2022.10.4.Tue
今日のおじさん語録
「役者というのは、行をする者、自分というものをよく考え、見極める者のことやと思う。(藤山寛美)」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
3
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

編集者〈鈴木正文〉の
革命、雑誌、トム・ブラウン

写真・構成/山下英介
撮影協力/ル・クロ・モンマルトル

その圧倒的な知性と個性的なスタイルで、ファッション業界を代表する名物編集長として有名な、鈴木正文さん。『サンジャポ』の鈴木さんしか知らない若い人は知らないだろうが、彼は学生運動におけるリーダーのひとりとして、かつての、あの「東大安田講堂事件」にも深く関わっていた、筋金入りの闘士! 鈴木さんはあの頃、どんなことを考えていたのか? そしてぼくたちは今という時代の社会やファッションを、どう捉えればよいのか? 『GQ JAPAN』編集長を退任されたばかりの彼のもとに、伺ってみた。みっちり約3時間のインタビュー、正直いってすっごく長い!が、じっくり読んでほしい!

アイビーボーイは
いかにして覚醒したのか?

鈴木さんはぼくがこの仕事を始めた20年前からこのスタイルで、雑誌業界を代表するインテリとして周囲から尊敬されていたわけですが、当然何者でもない時代もあったわけですよね? 鈴木さんにとっての、〝ぼくのおじさん〟って、誰だったんですか?

鈴木 〝ぼくのおじさん〟といえば、フロイトのエディプス・コンプレックス説が、ちょっと頭に浮かびますね。エディプス・コンプレックス、どうおもいます?

一応は知っていますが、詳しくは。

鈴木 フロイトによれば、なんですが、男の子は性的に目覚めるころ、男根期っていいますが、そのころになると、母親に性欲を抱くけれど、その前に立ちはだかるのが父親なので、母親への性欲を抑圧せざるをえない。ということで父親コンプレックス(エディプス・コンプレックス)が形成されるというんですね。で、そのころに、母親の男兄弟がいたりすると、「お父さんみたいな男になりたい」という父親への同一化願望がエディプス・コンプレックスによって抑圧されているために、禁忌となった父親の代わりに、母親の兄とか弟、つまり「ぼくのおじさん」に同一化願望が向けられる、というのが、フロイトの説を踏まえての僕の仮説です。

 ジャック・タチの映画『ぼくの伯父さん』でいえば、ジェラール少年にとっての母の兄のユロ伯父さん、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズであれば、寅さんの妹・さくらの息子の満男にとっての寅さんが、「ぼくのおじさん」として、自分が成長する上での目標になる、という見立てです。なぜか、親父の兄弟(叔父)じゃダメなんですね。そこに父親の影を見るからでしょうか。ところで、僕じしんの場合は、僕が物心つくまえに父母が離婚したので、母方の男兄弟を知らず、伯父さん不在だったのですが、山下さんはどうですか? 母親のきょうだいのほうが好きだったんじゃない? 

伯父さんじゃないですが、確かにそういう存在の伯母がいました。伊丹十三さんが雑誌『MON ONCLE』で説いた〝ぼくのおじさん〟論も、まさにそういった認識に基づいていますね。鈴木さんの場合は「ぼくのおじさん」はいらっしゃらなかったということですが、「おじさん」の代わりになったような一種のアイドルはいたんでしょうか? 昔はアイビーボーイだったということはなんとなく聞いているんですが。

鈴木 1964年、昭和39年は、最初の東京オリンピックがあった年ですが、そのころ、銀座の「みゆき通り」にたむろするアイビー非行少年たちがいて、かれらは〝みゆき族〟と呼ばれていました。石津謙介さんやくろすとしゆきさんが教祖のようだった雑誌『メンズ・クラブ』が紹介していたアイビー・ルックがかれらのお手本です。そのとき、僕は15歳、高校1年生で、いちばん年下の“みゆき族”の一員でした。いろんな事情があって僕はふてくされて生きていて、学校はさぼるし、教科書代は遊びに使ったり、それでボタンダウンシャツを買ったりとかしていたからそもそも教科書も買ってないし、もちろん勉強なんかしないし、本も読まない。しょうもないガキでした。

じゃあ、思想や読書に触れたのは、大学に入ってからですか?

鈴木 そのころ通っていた中高一貫校から、非行がたたって放校されたんですね。高1の夏休み明けぐらいだったかな。で、高校中退。学校がなくなったものだから、その年の秋冬なんかは、毎日、銀座にいって、同い年ぐらいの仲間とつるんでいました。ファッションはアイビー小僧ですから、初秋ぐらいまではバミューダ・パンツに、オクスフォードの半袖ボタンダウン・シャツ、そこに黒のシルクのニット・タイをぶらさげて、真夏はシアサッカーのジャケット、それ以外の季節はネイビー・ブレザーというルックですね。足元はスニーカーかスリップオン。バミューダのときは、膝下までのロング・ソックスを穿いていましたから、ほとんどトム・ブラウンです。

いまの格好と近いじゃないですか(笑)!

鈴木 はい。で、翌年の4月から2つめの高校に、高校教師だった親父の紹介で入れてもらいました。でも、そのころになると、銀座で会っていた非行少年仲間のほとんどが銀座から姿を消していたんです。というのも、僕より上手の非行少年たちは2度目、3度目の高校も放校になって、家からも追い出されて、銀座で遊ぶどころではなくなり、働くようになっていたからです。ということで、銀座に行っても楽しくない。そんな気分のときに、新しい高校で、尊敬すべき同級生に出会ったんですね。その高校は、芸能人が多く通うことですっかり有名になった東京・中野のH高校だったんですが、そこで、Yくんと友だちになったことが大きかった。

あの有名なH高校だったんですね! 

鈴木 はい。ですが、ジャニーズ方向ではなく、Yくんに感化されて、僕は「文芸部」に入ることになるのです。Yくんのお父さんは選挙区が福島の社会党左派の国会議員でした。それでYくんは、郷里の福島から、お父さんが住んでいる東京の議員宿舎に移ってきてH高校に入学した。文学少年で、「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとにみえしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思ひけり」なんて詩を僕のまえで暗唱して、「知ってる?」とか訊いてくるんですよ。島崎藤村の「初恋」という有名な詩の導入部なんですが、こっちは知らないから、調べる、そして本を買って読む、ということになる。そうなると、じゃあ藤村の『破戒』を読んで、となり、ならば(森)鴎外も(夏目)漱石も(田山)花袋も、(坪内)逍遥も、芥川(龍之介)や志賀(直也)、有島(武郎)、太宰(治)も、と、どんどん読んでいく。そして、そういう本についてYくんとあれこれ話すことが楽しくなってくる。もう、銀座なんかどうでもよくなってきたんですね。

 もちろん、外国文学も読みました。両親の離婚後、母親のほうに引き取られた10歳上の兄が、弟の素行の悪さをどこかで耳にしたのか、あるとき、突然やってきて、ロマン・ロランの長編の『ジャン・クリストフ』(全4冊)を置いていったので、それも読んで大感激したことを覚えてます。じぶんもじぶんの『ジャン・クリストフ』を書くぞ、という野心をいだいて、俄然、勉強する気になった。それが2つめの高校での2年生の頃でした。

なるほど、そこで鈴木さんの教養が養われたのか・・・。その後、大学は慶應に通われたんですよね?

鈴木 はい。文学好きになって、『ジャン・クリストフ』もきっかけになり、フランス文学をやりたいとかんがえたんですね。なかでも、ジャン=ポール・サルトルの、実存主義的な文学や評論に惹かれた。で、サルトルの訳者をしらべると、ほとんどが慶應の仏文科の教師なんですね。ということで、慶應の仏文に行く、という一択で、高2の終わりごろから受験勉強をはじめました。さいわい、駿台や代々木ゼミなどの予備校での模擬試験の成績はものすごくよかったので、受験は楽勝でした。とくに英語の勉強は好きで、旺文社の『英文標準問題精講』という参考書がお気に入りでした。というのも、ハクスレ―とかエリオットとかモームとかの、たくみな文が出題文になっていて、それを読めるのが楽しかった。で、慶應に入ったら、1年くらいでフランス語をマスターして、パリに行ってサルトルに会おうと思っていたんですよ。本気で。

新左翼のリーダー的存在に!
鈴木さんの〝闘争の季節〟

でも大学では、学生運動に参加されるんですよね?

鈴木 僕が高3のときに、山崎博昭くんという京都大学の学生が、ベトナム戦争反対デモで羽田に行って機動隊と衝突しているさなかに亡くなったんです。死因は機動隊車両に轢かれての轢死である、と推定されているのですが、警察は、山崎くんを轢いたのは警備車両を乗っ取ってそれを暴走させた学生だといい、その学生を逮捕したのです。しかし、かれは起訴されませんでした。だから、誰がその車両を運転していたかはわからないのです。

仲間の学生が逮捕されたんですか? しかも不起訴とは、不可解ですね。

鈴木 いずれにせよ、デモの最中に、山崎くんが望まない死を死んだという意味では、かれは「殺された」というのが僕および当時のデモ学生たちの解釈でした。1967年10月21日のことです。その日は「国際反戦デー」で、山崎くんのことは、もちろんまったく知りもしなかったのですが、その日、かれは「反代々木(=反日共)系全学連」のデモ隊の一員だった。当時は、アメリカによる北ベトナムへの空爆や南ベトナムでの地上戦などが激烈をきわめていました。で、反代々木系全学連の学生が中心になって、日本がアメリカの肩をもってベトナム侵略の戦争に加担することに抗議する街頭デモ闘争を展開していた。僕が愛読していたサルトルも、フランスで同じ日にベトナム反戦運動のデモを行っていました。

フランス人のサルトルも、ベトナム反戦のデモに参加していたんですね!

鈴木 ベトナムはフランスの植民地でもあったわけですし、浅からぬ縁があった。そのサルトルは、「マルクス主義はのりこえ不能の哲学である」と言ってましたから、山崎くんの「虐殺」という事件をきっかけに、マルクスも本格的に読むようになりました。そして、翌1968(昭和43)年に慶應大学に入るなり早々に、たしか5月だったとおもいますが、大学の医学部が米軍から研究資金をもらっていたことが朝日新聞にすっぱ抜かれて、米軍資金の導入に反対する闘争が学内で始まった。僕は、サルトルの「アンガジュマン(参加)の思想」を信奉していましたから、すぐに運動の渦中に飛び込んでいったわけです。

武力闘争という手段は、当時の若者にとっては自然な流れだったんですか?

鈴木 「武力」というふうには認識していませんでしたね。1960年の第1次安保闘争のときもそうでしたが、学生たちは素手で非武装だったのにたいして、警官隊というか機動隊はヘルメットをかぶり棍棒をもって武装していた。そもそもは平和的なデモで、隊列を組んだ学生が大通りの道幅いっぱいにひろがって行進するデモ、これを「フランス・デモ」といってましたが、そういうデモをしたり、渦を巻くように通りをいっぱいに使った駆け足デモで気勢を上げる「渦巻デモ」なんかをやると、「許可」されたデモの範囲を超えた違法行為であるというカドで、そこに棍棒をもった警官隊がウワっとやってきて隊列めがけてなぐりかかるわけです。

いきなり、ですか。

鈴木 待ち構えているんですね。ネズミ捕りみたいに。それは、完全に非対称の暴力です。そもそも、デモや集会の自由は憲法で保証されていますし、デモにしても集会にしても、届け出すら不要な市民の権利行為で、行政当局の「許可」なぞ不要なんですね。憲法に照らせば。にもかかわらず、武装した警官隊が棍棒をふるい催涙ガス弾を放って、それを襲撃する。かれらは、武装権を放棄した主権者である国民に委託されて、国民の平和的な生活や権利を守るために、武装することを許されている存在です。それが近代国家の警察や軍隊の武装の原理です。ところが、その武装が、政府の政策に異議を唱えるデモ隊、つまり自国民に差し向けられる、という転倒が起こっている。いまの、ロシアだったり、中国だったりとおなじです。「武力」にたよる闘争をしていたのはむしろ警官=権力の側で、その闘争相手が素手で無帽の学生や市民であった。本来、権力に守られるべき人たちです。そんな学生や市民が、一方的に、棍棒で殴られたり足蹴にされるだけでなく、逮捕までされる。

現在の世界情勢に鑑みると、確かに人ごととは思えませんね。

鈴木 そうですね。そんな次第で、山崎くんが亡くなった1967年10月8日の闘争を契機に、それ以後、全学連の学生たちは、自己防衛のためにヘルメットを被り、もともとはプラカード用に使っていたりした角材を、デモの妨害者である機動隊と渡り合うために、「武器」として使うようになったわけですね。それが学生側の「武装」ですが、当初は、角棒もスギ材ですから機動隊の樫の棍棒に比べれば打撃力なぞタカの知れたもので、物理的な(暴)力の非対称性は圧倒的でした。ですから、僕たちは「武力闘争」ではなく、デモの権利を暴力で抑え込む権力を押し返す「実力闘争」といっていました。

 というものだったんですが、1968年以後、学生たちの「武装」はだんだん高度化していきました。当初は、機動隊の妨害をはねのけるためであったものが、機動隊との攻防に軍事的に勝利するための「武装」に変質していった。もちろん、圧倒的な戦力差・装備の差は依然としてありましたから、実力抵抗の延長線上の「武力」闘争であった、と僕はおもっています。

 それはともかく、僕は、慶應大学日吉キャンパスの文学部自治会である「文学会」の執行役員になるとともに、米軍資金導入反対闘争が本格化すると「文学部闘争委員会」の主要メンバーになり、慶應全学の学生の闘争機関である「全学闘争委員会」でも積極的な役割を果たしました。

このあいだ映画『フレンチ・ディスパッチ』を観たのですが、第2話に登場する架空の学生運動のリーダーって、きっと若い頃の鈴木さんに似ていたと思うんですよね。お洒落で、女性にモテて、圧倒的にカリスマ性があるという。ティモシー・シャラメの雰囲気もちょっと近いですし。

鈴木 それは観ていないけれど、けっこう人気はあったようで、女子学生が「日吉文学会」の部屋に花を飾ってくれたり、甘いものを持ってきてくれたりすることがよくありましたね。甘酸っぱい青春の思い出です(笑)。

ある種のファッション的な感覚もあったんですか? 学生運動が格好いいという。

鈴木 僕は“みゆき族”仕込みなので、VANのものや、そのころになると、サンローラン・リヴ・ゴーシュばりのヨーロピアン・テイストのMr.Vanなんかの服を着てましたから、おしゃれはしてました。そういう活動家は、ほとんどいなかったとおもいます。ただ、そっちのファッションというよりは、思想のファッションというか、ベトナム反戦運動や学生運動をやることに、一種、ハイ・カルチュアっぽい雰囲気を感じる人は、わりと多くいたとおもいます。なかでもリーダー的な連中は、マルクス、レーニン、トロツキー、毛沢東などの左翼理論家だけでなく、カントやヘーゲルなどの本も熱心に読んでいましたし、文学青年や映画青年も多かった。僕はサルトル派なので、タバコもゴロワーズをまねて両切りのものをカッコつけで吸っていました。

数年前に活動していたSEALDsという団体はそういう存在になりかけたんだと思いますが、彼らと鈴木さんが違うのは、鈴木さんたちは命のやりとりをしていたことですよね。実際に逮捕もされていますし。

鈴木 彼らには頑張ってほしいな、とおもっていました。僕たちのころは、親しい友人で抗議の焼身自殺をした人も複数いました、というか彼らは直接の知人でしたし、機動隊との攻防で重症を負ったり、内ゲバなどもふくめて亡くなった人も身近なところから何人も出ています。

その覚悟はしていたわけですか? 殺すか、殺されるかという。

鈴木 ええ、していました。

団体はどちらだったんですか?

鈴木 日本における新左翼の先駆けだった「ブント」(共産主義者同盟)です。

新左翼とは、旧日本社会党や日本共産党の既成左翼を批判する政治的左翼のことですね。警察や体制からは〝極左〟と呼ばれる存在ですよね。そして「ブント」は、そういう「極左」の党派のひとつだった。鈴木さんはその学生組織の「社会主義学生同盟」に所属していた。まわりにはテロの道に走った人もいますよね?

鈴木 テロには僕たちは反対でしたし、テロリズムを批判していましたが、ブントからは「赤軍派」や「連合赤軍」、そして「日本赤軍」などの党派が派生しました。ですから、日航の「よど号」をハイジャックした連中や連合赤軍、日本赤軍のメンバーには、よく知っている人物もいました。

自分がそうなっていたかも、という感覚は?

鈴木 もちろんあります。

そうですか。1976年生まれのぼくですら学生運動とは無縁ですが、きっと20代ともなると、理解の範疇外じゃないですかね? 

鈴木 山崎博昭くんはなぜデモごときのことで死ななければならなかったんだろうとか、なぜベトナムの大地に枯葉剤が撒かれなくちゃいけないんだろうとか、そういうことが、僕が運動をはじめるようになった初発の動機だったとおもいます。人間がおなじ人間に、自由な人間として生きる権利を否定されるということがあっていいのか、という。で、僕は大学生だったわけです。さまざまな仕事に追われて、考える暇のない・余裕のない生活を送っている人たちがいるなかで、こっちは勉強していれば許される「暇人」です。ならば、勉強して学んだことを社会に役立てるために行動するのは、学生のひとつの責務ではないか、とかんがえたわけですね。

じゃあ、たとえば、このあいだ(1月27〜28日)警察署を取り囲んで投石した沖縄の若者たちには、シンパシーを感じますか?

鈴木 感じますね。やむにやまれず、ということだったろうとおもいました。

ああ、ぼくもあれには共感しました。

鈴木 それはよかったです。

鈴木さんがつくるファッション誌、
そしてジャーナリズムとは?

そんな鈴木さんは、業界紙の記者を経て、1983年から雑誌の世界に進出。自動車雑誌『NAVI』や『ENGINE』の名物編集長として業界にその名を轟かせ、2012年に『GQ JAPAN』の編集長に就任します。昨年をもって惜しまれつつも退任されたわけですが、ファッション誌なんて窮屈だったのでは?

鈴木 いや、楽しかったですよ。

ぼくたちがやっているファッション誌の世界って、ある意味、割り切りの世界じゃないですか。広告主であるブランドと阿吽の呼吸で成り立っているから、忖度せざるを得ない。GQというインターナショナル誌は、その象徴のようにも思えましたが。

鈴木 ファッション・クライアントと揉めたことなんてなかったですね。僕はなんでも率直に言うけれど、ファッション・ブランドの発信するものについては徹底的に優しくありたい、とかんがえていました。なぜなら、ファッションって、窮屈な世の中に花を咲かせる歌とか詩のようなものだ、とおもうからです。うまいへたもあれば、僕の趣味に合う合わない、ということも当然ながらありますが、でも、歌であり詩であることには変わりがない。そこに優劣や善悪は、本来ないんですね。とはいえ、ジャーナリストとして、批評行為はできる。歌や詩を批評するように、ね。でも、それはかならずしも「批判」というわけではない。社会批評や文明批評の一環としてのファッション批評をやっていきたい、とはおもっていました。

それはジャーナリズムが成り立つ、自動車雑誌にいたからこその矜持なんでしょうね。今や雑誌側から面倒を避けて自主規制するような有様で、批評も避けるというような傾向は強まっていますから。

鈴木 自動車業界は、自動車という存在が、場合によっては人を傷つけたり殺したり、あるいは環境にたいして有害であったりするので、批評は当然のことながら、批判にたいしても、それを甘んじて受け入れて、正すべきは正していかなければならない、ということを知っているし、そうしなければ、社会の敵とみなされることがわかっているわけですね。ですから、すべての批評・批判はOKだし、もちろん原稿チェックなんて、タイアップでもなければ、してはならないわけです。それに、自動車を開発したり、あたらしい商品企画を担当したりしている人にしてみれば、ジャーナリストの言うことには、ヒントになることもあるし、それをいわば「社会の声」として、社内でのなんらかの改革に役立てることもできる場合もあって、もっともな批判はむしろ歓迎されるんですね。とはいえ、批判する以上は、こちらとしても、生半可な知識やお座なりな人まねであれこれいったら軽蔑されるだけです。そこは、ちゃんとかんがえて、根拠のあるみずからの意見をいわなければなりません。

社会の声! あまり意識したことはありませんが、でも確かにそうですね。

鈴木 仮にの話ですが、自動車メーカーの開発者だったりする人が、開発したクルマに問題があるとわかっていても、上司の意のままにその問題に目をつむっていたとして、ある雑誌がその問題点を見抜いて指摘したとしたら、かれは「この雑誌がこんなこと書いてます」っていって、その問題の解決を、社内でうながすことができるかもしれないわけです。政治や社会問題の分野でなくても、ジャーナリズムにはそういう効用がある。ファッション・ジャーナリズムの場合も、日本をカッコに入れれば、そういう効用はあるんじゃないかな。海外では原稿の事前チェックなんてあり得ないし。

そういう考え方は次の世代に伝わっていると思いますか?

鈴木 どうだろう。そういうことは『GQ JAPAN』に在籍していたときはよく言ってたから、伝わってるんじゃないかな(笑)

出版の世界はずいぶん変わっていますが、今の若いクリエイターに思うことはありますか?

鈴木 WEBなどのデジタル・メディアがどうこうというのではなく、プリントの雑誌には、やっぱり生き残ってほしいですね。紙ならではできるエディトリアル・デザインとか写真の活かしかたとか、読ませかたというものは、捨ててしまうにはあまりにも惜しい文化資産であるとおもいます。

WASPがつくったアイビーと
トム・ブラウンの関係

実は以前、私のアパートが『ENGINE』編集部のすぐ近くにあって、近所のコンビニで女子高生に二度見されている鈴木さんの姿をよく見かけていました(笑)。でも、もともとはトラッドというかアイビーだったんですよね?

鈴木 みゆき族でしたからね。

もしかして、よくお召しになっているトム・ブラウンは、みゆき族からの流れだったんですか?

鈴木 今日は着ていないけど、そうです。

今の若い人は、その流れはわからないかもしれませんね!

鈴木 15、16歳のころに、雑誌の『メンズクラブ』で学んだことが基本ですが、ひとつ「やな感じ」とそのころからおもっていたのは、本場のアイビー・ファッションが、アメリカ的なエリート・カルチュアのファッションである、ということですね。勉強ができて、体制に従順というか、エスタブリッシュメントとして自己形成することに励むアイビーリーガーが着る服、というイメージですね。アイビー・リーグじたいが、アメリカ資本主義が求めるようになった高級管理労働者を量産する機関として発展した、ともいえるわけですが。 

東海岸にある8つの私立大学の総称ですから、つまりエリートたちのスタイルってことですよね。

鈴木 そうですね。これは第1次大戦後のアメリカ資本主義の、世界を制覇するような急発展のなかで要請されたことであったとおもいますが、アイビー・リーグはそのころを前後して、いわゆる「WASP」(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)といわれる良家の子女だけでなく、アイルランドやイタリアやスペインなどからの移民の家族の、成績優秀な子弟たちにも門戸を開いたんですね。アメリカ資本主義の急発展のために、もっと多くのすぐれたテクノクラートやビジネス経営者、管理労働者が必要になったからです。結果、地方の、労働者階級の家に育った勉強のできる子たちが大挙してアイビーリーグ校に入ってきた。

地方出身者たちが。

鈴木 彼らは、東部エリート・ファミリーの子弟とはちがって、紳士的身なだしなみのことなんて知らないし、上流階級のお嬢さんとデートしたり、かの女たちをエスコートしたり、正しいマナーで食事するとかお茶を飲むとかの経験も持ち合わせていなかった。そんな彼らにとって、どんな服をどんなときに、どんなふうに着るべきか、ということもふくめたエリート・カルチュアを学ばせたのが、大学のなかの〝フラタニティ〟という名のクラブ、つまりは県人会みたいなものだった、ようです。このへんのことについては、奥出直人さんの『トランスナショナル・アメリカ』(岩波書店)という本が参考になりますが、ブルックスブラザーズにシンボライズされるアイビー・ファッションは、いわば、そういう人たちのお手本として機能したんですね。だから、別にお洒落で着るわけじゃない。もとはといえば、身分証明みたいなWASPのスタイルなんです。

 

確かにそうですね。でも、だったらなぜいまだに、そんなアイビーの流れを汲むトム・ブラウンを着られているんですか?

鈴木 トム・ブラウンのスタイルって、ショートパンツに象徴されているけれど、子供が週末に教会に行くときの格好みたいでしょ? 子どもが着る大人の服というか、大人が着る子どもの服だとおもうんです。だから、可愛らしい。これに関連する僕の好きなマルクスのことばがあるんですよ。『経済学批判要綱』というおかたい本の序文の締めくくりのところに出てくるものです。いわく、「おとなはふたたび子どもになることはできず、もしできるとすれば、子どもじみるくらいが関の山である。しかし、子どもの無邪気さ(ナイヴィテ)は、大人を喜ばせないであろうか。そして、かれは、その無邪気さの真実を、もういちど再現してみたい、と務めてはいけないのだろうか。子どもの子どもらしい本性にこそ、どの年代にあっても、人の本来の真実が生き生きとよみがえるのではないのか」(Penguin Classics “Grundrisse”から鈴木さん訳)と。

なるほど、鈴木さんのアイコンになっているスタイルの背景には、そういう哲学が!

鈴木 それに、ファッションって、常に政治的なものだと思うんですね。ボードレールが〝黒い服の美しさはそれが政治的な平等を示すことにある〟という意味のことをどこかで言ってましたが、ミリタリーウエアやワークウエアの魅力も、そういう平等性にある、と僕はおもっています。そして、それがいいんだ、とする価値観が、そういう服を、生き方と結びついたファッションとして、ある文脈のなかでその人を輝かせる。ただ、きれいとか奇抜とかいういうだけではファッションにならない。今の大きなトレンドであるストリートやスケートウエアだって、ハイ・カルチュアにたいするプロテストとしての政治的な意味を持っている。デザイナーにとっては、そういうカルチュアの魂をファッションに昇華していくことが課題なんだとおもいます。

ファッション=政治! てことは、鈴木さんは下着やパジャマにも哲学を反映させているんですか(笑)?

鈴木 それはプライベートなことだから言いたくない。

失礼しました! でも、近年のファッションの潮流に対して絶望したり、興味をなくしたりすることはありませんか?

鈴木 そんなことはないですよ。なぜなら、いつの時代もファッションはポリティカルで、時代精神を反映しているわけだから、何を着るかということに、時代が出ている。古代の人々が顔や身体に刺青を入れたり、大量のアクセサリーをまとったりしたのも、ファッション。そのスピリットを解読することは時代のスピリットを探求するという意味で知的な快楽です。

と、いいますと?

鈴木 あれは、恐ろしい世界の闇のなかで、それに孤独に対峙するための、世界にかける呪いの装置だった、とおもいますね。じぶんを強く見せて世界に対抗するための武器。すくなくとも、負けないための神頼みみたいなのがファッション。服装の根源は、あそこにある。だから、ファッションは不滅で、永遠なんですよ。

飽きること、反抗すること。
それは自由の証明だ!

最近は、ブランドの価値や概念がクオリティやクラフツマンシップから、記号性へと変わりつつありますが、それについてはいかがお考えですか?

鈴木 いわゆるクチュール的なクラフツマンシップにしても、記号消費といえるとおもいますよ。というのも、ファッションって、ある特定のカルチュアへの登録証なんだ、とおもうんです。クラシコイタリアのスーツのボタンかがりも、NEW ERAのキャップのつばを折るか折らないかということも同じで、そのカルチュア圏内の人たちはむろん、圏外の人たちにも向けたメッセージです。いわゆるハイ・ブランドのクラフツマンシップを評価するのも、それを評価できる人たちへのメッセージですから、そういう人たちが存在しつづけるかぎり、それもなくならないとおもいますよ。何百年にも及ぶ徒弟制度によって生まれてきたクラフツマンシップは、もちろん残すべきではあるけれど、でも、そのいっぽうで、ジーンズにどうやってヒゲをつけるのかということも、ジーンズ以後の時代のあたらしいクラフツマンシップです。両者に価値の大小はない。だから、ファッションはおもしろいんです。

なるほど、カルチャーへの登録証ですか。確かにキャップのつばの形ひとつで、入会できるクラブが変わってきますからね(笑)。今はまさに、ブランドがストリートやヒップホップと結びついて、新しいラグジュアリーファッションを生み出している時代ということですね。

鈴木 はい。とはいえ、それにも、そろそろ飽きてきたっていうことはあるけれど(笑)。でも、飽きるというのは、ファッションのひとつの原動力でもあります。人間は本能の形式だけに従って生きていないから、飽きることもできる。それは、人間の根源的な自由を示すひとつの指標です。そして、自由こそがファッションを生み出す。つまり、飽きるってことは、自由であることの証明なんですよね。飽きない動物にはファッションはつくれません。

飽きることは自由の証明! その言葉には、若い子は勇気づけられそうですね。

鈴木 飽きないヤツって、おかしいでしょ?

まあ、そうですね(笑)。

鈴木 最近は女の子がストリートに飽きて、男物のジャケットを着ているけど、すごくかわいいよね。そこに、フェミニティとマスキュリニティの矛盾があるから面白くなってくる。ぼくがトム・ブラウンを好きなのも、成熟と未成熟が一緒くたになっているという矛盾ゆえです。矛盾は解消しようとせず、そのままにして、対立させたまま成り立たせるのがいいんですよ。

それってファッションだけに限った話ではないですよね?

鈴木 はい、もちろん。最近はかけことばのきらいなきにしもあらずだけれど、ダイバーシティ全盛の時代でもあるし、いかに規則違反を巧みにやるか、が問われているんじゃないかな。

なるほど、今は〝巧みにやる〟時代だと。それでも何かに対して飽きること、反抗することこそが、新しい文化を生み出すわけですね。

鈴木 ま、そういうことですよね。文学にしても芸術にしても。

ル・クロ・モンマルトル

創業から20年を超える、神楽坂を代表する老舗ビストロ。日本風にアレンジされていないクラシックなフレンチを気軽に楽しめる、今や東京でも数少ないお店だ。

住所/東京都新宿区神楽坂2-12

TEL/03-5228-6478

休日/日曜日

営業時間はお店にお問い合わせください。

鈴木正文

1949年東京生まれ。慶應大学文学部中退。業界紙記者を経て、二玄社に入社。1983年に自動車雑誌『NAVI』の創刊に参画し、89年に編集長に就任。2000年に新潮社の自動車&ライフスタイル誌『ENGINE』を創刊する。2012年から務めた『GQ JAPAN』の編集長を、昨年末で退任。〝時代の精神を探るマルチプラットフォーム〟『ZEITGEIST』を主宰する。

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