2024.4.15.Mon
今日のおじさん語録
「白は清浄あらゆる色を彩る。黒は厳粛あらゆる色を深める。/月光荘おじさん(高橋兵蔵)」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
19
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

叔父さん? 
謎の船長?
それとも大村益次郎!?
三谷幸喜を導いた
素敵な面々

撮影・文/山下英介
スタイリスト/中川原寛(CaNN)
ヘア&メイク/立身恵(フレックルス)

日本を代表する脚本家であり演出家、三谷幸喜さんが「ぼくのおじさん」に登場! 理屈抜きな面白さの中に、マニアックなこだわりと洒落たユーモアがスパイスのように効いていて、予測不能の展開の連続。観てるといつの間にか心が晴れ晴れしてくる・・・。そんな三谷さんのセンスはどんな環境で生まれ、そして育まれたのか、じっくりと伺ってきた!

父親がわりになってくれた
〝ぼくのおじさん〟たち

今回の取材場所は、「ぼくのおじさん」ではおなじみの仕立て屋「テーラーケイド」。アメリカのゴールデンエイジを彷彿させるその空間は、三谷さんのムードにぴったり重なる。それにしても、いつも惚れ惚れするほど見事なスーツスタイルだ。
今日はお忙しいところ取材に応じていただき、ありがとうございます! 早速ですが、三谷さんにとっての〝ぼくのおじさん〟的存在って誰だったんですか?

三谷 ぼくの母の弟、つまり叔父にあたる人がふたりいまして。

おお、まさにフランス映画の『ぼくの伯父さん』みたいな話ですね!

三谷 父はぼくが10歳のときに他界したんですが、ふたりの叔父さんたちが家にいて、大所帯の家族だった時期があるんです。母が仕事に出ているときは、いつも遊んでもらっていました。その影響は多分あったと思いますね。

やっぱり映画や音楽について教えてもらったんですか?

三谷 ではないですね。下の叔父さんはすごい歴史マニアで、大河ドラマを家族で観終わると、武将のその後の人生や、小学生にはよくわからない人間関係の機微なんかを、必ず解説してくれたんですよ。ぼくが歴史好きになったのは、絶対その叔父さんのおかげですね。もうひとりの上の叔父さんはちょっと遊び人風で、なんというかほんのりワルの匂いがする人でした。この人からはアンモラルなことを色々と教えてもらいました。ここでは口に出せないような数え歌とか(笑)、酒場で覚えてきたようなマジックとか。・・・いまだに豆腐の食べ方は覚えているな。

と、豆腐の食べ方?

三谷 ふつう冷奴って、お醤油とかネギをかけて食べますよね。でも叔父さんはもっと美味しい食べ方があるって言って、ぐちゃちゃに潰して、液状化するくらいかき混ぜてからご飯にかけて食べるんです。子供にとっては密造酒的というか、なんとなくやっちゃいけないことのような感じがするじゃないですか。それと、母の実家は九州がルーツで、もともと面白いことや人を笑わせるのが好きな一族だったんですが、二人の叔父は面白いことに対する感度が鋭かった。だからぼくが今やっている仕事の〝笑い〟に関する部分は、その叔父さんからの影響が強いと思います。

そうですか! いわゆる映画や本に出てくる〝ぼくのおじさん〟って、父方じゃなくて母方のおじさんであることがほとんどですが、三谷さんに影響を与えたのも、母方のおじさんだったんですね。

三谷 父親とは縁が薄かったので、どうしても母親の親戚になってしまうんですけど。ぼくは母の父、つまり祖父とも一緒に暮らしていたんですが、彼は商売人・・・いや、まさに山師と呼ぶのがふさわしい、生涯一攫千金を狙っているような人でした。そんな祖父のところにはいろんな人が訪ねてきたんですが、月に一回くらい船長帽をかぶった謎の船長さんが泊まりにきて、面白い話をたくさん聞かせてもらったり。

謎の船長。実にうさんくさくて魅力的ですね(笑)。

三谷 祖父と船長は当時流行っていた紅茶キノコの輸入を企んでいたので、うちには山ほど瓶詰めの紅茶キノコが置いてありました(笑)。そんな謎めいた人たちも、ぼくにとっては〝ぼくのおじさん〟だったのかもしれません。そもそも〝ぼくのおじさん〟っていうことに関して言うと、自分のイメージでは、血縁のある父親とは違うけれど、どこかで父の匂いがあるような人。ぼくは父がいなかったものですから、余計みんなが〝俺が父親がわりになる〟っていう思いが強かったのかもしれません。でも、本当の親ではないから責任を負わなくていいという(笑)。

そこがポイントですよね(笑)。

三谷 母は人生の正しい道をぼくに教えようとするけれど、それだけじゃない。もっと世の中には面白い世界があるんだよ、っていうことを教えてくれる存在が、ぼくにとっての〝ぼくのおじさん〟なんですよね。小説に出て来る「おじさん」気質の人たちにも憧れたなあ。『宝島』の海賊ジョン・シルバーとか、『王子と乞食』のマイルズ・ヘンドンとか。みんな、ちょっとワルででも格好よくて頼りになる男。

まさにその通りだと思います!

三谷 極め付けが、以前ぼくが演出したニール・サイモンの戯曲『ロスト・イン・ヨンカーズ』(2013年)に出てくるルイ。まさにぼくの考える〝ぼくのおじさん〟の象徴でした。ギャングの手下で、何をしているかわからないし悪の匂いがプンプンしていて、いいこともよくないことも教えてくれる存在。

あの舞台は拝見しました。確かにルイおじさんは寅さんやジャック・タチに通じる〝ぼくのおじさん〟的キャラクターだった思います。それにしても三谷さんは、子供の頃から面白い大人たちに囲まれて育ったんですね。あまり同級生とは付き合いがなかったんですか?

三谷 いや、普通に同級生とも付き合ってはいましたが、ぼくはひとりっ子だったし、母のきょうだいの中でも一番最初に生まれた子供だったので、一族中でぼくを可愛がってくれた。周囲は、そんな〝ぼくのおじさん〟だらけでした。

母が導いてくれた
映画の魅力

三谷さんのお好きな映画の魅力も、そんなおじさんたちから教わったんですか?

三谷 それは母ですね。ぼくが小学生の頃テレビで流れていた映画って、ほとんど母が一番映画を観ていた時代、1950〜60年代のハリウッド作品だったんですよ。当時は日曜洋画劇場から始まって、月曜ロードショー、火曜ロードショー、水曜ロードショー、木曜洋画劇場、金曜ロードショー・・・毎日テレビで映画を放送していましたから。それで母のおすすめを通して、ビリー・ワイルダーやヒッチコックの存在を知ることにもなりました。母はヨーロッパ映画はあまり好きじゃなかったから、ほぼハリウッド専門でしたが。

以前テレビ番組で観て衝撃を受けたのですが、小学生の頃にあのチャールズ・チャップリンに会いにスイスまで行ってしまったという。

三谷 ぼくは10歳の頃に父を亡くしたもので、母がすごく気を遣ってくれていたんですよね。それで、当時リバイバル公開を通じてファンになっていたチャップリンに会いに行こうという話になったんです。その頃ちょうど萩本欽一さんがチャップリンに会いに行くテレビ番組を見たので、あなたも会えるかもしれないよって。それでスイスのレマン湖近くにあるチャップリンの自宅まで行ったんですが、結局会えなくて、秘書の方にぼくの描いた似顔絵をお渡しして帰りました。そしたら1ヶ月後くらいに、チャップリンがサインしてくれたものが送り返されてきて。今でも取ってあります。宝物です。

うわあ、まだ海外旅行も珍しかった時代(1970年代初頭)だというのに、ものすごい行動力(笑)。

三谷 経済的にも恵まれた家庭でした。8ミリカメラもありましたから、家には70年代のヨーロッパの映像が色々残っていますよ。

それはもはや歴史的資料ですね。三谷さんの周りには優しい大人がたくさんいたんだなあ・・・。逆に抑圧する人はいませんでしたか? 学校の先生やいじめっ子とか。

三谷 なかったですね。自由にさせてもらっていましたから。うちは父が亡くなって貧しくなりましたし、土地や家もどんどん小さくなりましたが、それをネガティブに捉えることもありませんでした。他の家庭とはちょっと違うんだな、くらいのことは感じていましたけど。

当時から脚本家や演出家になりたいという夢はお持ちだったんですか?

三谷 みんなで劇をやるときに脚本を書いたり演出したりというのは、もう小学生の頃からやっていましたから。

じゃあ、普通に会社員になるようなイメージは全くなかった?

三谷 そうですね。変な言い方ですが、そもそも三谷家には真っ当に働いていた人がいなかったので、その選択肢は最初から頭の中になかったんじゃないですかね。

真っ当に働く
選択肢はなかった!

物静かな中に茶目っ気の効いた三谷さんのキャラクターは、テレビで見るそのまんま! 
真っ当な大人が存在しない一族(笑)。進むべくして演劇の道に進んだわけですね。その後三谷さんは大学在学中に結成した「東京サンシャインボーイズ」の活動と並行して、テレビの道に進んでいくわけですが、いわゆる業界に導いてくれた恩人って誰なんですか?

三谷 お世話になった人はたくさんいますよ。ぼくは大学時代に「放送作家募集」という掲示板の張り紙を見つけて、「オクタゴン」(のちに「ドデカゴン」に改名)という作家集団に採用されたんです。当時は情報番組のリサーチとか、山城新伍さんの『アイ・アイゲーム』のクイズ問題づくり、駅前で100人インタビュー・・・なんてことをしていて、そこで稼いだお金を劇団の公演に費やす、みたいな毎日を過ごしていました。

〝チョメチョメ〟で知られる山城新伍さんの番組に関わっていたとは、今の三谷さんからは考えられないですね(笑)!

三谷 日本テレビでは『エッ!うそーホント?』という番組をやっていました(1982〜1985年)。これは世界の知られざる風習を紹介して、それがホントか番組がつくった嘘かを当てるような番組だったんですよ。でもぼくは、図書館で調べたそれらのネタをスタッフに発表する作業がすごく苦手で。なんというか、情報を収集して面白おかしくプレゼンするという作業が、自分に向いていなかった。だから同世代の作家たちと較べても、ぼくは全くこの番組の力になれていませんでした。

いわゆる情報番組には向いていなかったと。

三谷 そんなときに事務所の先輩作家である川崎良さんが、「1年以上関わってるんだから、そろそろ三谷もエンドクレジットに加えてやってもいいんじゃないか?」と言ってくれたんです。川崎さんは当時の事務所で一番の売れっ子作家だったんですが、彼の助言によってぼくの名前が初めてテレビ放送に流れた。それが本当に嬉しくて、以来ずっとお世話になっています。おじさんというより、お兄さんのような存在なんですが。

今や大御所的存在になられた三谷さんにも、そういう泥水を啜った時期があったんですね。そもそもバラエティ番組の放送作家がキャリアのスタートだということも、今の若い人は知らないかもしれません。でも、この業界でいうと誰かの弟子に就くという入り方もあると思いますが、それは興味がなかった?

三谷 ぼくは脚本家として誰かの弟子になりたいと思ったことは全くなくて、実際のところ密に連絡を取り合うような方もほとんどいないんですよ。もちろん市川森一さんや早坂暁さんなど、尊敬する方はたくさんいるし、彼らの書いた台本を読んで勉強することもありましたが、直接会って何かを学ぶという機会は、一度もなかったです。

映画監督でも、そういう存在はいなかったですか?

三谷 映画に関していうと、いまだにぼくは部外者というか映画界の人間ではないという意識が強いものですから、それもないですね。自分がいるべき場所はあくまで舞台でありテレビだと思っています。と、言いつつ20年以上民放の連続ドラマをやっていない。たまに大河ドラマやるくらい。それでテレビの脚本家というのもちょっと恥ずかしいです。

もはや大御所となった三谷さんでも、そういう気持ちを抱えておられるんですね。

三谷 映画はもともと大好きだから、数年に一度のご褒美のような感覚でやらせてもらっています。でも逆にいうと、映画業界からするとちょっと鼻持ちならないヤツって思われているんじゃないかって。ぼくは誰の弟子にもなっていないし、下積みも経ていない。ただただ映画が好きなのと運がよかったというだけで、何本も映画を撮らせていただいている。苦労してやってこられた方からすると、きっと腹が立つ存在だと思うんですよね。

そうか、三谷さんであっても「下積みを経ていない」という感覚なんですね。

三谷 そうですね。最初から監督としてやらせていただいて、自分が好きでやりやすいスタッフを集めていただいて、やりたいことを好きにやらせてもらっている、本当に恵まれた環境にいると思います。舞台もある意味、そうですね。台本を書くのは今も辛いけど、あとは本当に楽しいばかりで申し訳ないです。

集団作業が好きな
個人主義者

でも、この仕事をされていく中では、当然挫折を味わったこともありますよね?

三谷 挫折ねえ、それがないんですよ。

えっ、そうなんですか?

三谷 これも本当にラッキーだと思っていて。今振り返ると確かに、同世代の演劇人が脚光を浴びて賞をもらったりしたときは、なんでぼくが書く作品はみんな観に来てくれないんだろう?なんて思ったことはありますが、それがネガティブな挫折感につながったわけでもない。いつか風向きは変わるだろうと思っていたし、実際のところ割と早く変わったので、そんなに苦労した記憶はないんですよね。

それは才能のなせるわざです(笑)。でも、作業としてはとても孤独でハードなお仕事ですよね?

三谷 自分でも不思議なんですけど、ぼく自身はあまり人と接するのが得意ではないんです。むしろ個人主義なんですが、それでもひとりの作業として考えたときに、小説家にはなりたくないんですよ。

完全にひとりはイヤというか。

三谷 やっぱり、演劇であれ、テレビであれ、映画であれ、歯車の中のひとつでいたいんです。優秀かつリーダー的な存在の監督や演出家がいて、そのサポート的なポジションとしてぼくのような脚本家がいるという。 ぼくはもともと軍師が好きだから、決してトップには立たずに縁の下の力持ち的な役割を果たすポジションが、本来自分のいるべき場所だという風に、いまだに思ってるんです。そういう集団作業が好きなんですよね。

個人主義だけど、集団作業が好き!

三谷 映画でいうと『大脱走』、TVでいうと『必殺!』シリーズみたいに、それぞれ特技を持った人間が集まって、ひとつの成果を成し遂げるまで力を合わせて、達成したらまた別れていく・・・。そんなものづくりに憧れを感じるんです。ぼく自身もずっとそういう存在でありたいと思っていましたが、自分で劇団をやったり、演出を手がけたりするとなかなかそうもいかなくて。自分が一番上に立つことに無理を感じつつも、なんとか今まできている、という感じでしょうか。

確かに三谷さんの作品にも、そういうストーリーが多いですね。

理想のクリエイターは
長州藩士だった!?

師匠のいない三谷さんは、この仕事を続けていくうえで参考にしてきた人っているんですか?

三谷 参考というか、そうありたいという人はたくさんいますよ。映画をつくるときはビリー・ワイルダーならどうするか?って考えるようにしているし、舞台の脚本を書くときはニール・サイモンが心の師匠だったりします。テレビドラマなら市川森一さん、人としてのあり方でいうと和田誠さんや伊丹十三さんには憧れますね。あとはクリエイターとしての理想は大村益次郎ですね。

明治維新の立役者がクリエイターの理想像(笑)?

三谷 彼は日本陸軍の祖と言われる人物なんですが、もともとは医者で、理数系の天才。上野戦争のときには戦争の始まりから進め方、終わりまでを完璧に計算して、見事にその通りに終わらせたんですよ。ですからぼくは映画を初めて撮ったときに、大村益次郎のような監督になりたいって本気で思って、スケジュールから予算までを完璧に予定通りにこなし、もう作品の質なんて二の次で、とにかくプロデューサーに喜んでもらえる監督になりたいという思いでやったら、それが達成できたんですよ。

いやいや、『ラヂオの時間』は質的にも大傑作でしたが、大村益次郎スタイルでやれちゃったんですか(笑)!? 

三谷 今回の映画(今秋公開予定の『スオミの話をしよう』)なんて、予定よりちょっと早く撮り終えてますから。

若きクリエイターに
伝えたいことって?

ビリー・ワイルダーから大村益次郎まで(笑)、いろんな心の師匠に支えられてここまできた三谷さんですが、今や日本中のクリエイターが憧れる存在。弟子志望の若者が押しかけたりしないですか? スタジオの前で出待ちされたりして。

三谷 うーん、そういう経験はないですね。多分ぼくにそういう匂いがないんじゃないかなあ。たとえばつかこうへいさん、野田秀樹さん、鴻上尚史さんみたいな素晴らしい演出家の方々って、どこかに教育者としての一面もあるんです。ぼくには一切ない。だから誰も寄ってこないです。

教育者的要素ゼロ(笑)。

三谷 同業者だけじゃなくて、俳優さんに慕われてる感もないですし。

いやいや、そんなことは絶対ないですよ(笑)!

三谷 それで全然いいんです。みんなで力を合わせてつくるものが好きだし、そういう内容の作品も好きだけれど、ぼく自身はそこに入らない人間なんです。人付き合い悪いし。人徳なんて皆無だし。その空気を出しているから、弟子にしてくれなんて言われたことがないです。

じゃあ、この世界に憧れている、夢をつかみたい若者たちに、伝えたいことなんて・・・。

三谷 ないですね。

ああ〜そうですか(笑)!

三谷 ぼくの預かり知ることではないので、好きにやってくださいという。そんなことよりぼくは自分のことで精一杯だし、これからもそうなんじゃないですかね。

三谷さんらしいお答え、最高です。

三谷さんは今、
悩んでいる!

三谷 ただ、とはいえ自分も年齢を重ねてきて、今まで挫折感なんて覚えたこともなかったんですが、もしあるとしたらこれからのような気がすごくしていて、いまだかつてない恐怖感を味わっているんです。

それはどういうことですか?

三谷 もともと自分に仕事をくれていたスタッフやプロデューサーさんは、ぼくより年齢が上だから、偉くなってどんどん現場を離れていかれてる。今やぼくに仕事をくれる人はほぼ歳下。気が付いてみれば周囲のスタッフも、みんなぼくより若いわけです。そのときになかなか難しいのが、昔だったら阿吽の呼吸で進められていたことが、進まなくなっている。それはつまり、彼らとの共通言語がなくなっているということです。同じものを見て、同じことを感じて、同じ時間を過ごしてきた人たちが少なくなってくると、やれないわけじゃないけれど、時間がかかる。ぼくが知っている映画をみんな知らないし、みんなが知っている映画をぼくが知らないという環境でひとつの作品をつくっていくのって、なかなか難しいですよね。

共通言語! たとえば、ビリー・ワイルダーって誰ですか?みたいな。

三谷 ぼくの世代にとっても、ワイルダーとか(エルンスト)ルビッチ、チャップリンはかなり昔の作品でしたが、観てはいた。ただ今の若い人たちは、自分たちに近い世代の作品しかご覧になっていないような気がします。下手したらスピルバーグも観たことがなかったりしますから。だからと言ってぼくは彼らに昔の映画を観ろとか言うつもりもないので、ぼく自身が変わらなくちゃいけないのかな、と思っていますけれど。

確かに、音楽やファッションの世界でも、同じような話はよく耳にします。

三谷 ぼくはできる限りプロデューサーのやりたいことに沿ってものづくりをしたいタイプなんですが、最近はとても自分には無理だっていうお仕事をくださる方もいるんです。

たとえばどんな?

三谷 この令和に生きる人たちの暮らしや風俗を描く仕事なら、ぼくよりできる若い人が山ほどいると思うんです。だからぼくは手を出さない。やってみる価値はあるかもしれないけど、そこに時間を費やしたくない。じゃあぼくに何ができるかといったら、もっと昔の時代の話なのか、それとも今の社会とは全く関係ない世界の話だったりするわけですが、果たしてそれを現代の観客が求めているかは、わからない。今までそういうことに悩んだ経験はなかったのですが、それってとても怖い。ひとつの過渡期に来ているような気がしますね。自分はきっと変わらなきゃいけない、でも変わってうまくいく保証はないし、だったら自分の得意なものを極めていくべきなんじゃないか。さあ、どうしよう。そういう意味では、今日の取材は久々にぼくの好きな世界に再会できて、とても安心しました(笑)。

「テーラーケイド」所蔵のレコードに興味を惹かれる三谷さん。ご自宅もきっとこんな洒落た空間なんだろうな、と思わせるが、実際は全く違うとのこと。どこかミステリアスな雰囲気だ。「こういう場所に来るんだったら、黒縁メガネをかければよかったな」とポツリ。
インタビューの場所にケイドさんを選んでよかったです(笑)。三谷さんは、もし予算も納期も全く制約がなかったとして、やってみたい作品ってありますか?

三谷 う〜ん、今までそういうこと考えて仕事をしてこなかったので・・・。もちろんいつだってやりたいことはあったけれど、脚本家って、自分がやりたい仕事は二の次のような気がしていて。こんな面白い企画があるんですよ、とかこれを三谷に書かせてみたい、って言ってくださったものに乗っかるのが、本来の仕事だと思っているんです。その中にちょっとだけ自分のやりたいことを忍ばせる、というのが醍醐味であって。だから具体的にこれをやりたい、というアイデアはないですね。

制約があるほうが燃えるということをよく仰っていますよね。

三谷 さっきも言いましたけど、本当に自分がやりたいことを表現するのなら、小説を書くのが一番だと思うんですよ。でもそれは向いていないし、やりたくない。

小説はやりたくないと。

三谷 なんでもアリなところに面白さを感じないですね。

でも、そういうやりづらい時代にあっても、三谷さんは脚本を書き続けていきたいですか? 三谷さんとほぼ同世代のクエンティン・タランティーノあたりは、すでに引退作を撮っているそうですが。

三谷 あれ、なんで引退なんて言ったんだろう? もしぼくが万が一引退しようと思っても、絶対に言わないけどなあ。だって恥ずかしいですもん。あいつ最近書いてないなって言われるならいいですけど、わざわざ引退しますなんて、ちょっと自意識過剰というか。どうでもいいよって思われそうな気がするな。

三谷さんにはこれからもたくさん楽しませてもらえそうですね。ほっとしました! 
三谷幸喜

1961年東京都生まれ。日本大学芸術学部演劇学科に在学中の1983年に自身が主宰する劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成以来脚本家、演出家、映画監督として数多の名作を発表。2023年には3作目のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を手がけ新境地を開拓、「第15回伊丹十三賞」を受賞した。2024年は脚本と監督を手掛ける9本目の映画『スオミの話をしよう』の公開が予定されている。

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