

〝熊本の有田さん〟って誰?
(怒涛の本編)
「ファッション王国」を
つくったおじさんが考える
これからの洋服屋って?
撮影・文/山下英介
〝熊本の有田さん〟こと有田正博さんの伝説は、ここからが本番だ! てことで2024年11月をもってファッション業界を引退された有田さんを追いかけて、熊本のシャワー通りでインタビュー。今までファッション雑誌では語られてこなかった、熊本という視点を通した知られざる日本のメンズファッション史と、これからの洋服屋について考えることを伺ってきた。
熊本にとってのアメリカは
返還前の沖縄だった

有田さんはもともと熊本の方なんですよね?
有田正博 そうです。生まれは八代といって、熊本から南に40キロ程度離れたところです。そして中学3年生のときに熊本市に引っ越してきました。高校までは行ったけど、もう今までずっと遊びの人生ですね。お店もずっと、自分の楽しみのためにやってきました。
のっけから気持ちよく言い切りますね(笑)。当時の熊本って、どんな街だったんですか?
有田 世の中的にはVANが提案していたアイビーブームの終わりかけでした。70年代に入って、だんだん弱くなってくるのですが。でも、ぼくが中学生だった60年代後半までは、〝ファッション〟という言葉さえ知られていなかったように思います。「ビギ」はぼくがやる前からお店があったかな。
有田さんご自身もアイビーだったんですか?
有田 そうですね。ぼくは九州学院高校の出身なんですが、あそこは歴史あるプロテスタント系の学校なので、アイビー的な雰囲気が漂っていたんですよ。ぼくの卒業後に、後輩たちが「アイビー・スピリッツ・ファンクラブ」というグループを結成したときは、OBながら取りまとめ役を頼まれました。


熊本や福岡って、戦前からお洒落な人が多いエリアとして知られていたようですが、やっぱり装いに対する意識は高かったんですか?
有田 服に関してはそうだったかもしれません。それはもともと物価の安いエリアだから楽に生活ができて、若い人でも洋服にお金がかけられるという意味もあるんですが。でも、インテリアまでは手が回らないから、ぼくが80年代までに出してきたお店は100%服でした。インテリアを扱うようになったのは、2000年代以降ですね。
有田さんにとってのファッションの原体験って、やっぱりアメリカだったんですか?
有田 そうですね。親世代はヨーロッパ志向だったと思いますが、ぼくたちが中高生の頃はアメリカです。
1960年代後半、東京のアイビーシーンは福生や横須賀に代表される米軍基地が震源地だったと思いますが、熊本にはそういう基地カルチャーってあったんですか?
有田 ありましたよ。熊本って沖縄が近いから。
ああ、沖縄ですか! 当時におけるリアルアメリカですね(笑)。
有田 返還前からですね。だからお店を始めた最初の頃は、ぼくは軍モノを沖縄から仕入れていました。チノパンとか、ベトナム戦争時の余剰品が新品で大量に集まっていたから。スニーカーブームのとき、アメリカからぜんぜんモノが来なくて東京のショップの人たちはずいぶん困っていたみたいだけど、ぼくは沖縄から仕入れてるから全然大丈夫(笑)。
「ビームス」よりも早い!?
リアルなアメリカがあった

そういうルートがあったんですね! 有田さんがお若い頃は、シャワー通りはすでに若者が集まるファッションストリートだったんですか?
有田 シャワー通りという名前は後になって誰かが付けたもので、もともとは赤線地帯だったんですよ。ぼくが「アウトドアスポーツ」というお店を出して2年くらいは、まだ通りに女性が立っていましたもん。
それは知りませんでした! そこでファッションのお店を始めたのは、有田さんが初めてだったんですか?
有田 そうですね。最初に出したお店はシャワー通りの一番先にありました。実はもともと少し家賃の高い別の場所を借りる予定だったんですが、この通りで床屋をやっていたじいちゃんばあちゃんの知り合いが、「俺がお店をやめるからこっちでやりなさい」と。聞いてみたら坪1万円で借りられるというものだから、途中でキャンセルしてそこを借りたんです。家賃7万円からのスタート。ラッキーでしたね。
「アウトドアスポーツ」のオープンは1976年ですか。ビームスの創業年と全く同じですね!
有田 そうそう、一緒なんですよ。アメ横のミウラさん(現「シップス」)はもう少し早いけど、ウチは昭和51年の11月5日。本当はその前から開けてたんですけど、初めて商品が売れたのがその日だったので、オープン日ということにしたんです(笑)。4800円のヨットパーカーでした。結局その11月だけで66万円くらい売り上げがあったので、これはもう潰れないな、と思いました。その時の売り上げノートは今でも持っています。

「ビームス」など東京のセレクトショップ界隈の方々とは、当時からお付き合いがあったんですか?
有田 いや、当時は全く知りませんでした。「ビームス」の皆さんとも、ぼくが原宿に行くようになってから知り合ったんですよ。まだ重松理(しげまつおさむ)さんをはじめとする創業メンバーの4人がお店にいた頃です。それこそ当時東京では手に入らなかったコンバースを、沖縄から仕入れて送ってあげたこともありましたよ。皆さんが覚えているかわからないけど(笑)。
それはすごい! 1976年といえば雑誌の『POPEYE』が創刊した年でもありますが、有田さんのお店は熊本だから、あまり影響はなかったですか?
有田 いや、あれは創刊と同時にものすごい反響がありましたよ。ただ、ウチでは大学生というより高校生からの反応がよかったです。当時はまだインポート商材を扱っているのは2社くらいでしたが、ぼくがお店をやり始めたくらいから、どんどんマーケットが大きくなっていきました。
九州どころか、全国的に見ても有田さんのお店は早かったわけですね。
有田 ぼくは重松理さんの3つ下なんですが、キャリアに関しては一番長いほうでしたね。1974年にはすでにアメリカに行ってたし。当時のスタイルは、コンバースの3本ラインが入った黒いトラックシューズにリーバイスの『646』を合わせて、上にはタイダイのサーマルTシャツ、みたいな感じでした。
お〜、ちょっとヒッピー入ってる感じですね?
有田 その頃はヒッピーたちが郊外からサンフランシスコの街中にやってきて、道端で露天を始めてベルトのバックルを売ってるような時代でしたね。やっぱヒッピーたちもお金を稼がないといけなかったから、街に出たかったんでしょうね(笑)。なんかいい時代でしたね。


皆さん仰られますよね。
有田 70年代は映画もよかったです。アメリカンニューシネマの時代だったから。ぼくは全部観たし、すごく影響されましたね。
1970年代といえば、まだ海外買い付けのシステムもできてない頃ですよね?
有田 ぼくが「アウトドアスポーツ」を創業した頃は、輸入代理店はまだ2社しかなかったし、もう手探りです。現金を大量に持ってソウル経由でアメリカに渡って買い付けて、スーツケースに洋服を詰めて帰ってくるような。当時はアメ横にしょっちゅう行ってたんですが、新しく入荷したアメリカものをトランクに詰めて、セールスに回っている人がいましたよ。
日本のロンドンブームは
熊本から始まった!

70年代って本当にすごい時代で、アメリカ西海岸のライフスタイルが隆盛を極めていたと思えば、77年頃にはロンドンでパンクムーブメントが発生する。1年単位でトレンドが変わる、激動の時代ですよね。有田さんも79年にはよりモードというか都会志向の「ブレイズ」というお店を出店されますが。
有田 そうですね。第一次ロンドンブームは「ブレイズ」が仕掛けました。79年から3年くらいでしょうか。熊本が〝ファッション王国〟なんて呼ばれるようになったのも、その頃からかもしれません。実はロンドンに行く前に、ぼくはイタリアに行ったんですよ。そしたらどこに行っても「ウチはビームスさんとやってます」と言われちゃう(笑)。それで島津(スタイリストの島津由行さん)に相談したら「ロンドンに行ってみれば?」と。それで行ってみたらもう、ガラ空きなんですよ。まさに穴場だったんです。



有田さんといえばポール・スミスを日本で初めて買い付けたことで知られていますが、ポールさんともそこで知り合ったんですか?
有田 ポール・スミスさんとはニューヨークで知り合ったんです。1980年にニューヨークで開催されたデザイナーズ・コレクティブ(合同展示会)に吉田克幸さん(現ポータークラシック)が出展していたんですが、そこで彼に紹介されたのが、出展者のひとりだったポール・スミスでした。ホテルの一室での展示で、まだ商品数も少なく10点くらいでしたが、そこで初めて買い付けました。彼は人間性もいいし、働きもすごくよかったですね。そんな交流から、1986年にポール・スミスが熊本のシャワー通りに出店するとき、彼の推薦によってぼくがフランチャイジーを務めたんです。


携帯もFAXもなかった時代なのに、有田さんをはじめとする当時のバイヤーやデザイナーさんたちは世界中を飛び回って交流を深めていたんですよね。ものすごいバイタリティだなあ。
有田 英語も全然ダメなのに、電話帳を調べてブランドにアポを取って、汚い格好で尋ねてね。ものすごい恥ずかしかったけど。支払いの方法もわからなかったからポケットから200万か300万円分のドルを出したら、「あなた絶対に街中で見せないでよ」って怒られました(笑)。

まだ現金買付けだったんですね。でも当時の映画を観るとわかりますが、80年頃のニューヨークとかロンドンってものすごく治安悪いですよね? 街中で焚き火してたり(笑)。
有田 それはまさにイーストビレッジで見た光景ですね。賑やかな大通りから小さな路地に入ったら、黒人の怖い人たちがドラム缶でバンバン焚き火してて。怖かったなあ。ニューヨークは1980年から85年くらいまで通ったんですが、それくらいを境に、個人経営のいいお店が忽然と消えました。その後はGAPみたいなチェーン店ばかりになってしまったので、ぼくは冷めちゃいましたね。
西海岸ブームから数年で、ロンドンやニューヨークが買い付けの中心になったんですね。ポール・スミスをはじめマーガレット・ハウエルやキャサリン・ハムネットなどが続々と日本に上陸してくる流れが生まれたという。
有田 ぼくはもう影響受けやすいので、ニューヨークに行き出したらそういうお店になっちゃうし、ロンドンに行き出したらまたそういうお店になっちゃうんですよ(笑)。でもパリに行ったときは、当時のパリジャンたちがみんなアメリカかぶれだったので驚きましたね。当時はまだ工事中だったレ・アールのまわりに「ウプラ」とか「グローブ」みたいなお店がいっぱいありました。アメリカに飽きてフランスに行ったのにまたアメリカか、みたいな(笑)。
「グローブ」は、「アナトミカ」の創業者であるピエール・フルニエさんが最初にオープンさせたお店ですよね?
有田 そうです。ぼくは「グローブ」には1979年に初めて行ったんですが、16区のグランド・アルメ通りに新しいお店を出すと教えられました。それが「エミスフェール」。ものすごく大きなフィッティングルームが3つあって、映画俳優みたいなお金持ちの顧客がたくさん集まっていました。そんな光景を見たら帰国のときにはパリみたいな格好になっちゃう。行く先々で感化されちゃうんですよ(笑)。
そういえば、有田さんが引退されたことは、ポール・スミスさんには伝えたんですか?
有田 いや、直接は伝えていないです。風の噂で知ってるんじゃないかな。でもね、彼とはどういうわけか、なにかあると道端でばったり会うんです。だから近々、どこかでまたばったり会うんじゃないかなあ。




ファッション業界に
熊本人が多い理由

熊本のお客さんは、有田さんが次々と提案する斬新なスタイルについて来られたんですか?
有田 感度の高い高校生のお客さんなんかは、修学旅行の小遣いを東京で使わずに、帰ってきてからウチで買ってくれました。それがひとりやふたりじゃなくて、10人も20人も・・・。あれは嬉しかったですよ。熊本市は人口がそう多くないので(70万人程度)、流行が行き渡るのも早い。だから東京よりも進んでいたという側面もあるんですけどね。
さっきお話に出たスタイリストの島津由行さんも、学生時代は有田さんのお店のお客さんだったとか。島津さんはアルバイトだったんですか?
有田 島津は働いていた・・・のかな(笑)?
じゃあファンや弟子みたいな存在ですか?
有田 う〜ん、そんな感じではないですね。家族みたいなものかなあ。彼と出会ったときはまだ中3か高1くらいだったんですが、アメリカにも一緒に行ったんですよ。ぼくたちがアメリカに行く計画を立てていたら、彼が「ぼくも一緒に行きたい」と言うものだから、学校の先生にも許可を取って来させてね。島津とはずっと途切れずに付き合いが続いています。ウチのことを一番最初から見続けているひとりですよ。

島津さんを筆頭に、ファッション業界の大物で有田さんからの影響を公言される方は本当に多いですよね。スタイリストの馬場圭介さんもそうですが。
有田 彼はもともとロンドン好きで1980年代に渡英するんですが、島津がパリにいたことも大きかったんじゃないかな。パリにふたりもいらないということで。彼らの存在をきっかけにして、熊本出身のスタイリストがいっぱい出てきたんです。
熊本や福岡出身のファッション業界人が多いのは、なにか理由があるんですかね?
有田 福岡はまた事情が違うんですよね。感覚的に大阪が近いので。熊本は洋書屋さんも少なかったし、東京や大阪と比較すると情報が圧倒的に少なかったという格差はあるんですが、熊本は感覚がいいって言うか。よく高校生のお客さんが来て「もう学校に行きたくない」なんて言われると、「じゃあ好きなことやれば」って。そんなふうにして東京に出て行って活躍した連中が10人くらいはいたかなあ。
有田さんのお店が登竜門だったわけですね(笑)。
有田 そのかわりぼくが歳を取った今は、ぼくが彼らをダシに使ったりして(笑)、楽しくやらせてもらってます。
熊本駅を降り立ったときに目の前に広がる景色を見ると、ここが1980年代に〝ファッション王国〟と呼ばれていたことが本当に不思議に思えちゃいます。有田さんはマーケットの大きな東京に進出しようとか思うことはなかったんですか?
有田 全く思わなかった。だって熊本のほうが面白いし、熊本人の気質が好きだったからね。もしウチが東京にあったら、業界の論理に巻き込まれちゃっただろうし。ビジネスが上手なのとファッションが上手なのとは、また違う話だから。だから、東京の大きな会社の人たちはみんな熊本に来てましたよ。
悠々自適な釣り生活から
さらに〝濃い〟お店へ

熊本を〝ファッション王国〟と呼ばれるほどのエリアに育て上げた有田さんですが、一度ファッションビジネスから離れちゃうんですよね?
有田 釣りに夢中になって、38歳から48歳までの10年間は毎日釣りをしていたんです。お金もあったし、小さい頃から釣りが好きだったしね。その10年間は石鯛釣り専門でした。カラダもばりばり動くので、パラオとかバリとかに行きまくって。今じゃとてもあんな釣りはできません。
働き盛りに好き勝手やってたわけですね(笑)。90年代の日本といえば、アルマーニやクラシコイタリアみたいなブームが起きましたが、そういうのにも興味がなかった?
有田 そうですね。ぼくとしては熊本の街には合わないなって。
それでも復帰されたのはどういうわけだったんですか?
有田 離婚して、財産分与して土地買って自分の家を建てたらまた一文なしになったので働かなきゃって(笑)。それで1999年に銀行から500万円借りて始めたのが「パーマネントモダン」です。




それは失礼しました! そうか、そのときに「ポール・スミス」と「ブレイズ」のお店は有田さんの手から離れているわけですね・・・。じゃあ、それがなかったら一生釣りしてたかもしれませんね(笑)。でも復帰後につくった「パーマネントモダン」は、年齢を重ねたからといってコンサバ方向に行くでもなく、さらに攻めたお店にしちゃったわけだからすごいです。
有田 スーツやジャケットなんかは、自分で絵を書いて大阪のテーラーにお願いしたりね。50年前のデザインだったらただのクラシックで終わっちゃうから、ぼくがやるのは100年前のデザイン。それならファッションにもアバンギャルドにもなるから。「パーマネントモダン」はそんなぼくの考えを理解してくれるブランドやつくり手さんに、ちょっとずつオーダーして顧客の方に買っていただく・・・というか届けるというやり方でした。で、気に入ったらずっと買い続けて、一緒に育てていく。
そうやって新しいものに挑み続けたことがすごいです!
有田 趣味みたいなもんですよね。その中でめいっぱいのことをやってきました。1000円だろうと20万円だろうと関係ないし、他人から見たらゴミのように見えるようなものだって、自分がいいと思えばいい。このお店ではそんな自分の精神を表現したつもりです。取引先からは〝日本一わがままなバイヤー〟って言われてましたからね。
趣味、ですか!
有田 うん。でも、ぼくみたいな考え方で経営している人っていないですよ。いつ潰れてもおかしくないような小さなお店だったけど、独自の考え方に基づいてやってきたから潰れなかったと思うんですよね。ちょっと売れ出したからといって調子に乗ることもないし、貧乏だからって卑屈になることもない。まあ、楽しかったですよ。熊本の人たちが共鳴してくれたおかげですね。



大手の商社やセレクトショップが扱わない隠れた名品を探し回った「パーマネントモダン」の日々。ドイツ、ベルギー、スイス、オーストリア、オランダなどの若いクリエイターたちを発掘し、時間をかけて育ててきた。写真下段右はアムステルダムの巨匠グラフィックデザイナー&アーティスト、カレル・マルテンスだ。





有田さんが着ているものはいつも注目の的。そういえば〝ヴィンテージシューズ〟という概念にいち早く目をつけたのも有田さんだった。ちょっとタンタンを彷彿させるスタイルも!?
自分をプロだと
思ったことがなかった


そんなふうに手塩にかけて育ててきた「パーマネントモダン」の閉店を決断した理由はなんだったんですか?
有田 いや、もうコロナ前からいつ辞めようかな、とは思っていたんですよ。多分スタッフのみんなも感じていたと思うけど。それで今回ちょうどタイミングが合ったというだけのことです。
今はどんなふうに過ごされていますか?
有田 釣りが一番楽しいです。でも今72歳で体はだんだん弱くなったから、磯に行く回数は激減しました。なので近場の堤防でチヌ釣ったり。そんな感じです。
楽しくやられているんですね!
有田 そうですね。今はジャズ&ブルースドラムと釣りに夢中。
ドラムはこの間の〝引退記念パーティ〟でも拝見しました! すごい腕前ですね。
有田 でも50代になってから始めたんですよ。先生からはもっと練習すればすごくいいドラマーになれるって言われたんですが、でも練習しないもんね(笑)。
あ、練習しないんですか(笑)。
有田 勉強嫌いなんですよ。ファッションの勉強だってしたことないし、なんならファッションのプロになろうと思ったこともない。アマチュア精神があったからやってこれたんです。そういえば家具デザイナーのフィンユールは、木のことをあまり知らなかったらしいです。職人たちとは喧嘩したそうですが、知らなかったからこそ、あんな独自のデザインがつくれたんじゃないかなあ。
永遠のアマチュアイズムですね。
有田 あとは今年の終わりくらいになると思うけど、宇城市の「不知火美術館」でぼくの展示が行われるんです。ミーティングはこれからなんですが、『有田正博の眼』みたいな感じになるのかなあ。
※2025年12月6日〜2026年1月28日開催予定!
なんと! 今まで扱った商品のアーカイブ展みたいな?
有田 いやぼく、モノを取っておかないタイプなんですよ。なんでもあげたりしちゃうから(笑)。でもモノというよりイメージが大切で、ぼくが生まれてから今までどういうふうに暮らしてきたのか、そして何を下地にして成長してきたのか、みたいな精神を伝えたい。そのついでに椅子が一脚置いてあったり、そんな展示になると思います。
なんだか全然〝引退〟って感じがしないですねえ・・・(笑)。
有田 ショップの経営という仕事を引退するというだけのことですからね。そもそもぼくは仕事を〝労働〟と思ったことが一度もないから、今までも、そしてこれからも、ずっと遊びの人生です。


洋服を売るだけではなく、さまざまなイベントを通じて熊本の地にファッションカルチャーを根付かせた「パーマネントモダン」。シャワー通りをみんなが楽しく歩き、一息つけるストリートに育てたのも、有田さんの功績だ。


これからのお店のあり方って?

しかし「パーマネントモダン」がなくなると、熊本のお客さんは寂しいでしょうね。シャワー通りもほかのエリアも、大手資本のチェーン店がずいぶん増えましたし。
有田 そういう意味では、自分たちのやってきたことに意味はあったんだなと、今になって思いますけどね。店って、流行ったり宣伝されていくほどつまらなくなるんですよ。だからぼくはひとつの流れが生まれそうなとき、無意識に自分で壊していたんでしょうね。壊したらまた違うスタイルにして、の繰り返し。自分のスタイルもそうだけど、もうごちゃごちゃだよね(笑)。でも、これは初めて言うけれど、自分がやる店には常にサブタイトルがあったんですよ。
サブタイトル?
有田 「アウトドアスポーツ」なら〝ベーシック&ポップ〟。「ブレイズ」のときは〝クラシック&アバンギャルド〟。そして「パーマネントモダン」はそのまんまだね(笑)。そうしたテーマをもとに自分の感性で買い付けるわけだから、商品が変わったとしても統一感は出ていたと思うんです。
また昔みたいなお店をやる予定はないんですか?
有田 そういうお客さんもいるんですが、ビートルズにまた昔みたいな演奏やってよ、って言っても、彼らは喜ばないでしょ? ジャズの演奏でもそうだけど、せっかく生きてるんだから、人生にも自分なりのアレンジがないと面白くないじゃないですか。
自己破壊を繰り返したからこそ、半世紀にわたって最先端をいく店であり続けたと言うわけですね・・。そんな有田さんから見て、これからのセレクトショップってどうなっていくと思われますか?
有田 今までみたいに、半期ごとにルーティンのように仕入れしていくような店は弱くなっていくんでしょうね。それに対してぼくがやってきたのは、自分というフィルターを通して、自分が産んだようなモノを売る店です。でもいよいよ、世の中のセレクトショップもウチみたいなスタイルに回帰していくんじゃないですか? 店づくりにしても、ビジネスにしても。ひとりで活動しているようなアーティストやデザイナーに絶えず会い続けて、店を構成していく。そういう店がこれから魅力的に見えてくるんだろうな、という予感はしますね。普通の商業デザイナーは、もうダメになるんじゃないかな。

大規模な展示会もそろそろ曲がり角なんですかね?
有田 そうなんですけど、今はかわりにコアな人たちが出やすくなったから。てことは濃い店の時代ですよ。
「濃い店」ってなんだと思いますか?
有田 オーナー自体の考えがはっきりしている店。どんな有名なブランドだったとしても「ノー」と言い切れて、どんな小さなブランドでも「いいね」と言い切れる店ですよね。そうやってはっきり物事を決めていけるお店しか、生き残っていけないでしょう。人口だって少なくなるわけだから、単なるファッションをやっていたらだめで、思想がないといい店はできないと思うんです。


思想、ですか!
有田 うん。ぼくはファッションビジネスの人たちとは、読んでた本からしてまるきり違ってたから(笑)。でも今はクセが強くても売れなくても、お互い頑張って挑戦していけばいいんですが、すぐ諦めちゃう。それかもう売れなくなりましたか、会社がなくなりました。それは残念ですよね。
「パーマネントモダン」は、SNS上でも知られていないようなクセの強いブランドを、対面販売にこだわって粘り強く売り続けていたわけですから、根性ありますよね!
有田 ぼくたちは49年間1度もセールをやらずに、最終的にわずかな傷もの以外すべての商品を売り切りました。そういう意味では、もっとデザイナーにはウチのことを評価してもらいたかったな、とはずっと思っていたかな。ウチのようなセレクトショップは、あなたたちがつくった商品にずっと高い価値をつけて、より魅力のある商品としてお客様に売ってるんだよって。まあ、実際はそんなこと言ったことないけど(笑)。普通の商売人だったら絶対にできないだろうけど、大変なことを大変と思わない性格だから続けられたんでしょうね。それは自分たちの誇りです。
有田さんは今までに〝やり残したこと〟なんてないですか?
有田 38歳から48歳のときにできることはあったんだろうけど、そのときは釣りのほうが勝ったから、それは仕方ないよね。
だったらもういいですよね(笑)。
有田 今度生まれてきたらやります(笑)。今と同じメンバーでね!

1952年熊本生まれ。高校卒業後上京するが、熊本に戻り24歳で「アウトドアスポーツ」をオープン。その後「LOPE」や「ブレイズ」「フェローズ」などのセレクトショップを立ち上げ、熊本の街に最先端の海外ファッションを根付かせる。38歳で一度リタイヤするも、1999年に復活し、「パーマネントモダン」をオープン。2024年をもって閉店し、現在は趣味である釣りとジャズドラムに夢中。