2024.5.21.Tue
今日のおじさん語録
「人生で大事なものはたったひとつ。心です。/高倉健」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
14
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

世界でいちばん
ハッピーなおじさん!
井上順を導いてくれた
「六本木野獣会」と
素敵な大人たち(前編)

撮影・文/山下英介
撮影協力/SWING

芸歴なんと60年。日本が誇るエンターテイナー、井上順さんが「ぼくのおじさん」に登場してくれた! 〝芸能界の大御所〟というイメージを裏切る軽やかなダンディズムと、若々しさ、そしてピュアな生き方に感動しっぱなしのインタビュー。筆者とひとりの人間として向き合ってくれた井上順さんに、心からの感謝を捧げたい。できることならこんなおじさんになりたいし、みんなにもその素敵さを知ってもらいたいんだ!

ぼくを導いてくれた
六本木野獣会のメンバーたち

今回の取材は井上さんのホームタウンである渋谷のJAZZ喫茶、「SWING」で行われた。実は店主の鈴木興さんも井上さんの大ファン! このお店には、井上さんと親交の深い往年スターも訪れるという。
初めまして! 今回は芸能界のレジェンドである井上順さんにとっての、〝ぼくのおじさん〟的存在を教えてもらいたいと思います!

井上順 こちらこそ、今日はよろしくお願いします。山下さん、「六本木野獣会」っていうグループは知ってますか?

もちろん。様々な本やノンフィクションに登場する、伝説的存在です。その話はぜひ伺いたいと思っていました。

井上 ぼくが子供の頃の六本木って、今とは全く景色が違っていたんですよ。まだ高速道路もなかったし、米軍のキャンプがあって、まるでアメリカのような街だった。そんな六本木を拠点にしたグループが「野獣会」だったんですが、もともとは13歳のときに母親に紹介されて遊びに行かせてもらったんですよ。

なんと13歳で! 井上さん、早熟ですね(笑)。

井上 メンバーはぼくより歳上の方ばかりでした。みんなギターやベースなどの楽器を弾いていたんですが、ぼくが「野獣会」を一目で好きになってしまったのは、彼らが〝洋物〟をやっていたから。もともとぼくの両親はアメリカ映画が大好きで、ぼくも劇場に連れて行ってもらっては、向こうのパフォーマンスを身振り手振りで真似してたんですよ。母親もそういうぼくの姿を見ていたから、「野獣会」が集う場所にも連れて行ってくれたんじゃないかなあ。

のちのエンターテイナーの素質を、すでに感じ取っていたんでしょうね。

井上 「野獣会」にはのちに先輩役者になる峰岸徹さんがいらっしゃって、ぼくのことをすごく可愛がってくれたんです。それで「向こうの映画とか音楽が好きなんだったら、順も歌の稽古でもしてみようか」みたいな感じで、ぼくを導いてくださった。峰岸さんがいなかったら、ぼくは普通に中学校に通って、部活でもやってたんだろうな。

峰岸徹さんも「野獣会」のメンバーだったんですか! でも、話を伺っていると「野獣会」という名前の響きからくるイメージとは、なんだか雰囲気が違いますね。

井上 「野獣会」というのは、要するに夢をもった若い人たちの集まりっていうのかな。映画やファッションの世界に進みたい人もいれば、ジャーナリストになりたい人もいる。だからプロではないんだけど、みんなものすごく熱心に練習していましたね。ぼくは峰岸さんに紹介してもらった音楽学院に通いながら、ステージにも出させてもらいました。

すごい! 中学生でいきなりライブハウスのステージに立ったんですか?

井上 当時はジャズ喫茶が、今でいうところのライブハウス的存在でした。銀座と新宿のACB(アシベ)、池袋のドラム、上野と銀座のテネシー、銀座の美松・・・あと浅草にもありましたが、そういうところで歌わせてもらいました。当時のぼくはプロになりたいなんて気持ちは全くなかったけど、皆さんと交わったり、峰岸さんに褒めてもらえるのが嬉しくて、次の曲も覚えようかな、なんて感覚でした。ぼくはそういう空気の中で育っていったのかな。「野獣会」のリーダーは秋本マサミさんという方だったんですが、彼女をバックアップしていたのが、渡辺プロダクションをつくった渡邊美佐さんでした。そういう素晴らしい方々の応援があって、「野獣会」から歌手や俳優がデビューできたんですよ。

「野獣会」なんて名前だから、ものすごい不良の集まりなんじゃないかと、すっかり勘違いしてました(笑)。

井上 まあインパクトの強い名前のほうがマスメディアも動いてくれるかな、っていう考えもあったかもしれませんね。当時渡辺プロは新橋にあった飛行館ビルで歌や芝居の稽古をやっていたんですが、ぼくもそこに参加させてもらっていました。そこでは中尾ミエさん、梓みちよさん、伊藤ゆかりさん、木の実ナナさんといった方々も稽古されていましたよ。

のちの大スターたちが、そこから生まれたわけですね。

井上 だからぼくにとってみると、野獣会って学校だったのかな? ぼくは昼間に通う学校も大好きだったんですけど、それが終わったあとにまた楽しい世界が待っている。ふたつの楽しい学校を毎日掛け持ちできるという、とても贅沢な毎日を過ごしていたんですよね。

それは素敵な日々だったんですね。でも13歳でそういう場所に出入りできるなんて、やっぱり地元では評判の美少年だったのでは?

井上 いやぁ山下さん、そんなことはありませんよ。あの頃はただ夢中になっていただけですが、自分が日々進化していくことを感じていたのかな。お芝居だったら、今まで棒立ちだったのが少しずつ体が動き始めたり、歌だったら今まで出なかった声がどんどん出るようになる。そうやって心とからだが活性化していくのが、楽しかったんでしょうね。だからぼくを誘ってくださった方々に、とても感謝しているんです。

いきなり素晴らしいお話をありがとうございます! 当時井上さんが憧れていたミュージシャンや俳優はどんな人たちだったんですか?

井上 『シャレード』とか『北北西に進路を取れ』などに出ているケーリー・グラントってご存知ですか? こういうお洒落な大人になりたいなって、いつも思っていました。カジュアルでもスーツでもタキシードでも、常に装いにソフトな人柄が滲み出ているというか。あとはよくギャング映画に出ていたジョージ・ラフト。この人がトレンチコートにソフト帽を合わせている姿が格好よくてね。そういう俳優さんたちが、ぼくにファッションの世界を教えてくれました。ぼくは「マルキース」っていうテーラーで洋服を仕立てているんですが、こちらのオーナーである佐々木康雄さんとは50年以上にわたる付き合いで、お店に行くとそういう写真集がたくさんあるんですよ。それを見ながら「今度こういうのをつくってみたいな」なんて楽しんでます。

東京・青山にある知る人ぞ知る名門テーラー「マルキース」。実は店主の佐々木康雄さんももともと「野獣会」のメンバーで、1960年代初頭は気鋭のデザイナーとして活躍、その後自身のテーラーを設立した。井上さんが着ているスーツやジャケットは、ほとんどこちらのものだ。
噂には聞いていましたが、井上さんは伝説のテーラー「マルキース」でお洋服を仕立てられているんですね!

井上 そうなんです。高倉健さん、長嶋茂雄さん、布施明さん、そして女性なら加賀まりこさん・・・といった方々の洋服も仕立てておられました。実は「マルキース」のお客さんの第一号は、フォトグラファーの立木義浩さんなんですよ。「ぼくのおじさん」のインタビューにも出ていましたよね! それ聞いて嬉しいなあって。

立木さんも「マルキース」でスーツを仕立てていたんですね!

井上 ぼく、「スパイダース」に加入した頃はしょっちゅう立木さんの家に入り浸っていてね。居心地がいいもんだから招かれてもいないのに(笑)お邪魔して、奥様や弟さん(フォトグラファーの立木三朗さん)とも、賑やかに過ごしていました。いつもはタッちゃんなんて呼ばせてもらってますけど。

本当に格好いい方ですよね。

井上 立木さんは、ぼくがどちらに向かおうか迷ったときは、いつも「順、焦るな」と言ってくれました。「ちょいと待て」「一歩待て」ともね。今でも忘れられません。立木さんはすごい写真家ですが、ぽっと出ではないじゃないですか。やっぱりいろんな苦労をされてきて、何万人もの表情を撮ってきた方だから、人の顔を見るだけで何かを見抜くことができる。それを自分から口に出す方ではないんですが、ぼくが何かを相談したときには、ふっと腑に落ちるアドバイスをくれるんです。ぼくにとって立木さんは、そういう存在だったんですよ。

努力と才能を兼ね備えた
「ザ・スパイダース」のメンバー

井上さんは「新しい仕事のときは、何か1点新しいものを身に着ける」と語っていた。そして「今日もそうしてますよ」とも・・・! なんて素敵な方なんだろう!
その雰囲気はわかります。人の心を読める方なんですよね。

井上 ですから、ぼくもこの歳まで何やってきたんだって話だけど、定まらない人間っていうのかな(笑)。でも結果的に今のぼくを育ててくれたのは、こうしたたくさんの出会いであって、若い頃なら峰岸徹さんであり、立木義浩さんだったんですよね。それともうひとり、ザ・スパイダースの田邊昭知(たなべしょうち)さんも欠かせません。芸能界もそれなりに厳しい世界だと思うんですが、その中でぼくを叱咤激励しながら、うまく導いてくれたのが田邊さんでした。

現在、田辺エージェンシーの社長をされている田邊さんですね! やっぱり昔のバンドの世界は厳しかったんですか?

井上 厳しいということは、嘘をつくなってことですよね。人間はいつも100%の力を発揮できるわけではないから、正直に一生懸命やっていれば、田邊さんはミスしたって怒らないんですよ。過程を見てくれる人なんです。もちろん、怠けてたらそりゃ怖いですよ(笑)。「お前のやっていることは、われわれ7人のことでもあるんだよ」って。個人も大事だけれど、みんながなじみながら、ひとつの目的に向かうことの大切さを、ぼくは田邊さんに教わりました。

とても筋が通った方なんですね。

井上 山下さんの時代はどうかわからないけど、ぼくらの時代は、ものすごく上下関係が厳しかったんです。新人が一歩外に出たら、すぐにいじめられちゃう。でもぼくは一切そういうことをされなかった。それは田邊さんとかまやつひろしさんが壁になってくれたからですよ。ふたりはロカビリーの時代から活躍されてきたから、大先輩方にとっての仲間だったわけです。だからいじめられるどころか「おう、オマエ昭ちゃんとこか。食べるかコレ?」みたいな感じで(笑)。

田邊さんとかまやつさんは1950年代から米軍キャンプで演奏してきたような、レジェンドですもんね!

井上 山下さん、かまやつさんに会ったことある? 

はい、何度も取材で。ものすごく格好いい方でした。

井上 それは嬉しいな〜。田邊さんとかまやつさんは同じ時代を生き抜いたポン友ですから。1950年代後半〜1960年代初頭にかけて、日本のポップミュージック業界の主流って、ジャズ喫茶だったんですよ。テレビに出ている人なんて、坂本九さんや「ダニー飯田とパラダイスキング」さん、あとジェリー藤尾さんくらいのもので。田邊さんはその状況に危機感を覚えて「このままジャズ喫茶で演奏してたら俺たち終わっちゃうよ」と、かまやつさんと一生懸命策を練ったわけです。

世間的なメインストリームではなかったわけですね。

井上 まだ歌謡曲の時代で、ポップミュージックは全国区ではなかったです。「田邊昭知とザ・スパイダース」(井上さんが加入する前の、ザ・スパイダースの前身バンド)がジャズ喫茶で演奏するときなんて、セロニアス・モンクとかアート・ブレイキーみたいな本物のジャズをやるんですが、失礼ながらこれがヘタなんですよ(笑)。ぼくにはもうさっぱりわかんなかった。それはさておき、ジャズ喫茶ではあまり広がりがなかったんでしょうね。

ロック以前の音楽業界はそういう状況だったんですね。

井上 でも、かまやつさんと田邊さんの友人に、レーサーとして活躍していた福澤幸雄(ふくざわさちお)さんや生沢徹(いくざわてつ)さんがいたのが大きかった。世界中を飛び回っていた彼らは、「ザ・ビートルズ」や「ザ・ローリング・ストーンズ」といったバンドの情報を持っていて、そのレコードもいち早く手に入れていたんです。

そのお二方はファッション業界でも伝説の洒落者ですね! 彼らのおかげで、「ザ・スパイダース」は当時最先端の音楽だった、ブリティッシュビートにアクセスすることができたという。

井上 そうなんです。これでいこうと。従来、ぼくらのようなバンドがジャズ喫茶で演奏するときって、かまやつさんがゲストに来て2、3曲歌ってさよなら、堺正章さんがゲストに来て2、3曲歌ってさよなら、みたいなスタイルだったんですが、これもやめて、みんなで歌うことになりました。それで堺正章さんや井上堯之(いのうえたかゆき)さん、大野克夫さん、カッペちゃんこと加藤充さんといった、ほかで活躍していたメンバーを誘って、新しい「ザ・スパイダース」が生まれたわけです。

井上さんは、最年少メンバーとして一番最後(1963年)に加入したんですよね?

井上 「野獣会」のバンドにいたぼくを、田邊さんが見てくれて、声をかけてくださったんです。仲間たちに相談したら、快く送り出してくれました。

それでついにプロになったという。

井上 でもね、山下さん。ぼく、プロ根性ないんですよ(笑)。井上堯之さんなんて加入してからギターを始めたから、猛練習してね。爪じゃなくて指にマニキュア塗るなんて面白いな?なんて思ったら全部血豆だった。それが潰れてもひたすら練習して、あれほどのギタリストになったんです。大野さんはギターはもちろんピアノ、オルガンなんでも弾けるし、カッペちゃんも大変な思いをして、ウッドベースからエレキベースに転向しました。ぼくも教えてもらおうかなと思ったけど、あまりにレベルが違いすぎてすぐやめちゃった。あの人たちがもうちょっとヘタだったら、ぼくもやる気になったんですけど(笑)。

ギタリストの井上堯之さんは『傷だらけの天使』などの音楽を手掛け、日本アカデミー賞最優秀音楽賞にも輝きました。ピアノやキーボードの大野克夫さんは沢田研二さんの名曲『勝手にしやがれ』をはじめ、『太陽にほえろ』や『名探偵コナン』シリーズでも知られる名作曲家です。「ザ・スパイダース」はものすごいメンバーぞろいだったんですね!

井上 音楽的にいうと、一曲一曲に魅せ場をつくったところがポイントですよね。ぼくたち、時間があるとしょっちゅう米軍キャンプでやっていたライブに、踊りに行ってたんです。そこから受けた影響から『バン・バン・バン』のサーフィン風の振り付けも生まれてきました。あとは洋楽のカバーじゃなくて、オリジナル曲を始めたのも早かったですね。

当時のバンドはカバーが多かったんですか?

井上 当時グループサウンズと言われたバンドで、オリジナルをやっているところはなかったですね。だいたいプレスリーとかニール・セダカ、ポール・アンカあたりをカバーするんです。でも、田邊さんはいち早く、オリジナル曲をかまやつさんにつくらせた。おかげでデビューした頃には、「ザ・スパイダース」にはすでに数十曲のストックがありました。その反響の大きさから、どのバンドも、こぞってオリジナルをやり始めたんです。でも、売れたのは「ブルー・コメッツ」のほうが早かったですけど(笑)。

日本の音楽シーンにも、そういう時代があったんですね。

井上 まあどっちが早いかはさておき、自分たちの世界観をいち早く築き上げたかまやつさんの功績は拍手ものですよ。彼は月曜日はこの色、火曜日はこの色、といった具合に、変幻自在というか七色の世界をつくれるミュージシャンでした。お父様が有名なジャズミュージシャン(ティーブ釜萢さん)だったという血筋もさることながら、本人の努力も大きいですよね。加えてもちろん、話術なら日本一の堺正章さんもいたわけです。だから「ザ・スパイダース」というグループは、ひとりひとりがすごい力持ちだったんですよ。

筆者はムッシュかまやつさんのファンでもあり、何度も取材させてもらっていた。彼が名曲『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』で歌った「よれよれのトレンチコート」を撮らせてもらったこの写真は、編集者人生でも思い入れの深いワンショットだ。撮影/川田有二
私もかまやつさんの大ファンです! でも、そんなすごいバンドに欠かせない存在が、エンターテイナーの井上順さんですよ。

井上 いやあ、田邊さんや皆さんに出会わなかったら、ぼくは「ザ・スパイダース」にも入っていないし、ここにだっていないわけです。実は田邊さんもぼくと同じ渋谷の出身で、後で知ったんですが、なんと妹さんはぼくの中学校時代の同級生だったんですよ! 本当に不思議なご縁ですよね。もう感謝しかありません。

素敵な大人たちが集まった
1960年代の六本木

しかし、先ほどお話に出てきた福澤幸雄さんもそうですが、本当に井上さんのまわりには素敵で格好いい方々がたくさんいますよね。

井上 福澤幸雄さんには、ぼくも弟分としてよくご飯に連れて行っていただきました。当時の福澤さんは、日本のファッションモデルの先駆けでもあった松田和子さんという方とお付き合いされていました。ぼくが初めて「野獣会」に入ったとき、峰岸さんに連れて行かれたレストランに、こういう方々がいたわけですよ。そこには加賀まりこさんもいらっしゃいました。

それは飯倉にある伝説的なレストラン、キャンティですか?

井上 いや、キャンティがオープン(1960年)する前でしたね。もちろん、キャンティにもよく行きましたよ。あそこは川添さんファミリーが経営されていたんですが、タンタンと呼ばれるマダムの川添梶子さんが、またファッショナブルでね。日本におけるイタリアンレストランの先駆けですから、もちろんご飯もおいしいしサービスも完璧なんですが、外国から来た方や著名人が集まって話に花を咲かせる、文化が生まれていた場所でもありました。ちょっと抜けてましたね、あの場所は。

そういう場所に十代から出入りしていた井上さんは、やっぱり早熟だなあ(笑)。

井上 いやあ、そんなふうには思いませんでしたよ。堺さんだって、ひとつ上なだけだから。たぶん田邊さんやかまやつさんがいてくれたから、ぼくもしょっちゅう行けたんでしょうね。

当時の六本木は「六本木租界」なんて呼ばれていたらしいですし、なかなか普通の人は入りにくかったようにも思えますが。

井上 うーん、山下さんがどう感じるかはわからないけど、意外と普通なんですよ。よくある〝一見さんお断り〟のレストランだって、実際に入ってみると普通だったりするでしょう? だからぼく、気後れしたことはなかったです。

でも、お高いんですよね(笑)?

井上 当時、ビルの7階にあった事務所で「ザ・スパイダース」のお給料をもらっていたんですが、給料袋にはほぼ明細しか入っていないの。袋を7階の窓からポイってやると、舞い上がっていつまでたっても落ちてこないんです(笑)。まあそんな時代だったんですが、キャンティに行けば田邊さんのサインでご飯が食べられたので。あの頃はマンションも飯倉にあったから、いつもキャンティに行っては、立木さんご夫妻や石坂浩二さん、加賀まりこさんといった方々と、ワイワイやっていました。それがぼくの20代前半までの思い出です。ずいぶん六本木も変わっちゃいましたね。

後編はこちら!

グッモー!

2021年に出版された井上順さんの人生初エッセー集『グッモー!』。生い立ちから現在、そして井上さんが愛するホームタウン、渋谷のおすすめスポットまでが、楽しく綴られている。ぜひ読んでいただきたい! ¥1,980(PARCO出版)

井上順

1947年渋谷生まれ。1963年、16歳で「ザ・スパイダース」に加入。グループサウンズ(GS)ブームの立役者として活躍する。1970年の解散後はマルチに活躍。歌手としては『お世話になりました』『なんとなくなんとなく』、司会としては『夜のヒットスタジオ』、俳優としては三谷幸喜さんや石井ふく子さんの作品に多数出演するなど、60年にわたって芸能界の第一線で活躍する。話題のTwitterアカウントは@juninoue20

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