行けなかったし、行こうとしても外貨が持ち出せないんです。当時はパスポートの後ろに外貨持ち出しのページというのがあって、大蔵省に判を押してもらって、この人は500ドルを持ち出しますと証明してもらったうえで、両替してもらう。それ以上は使わせないんです。だって当時の日本は外貨を持っていなかったから。あとは個人で日本円を10万円持っていけて、どこかで両替して使いなさいっていう感じです。ぼくは正直に500ドルと10万円持って行ったけど、次郎ちゃんは闇ドル買ってたね(笑)。

たとえお金を持っていてもダメだったんですね。

小林 そんな時代に社カメさん(社員カメラマン)も使わずにわけのわかんないイラストレーターが絵を描くなんて企画、みんなにダメ出しされましたよ。でも、今はなき木滑良久編集長だけが行ってこいって。「文句言ってる者もいるけど、私のところで止めておきますから、構わず好きにやってください」って、言ってくれたんです。

先日も石川次郎さんに伺いましたが、やはり偉大な編集長だったんですね。

小林 もともと平凡出版(現マガジンハウス)との仕事は、『デラパン』(『平凡パンチDELUXE』。『平凡パンチ』の臨時増刊)が最初でしたね。のちに社長になった赤木さんという編集者が、メンクラの記事を見付けて声をかけてくれました。最初は4ページでイラストと原稿お願いします、みたいな話だったのが、レイアウト(デザイン)までやらされるようになって、どんどんやることが増えてきた。そのうちにぼくも調子づいて、それじゃあ16ページぼくの好きにやらせてください、ということで、編集まで任されるようになったんです。ボブ・ディランの特集とか、当時でいうとエッジの効いたことをやっていました。ちょっとだけ編集長気分でね。

三宅一生、堀内誠一・・・
異才たちとの交流

レイアウトや編集までやられていたんですか! 『デラパン』はイラストだけに止まらない、自由な表現の舞台だったんですね。

小林 当時はまだ海外にすら行ったことないのに、アフリカとか南米ではこうやって旅をしようとか、いい加減な旅行特集をつくったりしてました(笑)。そんなぼくの与太記事が当時の編集長に気に入られて、付録までつくらせてもらうんです。高田賢三の『サンジェルマン専科』なんて別冊もつくったな。

持ってます、それ!

小林 へぇ〜、そうですか。その後は1968年に次郎ちゃんと一緒にヨーロッパに行って、ケンちゃん(高田賢三さん)の紹介のもとに、当時無名だった三宅一生さんを取材しました。

粕谷 1968年じゃ、まだ高田賢三さんだって無名でしたよね?

小林 まだ全然無名です。その少し前ぼくはアド・センター(広告制作会社)で顧問をしていたんですが、ここが主催する「ファッションラボ」で、のちに有名になるデザイナーの人たちと知り合っていたんです。コシノジュンコ、高田賢三、金子功、荒牧太郎・・・。 今考えるとすごいメンバーですよ。その頃ぼくは金子功さんに自分の服をつくってもらったことがあるんだけど、今考えるとおかしいね(笑)。

ピンクハウスとヘビーデューティー、違和感ありすぎです(笑)。

小林 それで無名だったケンちゃんに「これから有名になるようなデザイナーいないかな?」って聞いたら、出てきた名前が三宅一生さんでした。彼は当時ジバンシィのお店で働いていたけど、本当にフランス人かと思うようなカッコいい人だった。

小林さんと石川次郎さんがともにつくり上げた連載『イラスト・ルポ』をまとめた書籍『イラスト・ルポの時代』。現在はヤマケイ文庫などで入手が可能だ。
『イラスト・ルポ』の本にも、一生さんのイラストが載っていますね。

小林 そうそう、もともと彼のブランドのロゴは、『anan』や『POPEYE』で知られるアートディレクターの堀内誠一さんがデザインしたんですよ。実は『anan』か何かの企画で堀内さんが描いたものを、一生さんが気に入って使わせてもらったという。

知りませんでした。小林さん、まさに時代の生き字引ですね。

小林 堀内誠一さんこそ、あの当時の文化の中心にいた人です。普通なら3時間くらいかかる仕事も、立ったまま仕事して30分くらいで仕上げちゃう天才だから。雑誌を人間の形にすると、堀内さんになる。雑誌の権化、もしくは神様ですよ。もう二度とあんな人、出てこないと思います。

粕谷 だってあの人、14歳で伊勢丹のウィンドウディスプレイをデザインしていたんですよね?

小林 早くから伊勢丹のデザイン室に入って、誰の助手をやるでもなく、自分の仕事をやってしまう天才です。彼はぼくより少し年上で1932年生まれだけど、この世代はダダイズム、モダノロジーに代表される戦前のモダン文化をギリギリ享受しているんですよね。堀内さんは、大正の終わりか昭和初期の匂いがしますよ。

小林さんの恩人は
江戸川乱歩だった!

うーん、もはや歴史の話になってきました(笑)。1934年生まれの小林さんには、戦前の感覚ってあるんですか?

小林 ギリギリですね。自分が体験したことや、うちのまわりで起きたことは覚えていますよ。ぼくの地元は東京の柳橋だから、花柳界のど真ん中。まわりは全部料亭と待合、そして芸妓の置屋でした。同級生の女の子は〝仕込みっ子〟って言って、これからお酌で出る子。そして男の子はみんなフニャッと軟弱だった。

戦中とはいえ、まだそういう華やかな世界が残っていたんですね。

小林 敗戦ギリギリまで、花柳界だけは元気でしたよ。だって軍人や役人が来るから。若者たちが特攻隊で出撃しているっていうのに、自分たちだけは「待合で戦略を練る」なんて言い訳をして、料亭で遊んでいるんだよな。だから街には何もなかったけど、そこだけには酒もタバコも食い物も全部ありました。

ということは小林さんも置屋の子供だったんですか?

小林 うちは江戸時代から東京の下町ではけっこう有名な和菓子屋でした。ぼくと兄貴が潰しちゃったんだけど。

知らない読者も多そうなのでいちおう説明しておきますが、小林さんのお兄さんは、作家の小林信彦さんなんですよね。兄弟でこういうお仕事をされているっていうのも、面白いことですね。

小林 教育というか暗示というか。

粕谷 小林さんがイラストレーターの仕事に就いたきっかけは、お兄さんが編集長を務めていた〝ヒッチコック雑誌〟(※ミステリー小説雑誌『ヒッチコックマガジン』のこと)に引き込まれたからなんですよね? だとするとお兄さんはどうやってこの雑誌を始めたんですか?

小林 うちは親父が早くに死んじゃって、和菓子屋も復活できずにすごく貧乏してました。兄は学生時代から文学をやっていたんですが、食うためにミステリー小説を書いて応募したら、江戸川乱歩先生に認められて、雑用をしていたんですよ。審査員を務めていた賞の下読みも任せられていて、「いい作品だけ俺に渡せ」なんて言われていたみたい。その縁で1959年に『ヒッチコックマガジン』を江戸川乱歩先生に任されたんだけど、兄貴はまだ27歳でしょう。ひとりで雑誌をつくるのが不安になって、ぼくに相談してきたんです。ぼくは高校生の頃から、美術学校に行く費用を稼ぐために印刷所でアルバイトをしていたもんだから、やれるだろって。といってもマッチのラベルや新聞のチラシをやった程度の知識だったんだけど、そんなレベルのふたりがちゃんとした雑誌をつくっちゃったんだから、すごいよね。

つ、ついに江戸川乱歩が出てきた(笑)。ぼくたちにとっては歴史上の人物ですよ!

小林 ぼくらにとっても雲の上の人だったけど、ともかく池袋にあった江戸川乱歩先生のご自宅に通いましたよ。『ヒッチコックマガジン』は全部先生がチェックしていたから。実は先生はすごくグラフィックがわかる人で、絵も描けるんです。そのうちぼくも遠慮がなくなって、「先生うまいですね。ここに先生の絵も載せちゃいましょうよ」なんてすごいことを言ってました(笑)。

意外にもほのぼのとしたエピソードですね(笑)。

小林 いや、蔵の中でロウソクの灯りで書いているなんて噂もありましたが、本当は普通の人なんですよ。山の上ホテルがお好きで、ぼくもよく1階の天ぷらをご馳走になりました。でも、ホテルの部屋に招かれると、望遠鏡でよその家やビルの中を覗いていらっしゃるんですよ! まさに『二銭銅貨』の世界で、やっぱりお好きなんだけど、全然隠さないんだよね。

それは江戸川乱歩らしい話ですけど、猟奇的というよりむしろ明るい世界なんですね。

小林 美少年もお好きで、応接室に入ると村山槐多(むらやまかいた)が描いた少年の絵が飾られていました。あとは裸の黒人少年の大理石像もあったな。『ヒッチコックマガジン』では、江戸川乱歩先生のおかげで、さまざまな表現を試させていただきました。ぼくのイラストにおけるすべてのタッチは、あそこで生まれたんです。

粕谷 小林さんはイラストも描くけど文章も書ける。しかもレイアウトもできちゃうんだからすごいですよ。ノーマン・ロックウェルもそうだったらしいけど、日本でそれができるのは小林さんだけだって、堀内誠一さんが仰っていましたよ。

小林 いや、堀内さんこそそれができた人ですよ。

じゃあ、完パケでページをつくれちゃうわけですね! 

小林 ぼくはタイトルづくりからレイアウトまで、全部やらされました。

その技術はアルバイト先の印刷会社で学ばれたんですか?

小林 そうです。活字拾いから全部やりましたから。あれ、結構難しいんだ。

活字拾い、見学したことあります。膨大な活字が収められた棚から一文字ずつ拾っていく、非常に根気のいる作業ですね。

小林 そこは共産党系の印刷屋だったんだけど、選挙の候補者が広告の裏なんかに書いた汚い原稿だけ渡して、「本にしろ」って言ってくるんです。そんなことばかりやってたから、レイアウトなんて簡単にできちゃうんですよ。当時は同業者だって、活版とオフセットの違いもわかっていなかったけど、ぼくは知ってたから、イラストもそれに合わせて描き分けできたんです。

伊丹十三さんを彷彿させるマルチぶり! 生きるためのエネルギーというか、情熱がほとばしっていますね。

小林 あの頃はぼくみたいなの、珍しくなかったですよ。全部面白がってやっていたし。確かに貧乏だったけど、これから全部よくなると思っていたし、自分はなんでもできるって、信じていました。実は歌舞伎や文楽、新派、新国劇なんかまで全部観ていた頃もあって、演劇評論家になろうと思っていた時代もありました。仕事で観るのはつまんないと思ってやめましたけど。

「たくさん」じゃなくて「全部」なんですね(笑)・・・。やっぱりエネルギーが半端じゃない。

小林さんのすごいお話はまだまだ続く。というか後編からが本番だ!

小林泰彦

1934年東京都日本橋区米澤町生まれ。武蔵野美術学校中退。1959年に『ヒッチコックマガジン』でアートディレクター兼イラストレーターデビュー。以来『男の服飾』(現『MEN’S CLUB』)、『平凡パンチ』『POPEYE』『山と渓谷』などの雑誌で、イラストや原稿の執筆、グラフィックデザイン、写真撮影など幅広く活躍する。著書多数。兄は小説家の小林信彦。

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