2025.5.12.Mon
今日のおじさん語録
「礼儀作法は、エチケットは、自然にその人間に湧いてでてくる。/山口瞳」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
26
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

〝熊本の有田さん〟って誰?
(おさらい編)
恩人でファミリー。
島津由行さんが語る
「有田さんと熊本の時代」

撮影・文/山下英介

〝熊本の有田さん〟企画を締めくくるのは、今までの記事中にも何度も登場してきた、スタイリストの島津由行(しまづよしゆき)さん! ファッション雑誌から音楽シーン、そして広告に至るまで、約40年にわたって日本の〝カッコいい〟をつくり続けてきたトップクリエイターだ。ファッション業界で大活躍する熊本出身者の先駆者であり代表格として知られる彼は、今までもっとも影響を受けた人物のひとりこそ、有田さんだと公言する。その時代を見つめるクールな視点で、有田さんと熊本の思い出を語ってもらおう。

〝街っ子〟島津さんが見た
70年代の熊本

今回は島津さんに、熊本のファッションシーンにおける有田正博さんの影響を伺えればと思いました。つい先日熊本で取材してきたんですが、引退されたというのに異常にポジティブというか、全く引退感がないというか(笑)、釣りとドラムの日々を本当に楽しまれてました。

島津由行 自分も熊本に帰ったときは一緒にバンドやるんだけど、まああの人は、一度ハマるととことんやる人だからね(笑)。

島津さんは学生時代に初めて有田さんに出会われたんですか?

島津 もともと有田さんはアイビー全盛期に、九州学院高校で結成された「アイビー・スピリッツ・ファンクラブ」というグループを取りまとめていて、『MEN’S CLUB』がわざわざ取材に来るような人だったんです。そんな雑誌を通して見ていた特別な人を、ぼくが街で見かけるようになったのが中3くらい。当時有田さんは「マルタ號」っていうお店にいたのかな。

マ、マルタゴウ?

島津 いわゆる高級セレクトショップですね(※現在も営業中)。その後東濱さんという方が経営していた「アワーハウス」っていうショップに引っ張られて、そこに勤めるようになったと思うんです。ぼくらも世代的には小洒落系というか〝わさもの〟というか、その頃からチノパンを黒く染めて、クラークスとかL.L.BEANの靴を履いて学校に通うような高校生だったし、実家もシャワー通りを出たところにある街っ子だったから、学校帰りに毎日通うようになりました。

最先端のモード誌のディレクション、ナショナルクライアントの広告スタイリング、超一流俳優やミュージシャンのスタイリング&衣装制作、さらにはファッションショーの構成や選曲まで。誇張抜きで1990年代から現在に至るまでの日本のファッションシーンの中心には、いつも島津さんがいた! 現在は自身のロックTシャツコレクションをまとめた写真集を制作中だという島津さん。ぜひ改めてお話を伺いたい!
当時から熊本にはそういうファッションカルチャーがあったんですね!

島津 でもけっこういい加減で(笑)、東濱さんは暇になると「島津、ちょっと俺パチンコ行ってくるから店番してて」なんていなくなっちゃうから(笑)、よく店番やらせてもらったんですよ。当時はほとんどそこで洋服を買っていたかなあ。あともう一軒、リーやリーバイス、ラングラーなんかを扱うジーンズショップがあったような気がするけど。それが有田さんがお店を出す前のことですね。

まだ「ビームス」や『Made in U.S.A catalog』ができる前だというのに、早いなあ、熊本!

高校を辞めてでも
アメリカに行きたかった

島津 それからぼくが高1のとき(1974年)に、有田さんが仲間たちとアメリカに行くというので、ぼくも一緒に連れて行ってもらったんです。サンフランシスコからロサンゼルスをまわって、帰りはハワイにも立ち寄って。まだ成田空港がない時代で東京にも立ち寄れたから、原宿で「ハリウッドランチマーケット」の創業者であるゲン垂水さんに会えました。現在「A STORE ROBOT」のある場所で、「極楽鳥」という古着屋さんを経営されていましたね。

その話は有田さんから伺いました! まだ高校生だったから学校に許可を取らせたって。

島津 これは有田さんにも今まで言ってなかったんだけど、実はぼくはそのときに高校を辞めてるんですよ。だって働かないと行けないから。

え〜っ、アメリカに行くためだけに高校を辞めちゃったんですか?

島津 まだ海外旅行が高い時代でしたから、それくらい覚悟しないと行けなかったですね。その後別の高校に入り直すんですが。アルバイトも新聞配達じゃお金が貯まらないから、水商売。今じゃ絶対ダメだけど、街っ子だったから雇ってくれましたよ。それでも足りないお金は借金して。

2016年に『熊本日日新聞』で連載された有田さんの回顧録から。
そんな時代だったんですね。

島津 そんなふうにして有田さんと縁ができて、可愛がってもらって、アメリカにも行けて。それからは本当にファミリーみたいな存在になりましたね。その後有田さんはシャワー通りで「アウトドアスポーツ」を開店するんですよ。もともとあった床屋さんは、ぼくの中学の後輩の家だったんですが、お店をつくるときも、ぼくたちみんなで看板つくったり、ペンキを塗ったりしましたよ。もうほとんどスタッフでした(笑)。

実際にアルバイトかなにかで「アウトドアスポーツ」に勤めてもいたんですか?

島津 熊本にいたらきっと有田さんのところで働いていたと思いますが、ぼくは高校を卒業したその日(1977年3月)に夜行で東京に出ましたから。鈍行列車で25時間かけて(笑)。

25時間(笑)。1970年代の若者たちにとっては、熊本と東京の距離って遠かったんですね・・・。当時の「アウトドアスポーツ」は高校生の間ですごく人気店だったらしいですが、島津さんから見てどんなお店だったんですか?

島津 もともと熊本って土台がアイビーだったんですが、有田さんのお店はそれを今までにない感じで引き継いで、新しい風を吹かせたような気がしますね。今まで持ってるVANでもいいけど、そこに輸入物のエディー・バウアーみたいなアウトドアっぽいアイテムを取り入れて、プラスの着こなしができるような。

熊本の場合、アメリカものを沖縄から仕入れられるという地理的特性もあったみたいですね。

島津 ぼくも沖縄には行ってましたね。軍モノとかスポーツものが安くてね。だから東京ならアメ横にしかないようなものが、当時の熊本には普通にあったんですよ。ぼくなんて近所のスニーカー屋さんでジャックパーセルとか買い占めて、高校の先生にまで売っちゃったもんね(笑)。『POPEYE』が創刊する前からすでにスケボーも流行ってて、ぼくと有田さんが練習してる写真が新聞に載ったからね。有田さん、言ってなかった?

有田さん(左上)たちとスケボーを楽しむ姿が『熊本日日新聞』に掲載された、16歳の島津さん(上下段中央)! 実はそのとき全く滑れていなかったという(笑)。
いや、その話は聞いてないですね。

島津 『熊本日日新聞』の一面に載っちゃったもんだから、次の日職員室に呼ばれて「これなんか」って聞かれて。「いや、スケートボードですよ」って言ったら、「なんかそら?」って(笑)。わけわかんないよね、先生も。

今までの不良とも違うし、意味がわかんないですよね(笑)。

島津 ぼくの場合不良は中学の頃で終わったね(笑)。アメリカにも行ったし、もう悪さしてる場合じゃないぞって。そういう意味でもアメリカに行けてよかったとは思います。だから東京に来るまでは、ずっと有田さんと一緒でした。諸事情で学生時代から自分で働かないといけない環境だったから、有田さんのお店が癒しだったんですよね。

1980年代、熊本は
日本一〝早い〟エリアだった

その後島津さんは、東京を経てパリに行かれるんですよね?

島津 東京に出たらなんとかなるだろうって、ひとまずバーテンをやりました。それからDO!FAMILYというアパレル企業に勤めながらアパートの管理人を住み込みでやって、毎晩ツバキハウスに通って・・・みたいな生活を送ってました。今回は有田さんの話だからそのあたりは置いといて(笑)、ぼくは1981年にパリに渡ったんですが、その翌年に有田さんが突然うちのアパートに来るんですよ。住所も電話番号も教えてなかったのに、誰かから聞いたのか。

メールなんてない時代ですもんね。

島津 それで色々案内して、一緒に買い付けもしたのかな。当時人気だったセレクトショップ「ブラウンズ」のバイヤーを紹介して、彼を経由して有田さんはクローラ(スコット・クローラ)を扱うようになるんですよ。クローラは当時「ビームス」にいた重松理さんあたりも驚いたし大好きになりました。当時、東京のバイヤーたちはみんな有田さんのところにリサーチに行ってたんじゃないかな? 結果的にクローラはワールドと契約しちゃうし、いいブランドはだいたい商社が抑えるような時代になるんですけどね。

有田さんも仰っていましたが、島津さんがパリにおける有田さんの情報源になっていたわけですね。

島津 ただ、セレクトに関しては厳しい人でしたよ。スッキリ激しい人だから、有田節が入らないと、いくら流行っていても絶対に買わない。「パーマネントモダン」もそうだけど、あの人にしかできないセレクトなんです。誰も知らないようなドイツのブランドとか、見つけてくるんだよなあ。

流行りだからやる、という感覚ではないんですね。

島津 販売に関しても、お客さんの個性を大切にする接客をしていましたからね。業者の人曰く〝ビッグスモールオーダー〟で、お客さんに確実に届けられる数しか買わないけれど、その代わり長く続ける。それをやっていると、お客さんもブランドも育っていくよね。そういう人口が一番増えたのが、熊本が〝ファッション王国〟なんて呼ばれた80年代だったんじゃないかな。ローカリズムが輝いていた時代というか。

2015年に「パーマネントモダン」が東京・南青山にショップを出したときには、島津さんがスタッフコートの制作を手がけるなど惜しみなく協力したという。家賃の急激な値上げにより4年を待たずギブアップしたというが、そのセンスは東京でも異彩を放っていた。
当時はセレクトショップ業界でも特殊なエリアだったらしいですものね。

島津 早いものはとりあえず熊本で様子見て、ここで売れるものは全国で売れる、なんていうデータもあったらしいね。よく覚えているのが、80年代前半のファッション雑誌に載っていた「全国売れてますランキング」みたいな記事。ほかの都市だと上位に来るのは「ビギ」に代表される大手企業のブランドなんだけど、熊本だけは日本に本格上陸する前のポール・スミスとかマーガレット・ハウエルみたいな調子で、インポートばかりなんですよ。もう全く違う。古着もよかったから、帰省するたびに買ってましたし。

いつだって熊本城が見てる

2013年に東京の新丸ビルで開催されたトークイベント「わさもん会議 IN THE HOUSE 『わさもんが語る熊本とファッション』」。島津さんのみならず、ユナイテッドアローズの会長である重松理さん、スタイリストの馬場圭介さんが有田さんと語り合った。
確かに、ドメスティックブランドよりもインポートを好む土地柄というのは昔から聞いていました。今のシャワー通りからは考えられないですけどね。ポール・スミスのお店もすでに閉まっていましたし・・・。

島津 寂しいね。流行り廃りもあるけど、家賃の問題もあるだろうし。それでも熊本はヒップホップも盛んだし、福岡とはちょっと違うかな、とは思いますけど。

同じ九州の都市でも、やっぱり福岡と熊本は違うんですかね?

島津 福岡はプチ東京だから(笑)。それはいい意味でもあるんだけど、どうしても駅ビルが中心になってローカルがなくなっていく傾向にはなりますよね。

熊本にファッション業界人がやたらと多いのは、やっぱり有田さんの影響が大きいんですか?

島津 それもあるけど、やっぱりもともと風土的にお洒落な場所でもあったと思うんです。そして音楽にも言えることだけど、深掘りする人が多い。1990年代くらいまでの熊本って、そうした音楽やファッションがうまくリンクして、漠然とでもその道で食べていこうという人口が多かったような気がします。結構みんなこだわるもんね。

県民性みたいなものもあるんですかね?

島津 ぼくなんて街っ子だから特にそう感じるのかもしれないけど、街のど真ん中に鎮座する熊本城に、常に見られているという感覚はあるんですよ。だからいつも背筋をピシッと伸ばしていたいし、プライドもある。それが独特の気風につながっているのかな、という気もします。こんな都市、他にないでしょ?

それはなんとなくわかります! 有田さんはまさにそういう気風を最も色濃く残した人なんですかね?

島津 そうですね。そんな有田さんのおかげで、いろんな影響を受けてアメリカにも行けて、お店を手伝えて、パリに行ったらまたパリで会えて、最近じゃ一緒にバンドもやってるなんて、素敵じゃないですか。だって15歳くらいで出会ってるから、もう50年の付き合いなんですよ。


島津由行

1959年熊本市生まれ。1981年に渡仏し、現地でスタイリストとしての活動をスタート。以来現在に至るまでモードからミュージックシーン、そしてエディトリアルから広告までを股にかけて活動する、日本を代表するトップスタイリスト&ファッションディレクター。現在はギターメーカーFenderのアパレルブランド「F is For Fender」のクリエイティブディレクターも務めている。

  • SHARE
MON
ONCLE
オンライン
\ ストア /
テキストのコピーはできません。