2024.12.6.Fri
今日のおじさん語録
「世界はあなたのためにはない。/花森安治」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
15
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

70年代ロックの震源地は
狭山米軍ハウスだった!
〝呼び屋〟麻田浩が
この街に返したかったもの
(後編)

撮影・文/山下英介

伝説の〝呼び屋〟麻田浩さんのインタビュー第二弾。今回は細野晴臣さんの『HOSONO HOUSE』や小坂忠さんの『HORO』といった、素晴らしい音楽の土壌となった1970年代の狭山アメリカ村について、そしてこの街で麻田さんが開催した「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」についてのお話を伺った。「ぼくのおじさん」は、年齢なんて関係なく新しいことにチャレンジし続ける、麻田さんと粕谷さんの精神に共感します! 

前編はこちら

狭山のアメリカ村に集まった
クリエイターたち

麻田さんがこの狭山に越してきたのはいつだったんですか?

麻田浩 71年です。司会やライナーノーツを書いていた時代。

粕谷誠一郎 もともと、WORKSHOP MU!!というグラフィックデザイナー集団が、狭山のアメリカ村に事務所を構えたのが最初なんですよね。

小坂忠さん、「サディスティック・ミカバンド」、「はっぴぃえんど」、細野晴臣さん、「YMO」などなど、歴史に残るアーティストのレコードジャケットをつくった人たちですね。日本のミュージックシーンにおけるアートワークを世界レベルに引き上げたという伝説的な存在です。
粕谷誠一郎さんが編集を手がけた『狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』(トゥーヴァージンズ)。かつて狭山に存在したアメリカ村の風景を、貴重な写真や証言とともに記録している。若き日の麻田さんはもちろん、細野晴臣さん、小坂忠さんなど、この地に住まいを構えたアーティストの写真も収録されている。
こちらがWORKSHOP MU!!のメンバー。50年前の写真だとは思えないほどに全員格好いい! 意外だが彼らは日本文化にも造詣が深く、米軍住宅時代は骨董の売買を手がけて生計を立てていたという。後に現代の魯山人と言われるようになるデザイナーの渡邊かをるさんも、彼らの影響によって骨董に目覚めた。
狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』より。

粕谷 小坂忠さんとMU!!の中山泰さんが、パーマをかけたいけどそのお金がないと。だったら眞鍋さんの奥さんの実家が飯能で美容室をやってるから、そこでかけるか、って行ったのがきっかけ。その帰り、返還された狭山の米軍ハウスへの入居募集を新聞広告で知って、そのまま契約しちゃったと。

麻田 彼らにすすめられて、ぼくも住みだしたんです。だって家賃2万5000円で3ベッドルーム、しかも好き放題改装してもいいって言うんですから。クルマが好きだったので、2台タダで停められたっていうのも大きいですね。米軍ハウスでアルファロメオってのもちょっとおかしいけど(笑)。

それで細野晴臣さんも集まってくるんですね。そしてこのエリアに「ムーンライダース」の岡田徹さん、吉田美奈子さん、ギタリストの洪栄龍さんといったミュージシャンたちが続々と集まってくるという。

麻田 だから皆さん、眞鍋さん繋がりでしたね。「はっぴいえんど」のメンバーや、彼らと親しかった写真家の野上眞宏、「小坂忠とフォージョーハーフ」のメンバーも、しょっちゅう遊びに来ていました。ただ、松任谷正隆だけは、お坊ちゃんだから絶対に泊まってはいかなかった(笑)。当時は関越道もなかったから、ちょっと遠かったですけど。MU!!では、後に有名になるデザイナーの立花ハジメ(※1)がボーヤみたいなことをしていて、原稿ができたら朝イチで車に乗って、都内まで届けていました。メールはもちろん、ファックスもバイク便もなかったですからね。

※1/グラフィックデザイナーとしての活動と並行して、1976年にバンド「プラスチックス」を結成。テクノやニューウエイヴのシーンに、大きく影響を与える。

粕谷 アメリカ村の存在は、ぼくたちの間でも有名でした。

当時の狭山って、どんな場所だったんですか? 実は私の実家が近くにあるから言えることでもあるのですが、なんというか国道沿いの典型的なベッドタウンという印象が強いのですが・・・。

麻田 当時は田舎ではあったんですが、入間にジョンソン基地(現在は自衛隊基地)があったから、近くに米軍払い下げの家具屋やアンティークショップなんかがあって、ちょっとほかとは違った感じでしたね。当時「ハイドパーク」と呼ばれていた稲荷山公園付近には米軍ハウスが数十軒建ち並んでいて、ぼくたちが住んだのもそのひとつなのですが、普通の兵隊さんが住む平屋でした。将校の家は2階建てなんですよ。

これが狭山にあった典型的な米軍ハウス。米軍ハウスは国道16号線に点在しており、横田基地のある福生では、カフェや家具店、スタジオなどに活用されて、独特の街並みをつくっている。近年では入間のアメリカ村が再整備され、「ジョンソンタウン」として賑わっている。
狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』より。
基地の街ということでは、福生の横田基地みたいな感覚なんでしょうか?

麻田 福生にもよく行ってましたけど、あそこは沖縄のコザといっしょで、ディスコやバーといった、軍人と日本人が交わる場所が多かったんですよ。だから独自の文化が今でも残っているんです。それに対して入間のジョンソン基地は、基本的に基地内ですべてが完結するようにできていたから、基地の外には外国人向けのお店が少なかったし、それほど交流はなかったです。唯一、この近くには「ニックス」というレストランがありますが、あそこは基地の中でコックをしていた方がつくったお店なんですよ。この基地は何回かにわけて返還されたんですが、その都度米軍ハウスに空きがでて、それを市が貸し出していたというわけです。

そうか、同じ基地の街といっても、それぞれ事情が異なるわけですね。そして狭山の米軍ハウスは市営だから家賃も安かったという。米軍ハウスの暮らしはいかがでしたか?

麻田 そりゃ楽しかったですよ。

細野晴臣さんの『HOSONO HOUSE』とか小坂忠さんの『HORO』は、この暮らしから生まれてきたんですもんね! やっぱりこれらの作品に描かれているような暮らしだったわけですか?

麻田 まさにそうですよ。共同生活みたいなもので、何かあればパーティしていましたし、ハッパもよくやってました。でも、地元の人には相当警戒されましたよ。得体の知れないヒッピーみたいな連中が突然やって来て、暮らし始めるわけですからね。

夜になると毎晩聞いたことのない異国の音楽と、甘い匂いが漂ってきて(笑)。

粕谷 甘いほうかな(笑)?

麻田 好き放題やってましたね(苦笑)。基本的に日本人は米軍基地の中には入れなかったのですが、7月4日の独立記念日とか、年に数回は開放されていたので、そんな日はみんなで遊びに行きました。カントリースタイルのアメリカ人がダンスを踊るのをみんなで見たり、バーベキューをしたり、バドワイザーを飲んだりね。当時狭山に住んでいた人たちは、この雰囲気を知ってると思いますよ。

この写真集に掲載されている写真を見ると、もう今とは別世界ですよね。この写真なんて、つげ義春みたいな日本の土着的な世界と、キラキラした『アメリカン・グラフィティ』みたいな世界との対比が、シュールですらあります。
狭山の街並みと市営プール。
狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』より。

粕谷 関西の友人にそういうことを話したら、「これって東の文化だよな」って言われましたよ。

麻田 ああ、関西の人って進駐軍のことを知らないですよね。ただ、大瀧詠一くんは三沢基地(青森)、鮎川誠くんは板付基地(現在の福岡空港)から流れるFENを聞いていたんですよ。

そうか、日本のロックやニューミュージックは、米軍基地やそこから流れるFENにアクセスできた人たちが生み出した側面が強いわけですね!

粕谷 その象徴が国道16号線ですよ。

横須賀から横浜、八王子、福生、入間、川越ときて、千葉の柏を通って木更津のほうまで続いていく、あの16号線ですか。

粕谷 そう。この狭山もそうだけど、戦後米軍の基地は、国道16号線沿いに集中してつくられたから。そこからもたらされるアメリカ文化を吸収した若い世代が、新しい音楽を生み出した。ここに住んだ細野さんや小坂さんもそうだけど、福生の米軍ハウスに住んだ大瀧詠一さんや、八王子が実家だったユーミンなんて、まさにその象徴だよね。柳瀬博一さんの『国道16号線』っていう本は読んだ? 絶対読んだほうがいいよ。

こちらは今もなお米軍基地文化が根付いた、福生の横田基地。

麻田 あれは面白かったですね。

粕谷 国道16号線の歴史を、石器時代まで遡って紐解いているんです。米軍は、日本に来て、そんな歴史や地政学的に優れていたことなど知らなかったとしても、いい場所を選んだってことだよね。

すぐに買います! でも、今ここに住んでいるミュージシャンはそんなに多くないんですよね?

麻田 そうです。今はぼくと洪栄龍くんくらいですね。細野くんは売れてきて、スタジオ仕事が増えたので2年後には奥さんの実家に移っていきました。忠(小坂忠)は比較的長く住んでいましたが、その後秋津に教会をつくり出ていきました。ぼくは都内に移ったこともあるけど、なんだかんだいって米軍ハウスは借り続けて、今は3軒目。住み始めた頃は仲間とシェアしてたけど、ここで結婚もして子供も生まれました。バイクや自転車といった乗り物をいじるのが好きだったし、友達もたくさんできましたからね。

米軍ハウスに住んでいた71〜72年頃の麻田さん。当時は珍しかったラコステのポロシャツをすでに着ている!
実は入間には「ジョンソンタウン」という米軍ハウスが集合した商業施設や賃貸住宅があって、まだ住めるんですよね。ぼくもちょっと興味があるんですが、いかんせん埼玉県としては家賃がけっこう高くて(笑)。

麻田 あそこまでいくと観光地ですからね(笑)。今は狭山の米軍ハウスは本当に少なくなりました。

今回のインタビューにご協力いただいた、狭山アメリカ村にあるアンティークショップ&カフェ「ブリキッカ」。店主ご夫妻も米軍ハウスに惹かれこの地にやってきた方々だ。営業時間等はInstagramを確認して。
住所/埼玉県狭山市入間川4-14-6

あのミュージシャンも
麻田さんが日本に連れてきた!

それにしても、〝呼び屋〟としての「トムス・キャビン」、すなわち麻田さんの実績はすごいですね! 初期はトム・ウェイツとかエリック・アンダーセンのようなシンガーソングライターですが、その後はソウルのオーティス・クレイ、エルヴィス・コステロのようなブリティッシュロッカー、さらには「トーキング・ヘッズ」「XTC」「ラモーンズ」といったパンクやニューウェイブ系・・・。振り幅が広すぎます(笑)。

麻田 そうですね。最初はシンガーソングライターとか、ブルーグラスっぽいのをやってお客さんもついてきてたんですけど、ぼくはずっとやってるとつまんなくなっちゃうんですよ(笑)。そんなときに「ビルボード」って雑誌を読んでたら、イギリスでは「スティッフ」というレコード会社がコステロみたいなインディーズのミュージシャンを集めて、自分たちでバスを借りてみんなでツアーを回ってる、なんて記事があって。それですぐに「スティッフ」の電話番号を聞いて、即電話しました。

それって、ビジネス的な意味合いが強いんですか? それとも好きっていうことですか?

麻田 ぼく、音楽に対しては節操がないんで(笑)。常に何が面白いのかって探してきたんですよ。売れるからといってやったことはない。自分が好きなものしかやってこなかったと思います。

粕谷 最初に「こんなの売れないでしょ」なんて言われると、もう話したくなくなるよね(笑)。そういうことじゃないんだよ。

とはいえ、ものすごいリスキーな仕事ですよね? 当時はメールもないし、そもそも雨が降ったらどうしよう、という世界ですし。

麻田 まあ、売れなかったら大変ですし、メシだって食わなくちゃいけませんからね。それでも結局、自分が聞きたいアーティストを呼んじゃうんです。ただ、ぼくの場合隙間をついていたから、なんとかなったのかな。「トーキング・ヘッズ」も「ラモーンズ」も、まだ売れる前だからギャラも安かったし、ニューウェイブ系ってホテルで暴れたりクスリをやったりするから、ほかの呼び屋は怖がって手をつけなかったんですよ。

粕谷 ただ、麻田さんが成功させると、大きなプロモーターが金になるって目を付けちゃうんですよね。

麻田 それはしょうがないですね。でも、これでやっていけるかなっていうときに、突然スポーツ紙に「トムス・キャビン倒産か」なんて記事が書かれてしまった。ぼくらのことなんて、普通の人は誰も知らないですよ? 不審に思って調べてみたら、その記者がとある大手のプロモーターから、お金をもらって記事を書いたということを白状して。

目の敵にされていたわけですね。

麻田 そんな記事が出たら、せっかくサポートしようと思ってくれた方々だって、手をひいちゃいますよね? それで仕方ないから倒産の道を選びました。その後は「ゴダイゴ」のマネージメントをしていたジョニー野村(※2)に誘ってもらって、彼のもとで仕事をしました。1回ブッキングすると給料以外に10万円もらえたから、それでずいぶん借金を返したんですよ。ジョニーからは「音楽って権利ビジネスだから、権利を持たないとダメなんだよ」と、盛んに説教されましたね。それでぼくも彼の教えを守って、SIONや「ザ・コレクターズ」をやるようになったんですよ。

※2/横浜育ちの音楽プロデューサー。タケカワユキヒデさんとミッキー吉野さんを引き合わせた、「ゴダイゴ」結成の立役者。妻の奈良橋陽子さん(のちに離婚)に作詞を任せ、そのプロデュースを手掛ける。長男は俳優の野村祐人さん。
うわあ、ぼくは90年代、モッズにどハマりして、「ザ・コレクターズ」の大ファンだったんですよ!

麻田 ああ、そうなんだ。ぼくもモッズメーデー(※3)に出ていた連中はみんな大好きだった。のちに「オリジナルラブ」を結成する田島貴男くんの歌もよかったけど、最終的に「ザ・コレクターズ」をやるようになって。

※3/1981年にスタートした、日本におけるモッズの祭典。田島貴男さんは「レッド・カーテン」というバンドで参加していた。のちに「ザ・ブルーハーツ」を結成する甲本ヒロトさんや真島昌利さんも、1980年代の東京モッズシーンにおける中心人物だった。
そういえば「ピチカート・ファイヴ」に田島貴男さんを入れたのは、麻田さんという噂もありますが?

麻田 いや、「ピチカート・ファイヴ」に関しては細野くんから頼まれて、最初は陰で応援していたくらいだったんです。リーダーの小西康陽くんが田島くんを入れようと提案したときには、もちろん大賛成したんですが。彼らは〝テスト盤の大王〟って言われていて(笑)、業界人に人気だったからテスト盤はすぐ売り切れるけど、実質的には本当に売れなかった。小西くんは凝り性だったからいいミュージシャンばかり使って、本当にお金がかかったんですよ。今だったら3万枚ってすごいけど、あの当時はミリオンヒットの時代だったから、結局ソニーから切られちゃいました。それでぼくがコロムビアに持って行って、レーベルをつくってもらったんです。ぼくは途中で手を引くんですが、海外と日本でそれぞれ20万枚くらい売れるようになったので、まあよかったのかな。

80年代は、3万枚売っても切られちゃう時代だったんですね。今とはえらい違いだなあ(笑)。そういえば麻田さんは最近、中国圏に注目されているらしいですね。

麻田 そうなんです。コロナ前は、中国にずいぶんブッキングしてましたよ。深圳は経済特区だからなのか、ヒッピーとかアートの雰囲気が漂う街があるんです。そこでは書店とレコード店とカフェを兼ねたお店をやってるような連中が、800人くらいは入るようなライブハウスも経営しています。

え〜っ、深圳って、30年前はなにもなかったような場所ですよね?

麻田 すごく面白いですよ。そのライブハウスから、いきなりマーク・リボー(※4)をやりたいと言われたので、興味を持ってわざわざ行ってみたんですが、山下洋輔さん(※5)のライブで満杯になっているわけです。次の日は隣のカフェでトークショーをやるというので見に行ったら、「60〜70年代におけるドイツのアバンギャルド・ミュージック」というテーマにも関わらず、それも満杯(笑)。お客さんの1/3くらいは女の子ですよ。彼ら自身はもちろん、親の世代もそういう文化を知らないじゃないですか。だから全然情報を持っていないだけに、もう飢えているんです。

※4/実験音楽やフリージャズの世界で知られるギタリスト。トム・ウェイツやエルヴィス・コステロ、SIONなど、麻田さんが手がけるアーティストと深く交流をもつ。
※5/日本を代表するジャズピアニスト。
それはエキサイティングだなあ! ぼくも行きたくなってきました。

粕谷 中国はネットに制限があって情報収集に限界もあるから、逆にリアルを求めているのかな。

麻田 そのとき、戸川純もやりたいって話だったから「入るの?」って聞いたら、1000人入るって。今だと5000人以上の規模らしいですよ。昔の「ヤプーズ」の曲とか『バージンブルース』とかを、みんなで合唱してました。純ちゃんは最近体調が悪いみたいだけど、1000人が合唱してくれたら、そりゃ興奮しますよね。

サブカルにおけるスノッブ中のスノッブである戸川さんが5000人・・・! アジア圏ではものすごい熱気が渦巻いてるんですね。聞いてるぼくも興奮してきました! こういう新しいムーブメントをキャッチしている麻田さんにも驚きですが。

粕谷 もうひとまわりしちゃって、若い子たちはデジタルに飽きてるんじゃないかなあ。だから紙の本だって、これから絶対にブランドになるんだよね。レコードを漁る感覚でさ。

アメリカ村のために始めた
「ハイドパーク・ミュージック・
フェスティバル」

2023年、狭山稲荷山公園で開催された「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」の模様。美しく芝生が敷き詰められた、最高に気持ちのいい空間だった!
年季の入ったウエスタンスタイルが猛烈に格好よかった麻田さん。最近では19歳の天才ミュージシャン関口スグヤくんもウエスタンハットを愛用しているし、チェックしておいたほうがいいかも!?
実は今回取材を申し込んだのは、今年の4月に麻田さんが主催された「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」がきっかけだったんです。「加藤和彦トリビュートバンド」の取材が目的だったんですが、あれは最高の空間でした。「ムーンライダーズ」の尖った演奏に若い子たちがノリまくってたり、おじさんたちが若いバンドを発見したり、まさに「ぼくのおじさん」が理想とする交流がここにはあったな、と思って。

麻田 そうですか。実はこのイベントは、2005年と2006年にも開催したんです。きっかけは、狭山の若い自転車仲間たちに頼まれたこと。彼らは子供の頃、親から「アメリカ村には行っちゃいけない」と言われていた世代なんですよね(笑)。そんな彼らに「またハイドパークに戻ってきて歌ってもらえないですか?」なんて相談されたので、細野くんと忠に聞いたら、ふたりとも快諾してくれたんです。

狭山の米軍ハウスで『HOSONO HOUSE』のレコーディングをした細野晴臣さん。そして『HORO』をつくった小坂忠さん。小坂さんはその後牧師になり、所沢市の秋津に教会をつくった。
上写真は『狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』より。

粕谷 2005年のときは、収益の一部を公園の改修費に寄付したんですよね?

麻田 その目的もありました。忠は第1回目のとき、ステージから降りるや否や「これ最高だから続けていこうよ。ぼくいつでも出るからさ」なんて言ってくれました。でも2年目に赤字を出して、3回目を開催できない間に、忠は亡くなってしまうのですが・・・。だから今年、17年ぶりに「ハイドパーク」を再開したのは、忠のトリビュートをやりたいというのが一番の目的でしたね。残念ながら細野は出演できなかったのですが。

粕谷 ロゴはWORKSHOP MU!!の眞鍋さんがデザインしたんですよね。『狭山 HYDE PARK STORY 1971〜2023』の装丁も眞鍋さんにやってもらったんだけど、こっちはタイトルに漢字で「狭山」って入れてるから、すごく悩ませちゃった(笑)。

いやあ、素晴らしかったです。トリビュートバンドもさることながら、たくさんの若いミュージシャンたちに出会えたのも収穫でした。もちろん粕谷さんの本も買いましたよ(笑)!

麻田 加藤和彦に声がそっくりだった「たけとんぼ」の平松稜大くんとか、大瀧詠一が大好きな19歳の関口スグヤくん。「踊ってばかりの国」、「いーはとーゔ」・・・。みんなよかったですよね。ぼく、絶対に「ハイドパーク」を再開しようと思っていたから、若い人をずっと観に行って、目を付けていたんですよ。

すごい! いまだに十代のミュージシャンにもアンテナを張り巡らせているんですね。

麻田 今回は大人たちが、彼らのことを好きになってくれたのが嬉しかったですね。そして子供たちもたくさん来てくれたし。

ケルト音楽とブルースをルーツとするインストバンド「ハモニカクリームズ」。近年は海外でも人気だ。

粕谷 彼らはみんなセンスよかったですよね。あと、「ハイドパーク」は規模感もよかった。公園だからゲートの向こうでタダで聞いてる人もいたけど(笑)。

しかし実際問題、野外フェスのオーガナイズって気が気じゃないですよね? 今回は初日こそ快晴でしたが、2日目はちょっと天気が崩れてしまったので、心配はしていましたが・・・。実際のところ総括としてはどうだったんですか?

麻田 まあ、経済的にはダメでしたね。天気に関してはつらいところで、2日目は初日の半分の入りでした。初日の天気が2日続いたらよかったんですが。

粕谷 でも、野外フェスって雨がつきものなんですよ。なぜかわからないけど、降らないのが珍しいくらい。それが思い出になるわけだから、雨が降っても来てほしいね。

麻田 でも、本当に評判はよくて「またやってほしい」という声がたくさん寄せられました。来年はサポートしてもいいという企業がいくつか出てきているので、なんとか立て直して続けたいですね!

おお〜っ、またやるんですね。素晴らしい! ものすごく魅力的なイベントですし、狭山や入間という地域のブランディングにとっても、非常に意味のあるものだと思いますから、協賛企業をここで募っておきましょう(笑)。今日は麻田さんと粕谷さんの衰えない感性と情熱に感服しました。ありがとうございます!
本日深夜! BSフジでドキュメンタリー番組が放映!

7月1日の深夜25時〜27時に、BSフジで今回紹介した「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」の模様が放送されます! カメラを回したのは、「ぼくのおじさん」のインタビューにも登場したことのある、フォトグラファーの井出情児さん! 麻田浩さんも松山猛さんも登場するので、ぜひご覧になってください。

麻田浩

1944年横浜出身。ミュージシャンやラジオパーソナリティ、ツアーマネージャーなどを経て、1976年に「トムス・キャビン」を設立。トム・ウェイツやエルヴィス・コステロ、「トーキング・ヘッズ」など、様々アーティストを招聘する。1980年代以降はSIONや「ピチカート・ファイヴ」から「ロリータ18号」まで、ジャンルに捉われず優れた日本人のアーティストを発掘した。著書に『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』(奥和宏氏との共著)がある。

http://toms-cabin.com

https://twitter.com/AsadaTomscabin

粕谷誠一郎

1951年東京出身。POPEYEの定期創刊(1977年3月)から編集部員として参加。独立後は編集プロダクション「CLICK」を設立、ANAの機内誌「翼の王国」の編集長として活躍する。現在は〝失われつつあるフィルム写真の素晴らしさを、新しい形で伝える〟ことを目的に、『Dear Film Project』を仲間と設立。写真集やZINEなど、素敵な紙の本をつくり続けている。

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