2026.1.30.Fri
今日のおじさん語録
「要するに、その土地で食うものを食え。/獅子文六」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
33
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

タケ先生と
「ペーパームーン」。
ビギグループ会長
武内一志が語る
70’Sカルチャーと
DCブランドの時代

撮影・文/山下英介

あの菊池武夫さんが1970年に立ち上げた伝説のブランド「ビギ」は、50年以上の歳月を経て、今や数十にも及ぶブランドを展開する「ビギグループ」へと成長した。現在そんな企業グループを束ねる会長が武内一志さんなのだが、実はその威厳たっぷりのプロフィールからは想像もつかないほどにフレンドリーにしてクリエイティブ、なおかつ洒落っ気あふれる方なのだ! 最近になって偶然武内会長と出会った「ぼくのおじさん」の編集人は、厚かましくもその人柄に甘えて、インタビューを依頼。DCブランドブームをはじめとする、80年代のファッションシーンの舞台裏を教えてもらった。

アイビー少年を変えた
『傷だらけの天使』の衝撃

株式会社ビギホールディングスと、その傘下の株式会社メル・ローズで取締役会長を務める武内一志さんは、1959年生まれ。1985年に「ビギ」にデザイナーとして入社後、1992年には「メルローズ」に移籍。その後は「マルティニーク」や「ティアラ」などのブランドを立ち上げ同社を牽引した、トップクリエイターでありビジネスマンであるというすごい人だ!
なかなか「会長」という肩書きの方にインタビューすることもないので、今日は緊張してます(笑)。ふざけた名前のメディアですみません!

武内一志 いやいや、時代を彩った錚々たる方々が登場されているので、ぼくなんかでよいのか、逆に恐縮しています(笑)。

今回インタビューをお願いしたのは、武内会長が活躍されてきたいわゆるDCブランドのファッションカルチャーって、アイビーやトラッドと比較するとあまり継承されていないんじゃないか?という疑問からなんですよ。今日はそのあたりを、じっくり伺いたいと思います。

武内 ぼくが仕事としてDCブランドに触れてきたのは、比較的ブームの後期のことなんですが、それでもよければなんなりと。

武内さんは1959年生まれとのことですが、ファッションとの出会いって、なにがきっかけだったんですか?

武内 もともとぼくは千葉で生まれ横浜で育ったんですが、母親がファッション好きで、小さな頃からトレンチコートなんかを着せられていましたね。当時はそれがイヤで仕方なかったけど(笑)。ただぼくは小学生の頃、夏休みになると母方のおじさんが住む東京の白金三光町(今でいう港区の高輪や白金エリア)に預けられていたので、そこで洋服に興味を持ったんです。やっぱり『TAKE IVY』『MEN’S CLUB』の世界ですよ。

1960年代の武内少年。武内さんは「決して裕福ではなく、母親がお洒落好きだったもので・・・」というが、短パンの下に穿いたタイツからは、隠しきれない育ちのよさが伺える!?


今回のインタビューは、武内さんのセンスが散りばめられたメルローズの会長室で行われた。ちなみに武内さんは、ミッドセンチュリーモダンの家具についても実に詳しい。
武内さんの世代でも「VAN」やアイビーの影響は根強かったと。

武内 でも、それが一変したのが高校生のときです。1974年にテレビドラマの『傷らだけの天使』が始まって、もう心を鷲掴みにされましたね。「不良ってカッコいいな〜」って。そこでもう、完全に転向しました(笑)。

『傷らだけの天使』の衝撃はやっぱり強かったんですね。

武内 ドラマの衣装協力クレジットに「衣装デザイナー 菊池武夫」「衣装協力 BIGI」と書いてあったので、親に参考書を買うとウソをついては「ビギ」の服を原宿まで買いに行きました(笑)。そこからぼくはどんどんファッションの世界に染まっていったんです。当時の『MEN’S CLUB』も、巻頭こそトラッドでしたが、後ろのほうではデザイナーズを紹介していたんですよね。ショーケン(萩原健一)さんが「ビギ」のピーコートにバギーパンツを合わせたスタイルは、本当にカッコよかったです。

菊池武夫さんはご本人も本当に素敵ですよね。

武内 実は昨日もお会いしたんですが、やっぱりタケ先生といるときは、あの頃の気持ちに戻っちゃいますね。タケ先生は、いつお会いしても今の若者が着ていてもおかしくないような格好をされているんですが、それが実にサマになっていて、常に時代を表現されている。この間「あなたはいつもカッコいいね」とお褒めの言葉をいただいたんですが、「俺の人生これでいいや」と思えるほど嬉しかったです(笑)。

武内さんにとってはアイドル級の存在だったわけですね(笑)。当時は「ビギ」と似たようなブランドはあったんですか?

武内 「グラス」さんや「ニコル」さんも人気があったと思いますが、ぼくが好きだったのは断然「ビギ」でしたね。青山キラー通りにタケ先生が手がけるメンズのショップがあって、ウィメンズのショップは今や「エルメス」の表参道店になっています。

写真でしか見たことがありませんが、表参道が文字通り明治神宮の参道だった頃の名残を残す、素晴らしいショップだったみたいですね。
写真上が表参道の「ビギ」、下が青山キラー通りの「メンズビギ」。1970年に創業した「ビギ」は70年代半ばには全国展開し、パリへの進出も果たした。実は「VAN」にも負けないほどに、日本人のファッションに大きな影響をもたらしたブランドなのだ。

ぼくの学校は
「ペーパームーン」

武内さんはそのままファッションの道に進まれたんですか?

武内 いえいえ、ぼくはもともと美大に行きたくて、御茶の水美術学院という予備校に通っていたんですが、その頃原宿に「ペーパームーン」というヴィンテージのブティックができたんですよ。

そのお店は聞いたことないですね!

武内 「オリエンタルバザー」の脇道を入ったところの高級マンションにあって、ブザーを鳴らして開けてもらうような、ものすごく敷居が高くて入りにくいお店でしたね。そこで扱っていた商品はすごかったですよ。「ルイ・ヴィトン」の大きなトランク、「Arrow(アロー)」や「Van Heusen(ヴァンヒューゼン)」のデッドストック、状態のよいミリタリーもの・・・。いわゆる〝古着〟ではなく、1950〜60年代の古きよきアメリカやヨーロッパものを取りそろえた、まさにヴィンテージストアでした。

今まで「ぼくのおじさん」に話題すら登場してこなかった、知る人ぞ知るおそらく日本初のラグジュアリーヴィンテージショップ「ペーパームーン」。写真のいちばん左に写っているのがオーナーの加納さんだ。その右が、このお店でアルバイトをしていた若き武内さん。後列の一番右は「BE RELEASED」や「シンクロクロッシングズ」などで知られるデザイナーの山岸裕さん。後列中央は『BRUTUS』のファッションディレクターを務めた由田晃一さん(後述)。後列左はインテリアデザイナーとして活躍し、現在でも「ピリオドフィーチャーズ」というブランドのデザインを手がける津村将勝さん。この写真を見るだけで、たった数年しか営業していなかったこのショップが、1980〜90年代のファッション業界に多大なる影響をもたらしたことがよくわかる。インターネット情報も皆無。ぜひとも調べてみたい!
ヴィンテージとかデッドストックという概念がまだほとんど存在しない1970年代に、そういう現代に通じる古着のお店があったとは知りませんでした!

武内 このお店を知ってる人は相当少ないと思いますよ。オーナーは加納さんといって、もともとカメラマンをされていた方でした。ぼくはそのお店に惹かれて通ううちに、アルバイトさせてもらえるようになりました。今をときめくトップデザイナーをはじめとする横文字職業の皆さんは、みんなここに買いに来ていましたよ。まだヴィンテージという言葉こそ使っていませんでしたが、デッドストックという言葉は、このお店ではすでに飛び交っていました。

業界人御用達店みたいな。

武内 それで、そういったデザイナーさんたちが「ペーパームーン」で服を買っていくと、翌シーズンにそっくりなものが発売されているんです(笑)。要するに、サンプルとして買っていたんですよね。当時はまだまだサンプルを買うために海外に行くのは難しい時代でしたから、著名なデザイナーさんたちは、ここで買った服をソースにしつつ、モディファイしながら新しいデザインを生み出していたんですよね。

ヴィンテージをソースにしたものづくりは、1970年代から行われていたんですね。

武内 それはもちろん、単純なコピーという意味ではありませんよ。ただ、天才のアイデアにだってソースは必要なんです。つまりファッションとは、「無」から「有」が生まれるんじゃない。もともとある「1」が、デザイナーによって「4」にも「10」にもなるものだということです。そんな光景を目の当たりにして、ぼくもファッションの世界に進みたいと思い、桑沢デザイン研究所に通うことになるんです。

武内会長をファッションの道に誘った「ペーパームーン」、ものすごく気になります!

武内 ヴィンテージのデッドストックが見付けにくくなってからは、ロンドン、N.Y.、パリにも買い付けに行ってました。まだ出てきたばかりの「ポール・スミス」や「マーガレット・ハウエル」あたりも扱っていましたよ。お客さんはぼくたちよりも上の世代の方々が多かったと思うけど、同世代でいうとスタイリストの島津由行さんや、「レディ・ステディー・ゴー!」を立ち上げた後藤田和仁さんはよく通っていました。ぼくもここに勤めたいという思いもあったんですが、結局数年でクローズしちゃったんです。

まさに〝伝説のお店〟だなあ!

武内 オーナーの加納さんは仕事でしょっちゅう海外に渡っていたので、その都度ぼくに現地の事情を教えてくれました。N.Y.にはアンディ・ウォーホールというアーティストがいて、「スタジオ54」というディスコがあって、そこに集まる人のファッションは・・・といった具合にね。

武内会長にとっての学校みたいな感覚なんでしょうか?

武内 本当にそうですね。いろんな人が集まるお店で、閉まった後はみんなで「ツバキハウス(〝ロンドンナイト〟で知られる新宿にあった伝説のディスコ)に行こう!」みたいな日々です。その後桑沢デザイン研究所を卒業する前には一度海外に行っておこうと思い、パリに渡りました。そして加納さんに紹介してもらった絵描きさんの家に居候しながら、なけなしのお金を元手に数ヶ月ヨーロッパで遊学したんですよ。パリ、ロンドン、フィレンツェ・・・・。本当に素敵な体験でしたね。後ろ髪をひかれつつも帰ってきてからようやく就職するんですが、そこも「ペーパームーン」で知り合った方に誘われた、アパレルの企画会社でした。

いわゆるDCブランド的な会社ですか?

武内 もともとぼくも出がアイビーなもので(笑)、トラッド系の会社でした。1980年代前半は「VAN」が倒産した直後だったので、「VAN」出身の方がファッション業界でいろんな会社を立ち上げていたんですよ。ぼくはそこで2年間、ものづくりやその流通の仕組みを勉強させてもらってから、「ビギ」に入社しました。それが1985年のことです。

DCブランドブームの
隆盛と衰退

ここでついに「ビギ」に辿り着くわけですね!

武内 当時の「ビギ」はDCブランドのトップランナーだったし、高嶺の花でしたよ! 本当に狭き門でしたが、新しいメンズブランドを立ち上げるタイミングでデザイナーの募集があったので、一生懸命デザイン画を描いて応募しました。そしたら運よく受かっちゃったんです。

1980年代の「ビギ」は、ロゴの入った社用車に乗ってるだけでモテる時代だったと聞いたことがあります(笑)。でも、1985年といえばちょうど菊池武夫さんがワールドに移籍されて(1984年)すぐというタイミングですよね?

武内 そうですね。当時の「ビギ」では稲葉賀惠先生(YOSHIE INABA)が副社長で、金子功先生(ピンクハウス)や荒牧太郎先生(マドモアゼルノンノン&パパス)といった、仰ぎ見るような方々がトップデザイナーとして活躍しておられました。そんななかでぼくが担当したブランドは「インスパイア」。ビギグループだけを見ても「インテスト」とか「デュプレックス」とか、もう雨後のたけのこのように(笑)たくさんのブランドが生まれた時代です。

まさにスター集団が在籍する花形企業だったわけですね。でも、同じ会社に「インスパイア」と「インテスト」があると混乱しそうだなあ(笑)。

武内 「インスパイア」では、「ぼくのおじさん」にも登場した元「バックドロップ」の中曽根信一さんとも一緒に働いていて、よく共同制作していましたよ。ぼくはそれ以外にも、稲葉先生に抜擢していただいて、アシスタントとして東急電鉄やJALのユニフォームデザインにも関わっていました。これがその頃の写真です。

衝撃的ですね・・・(笑)。ちなみにお揃いのジャケットを着ている方はどなたですか? 

武内 「バックドロップ」からビギグループに転職されて、のちに「ラブラドールレトリバー」を創業することになる、中曽根信一さんです。これは「インスパイア」時代に社員旅行でハワイを訪れたときの写真なんですが、わざわざそのためにユニフォームをつくっていたんですよ。

「インスパイア」時代、社員旅行でハワイ(!)を訪れた際の武内さんと中曽根信一さんの秘蔵写真。当時は武内さんがデザインし、中曽根さんがグラフィックを担当するという共同制作もよく行われていたそう。
中曽根さんの話は聞いていましたが、社員旅行用のユニフォームとは想像を絶する時代ですね(笑)。

武内 こんな写真もありますが、よかったら見ますか?

うわわ、これはすごい・・・!
1982年、原宿のセントラルアパートにあった広告制作会社「HEAVEN」での写真。ヴィンテージのGジャンと、当時まだ本格上陸しておらず、並行輸入品を手に入れたという「ポール・スミス」のシャツを着た武内さん。
1986年、ビギのクリスマスパーティの模様。デッドストックの英国製スーツに「アニエスb.」のTシャツを合わせるという、かなりハイブロウなコーディネート。
詳細は定かではないが、いかにも80年代らしいパーティの模様。ニットは上陸したばかりの「ドルチェ&ガッバーナ」。
1989年、フィレンツェにて。スーツとシャツはミラノで購入した「ジョルジオ・アルマーニ」、ネクタイはイタリアのセレクトショップ「ルイーザヴィアローマ」のもの。まさにバブル全盛期のスーツスタイルだ!
まさに80年代という時代を象徴するスタイル、最高です! 「ポール・スミス」も「ドルチェ&ガッバーナ」もまだ日本上陸するかしないかの時期だし、武内さん、ものすごいコアな服好きじゃないですか(笑)。しかし当時は洋服のデザインもそうですが、雑誌広告とかカタログとか、その表現手段も本当に贅沢な時代ですよね。「インスパイア」が『BRUTUS』に掲載したタイアップ広告も、本当にすばらしいビジュアルですよ。

武内 ああ、これぼくがやったんだ(笑)。〝ヌーヴェルバーグ〟というテーマをもとに、編集者さんと打ち合わせしてね。本当にすごいなあ。当時の日本のファッション誌では、アルド・ファライとかブルース・ウェーバーあたりのフォトグラファーが普通に撮影してましたから。そういえば、当時若くして『BRUTUS』のファッションディレクターをされていた由田晃一(よしだこういち)さんも、「ペーパームーン」によく通われていたクリエイターのひとりです。ここで出会ったデザイナーさんや海外の情報から、大きな影響を受けていたんだと思いますよ。



1980年代半ば〜後半の『BRUTUS』が年に2回発行していたファッション特大号「STYLEBOOK」。はっきり言って同時代の『ルウォモ・ヴォーグ』よりも断然かっこよくて贅沢だ! 写真右が、武内さんが手がける「インスパイア」のタイアップ広告。商品の色が全くわからないファッションページをブランド側から提案していたんだから、当時のクリエイターたちの遊び心のほどがよくわかる。
由田晃一さんは、1980年代の『BRUTUS』でファッションディレクターとして活躍したのちに、「ジョルジオ・アルマーニ」が日本に上陸した際には初めての広報を務めた、ファッション業界のレジェンドです。「ペーパームーン」は、ある意味では1980年代ファッションの生みの親みたいなお店なんですね・・・!

武内 ぼくは間違いなく、加納さんによって下地をつくってもらったと思いますね。

その後武内さんは今も続く「メンズメルローズ」のデザインを手がけるようになるんですよね?

武内 そうですね。結局どんなブームにも終わりがあって、三宅一生さんや川久保玲さん、山本耀司さんといった天才デザイナーはさておき、1990年代前半には終わっていくブランドがほとんどでした。うちの会社でも「ピンクハウス」や「YOSHIE INABA」、「ヨーガンレール」「パパス」といった確固たる意思をもつデザイナーブランド以外は、厳しい時代がやってきました。そんなときにぼくは「メンズメルローズ」を任されて、おかげさまでよい業績を上げられたんです。

成長著しかった「ビギ」から派生するような形で、1973年に会社設立した「メルローズ」。その第一号店は今はなき表参道の同潤会アパートにあった。ちなみにあの「ピンクハウス」もメルローズ社のブランド!
中目黒にある「メルローズ」の本社ビル。なんとこちらは巨匠・安藤忠雄さんが1984年に初めて手がけたオフィスビルだ!

「マルティニーク」を任せてくれた
恩人・大楠祐二さん

パリの街を歩く30代の武内さん。このジャケットは自身でデザインした「メンズメルローズ」だという。
武内さんはDCブームの渦中を通じて様々な天才・異才と出会って来られたと思いますが、なかでも一番すごいと思う人って、誰ですか?

武内 うーん・・・。DCブランドブームが終わった1990年代には、重松理さんの「ユナイテッドアローズ」(1989年創業)を中心としたセレクトショップの時代が、本格的にやってきました。そしてウィメンズのブランドがいよいよ厳しい状態になった頃、ぼくは当時の社長だった大楠祐二さん(ビギ創業者のひとり)に呼び出されて、「ウィメンズでも新しいことを仕掛けろ」と命ぜられたんですよ。そこでぼくは、今も続く「マルティニーク」のアイデアを大楠さんに話したんです。昔の銀幕スターが着ていたような時代を超えたヴィンテージと、新しいものを共存させたお店をつくりたい、そこになにか突破口があるんじゃないか、と。そしたら大楠さんは「なんだかわかんねえけど、そんなにやりたいんだったら半年やってみろ」と言ってくれたんです。

半年って短いですよ(笑)!

武内 短かったですね(笑)。でもおかげさまで「マルティニーク」は、2000年8月に1号店がオープンして以来、25年間続いています。大楠さんも、当時はまだ小僧だったぼくに大きなビジネスを託すのには、不安もあったでしょう。それでも冒険させてくれた大楠さんがぼくにとっては師匠だし、偉大な存在だと思いますね。

大楠祐二さんは菊池武夫さんや稲葉賀惠さんとともに「ビギ」を創業され、長年グループを牽引した方ですが、引退までほとんど表舞台に出られませんでしたよね? いったいどういう方だったんでしょうか。

武内 大楠さんは、菊池先生や稲葉先生、金子先生、荒牧先生といった天才的なデザイナーをマネージメントすることに、ものすごい才能を持っておられた方です。シャイだから人前にはあまり出てこないし、今まで取材もほとんど受けてこなかったんですよ。ビジネス面では本当に厳しくて鋭い方ですが、挑戦はさせてくれる。ぼくにとっての恩人ですね。

安藤忠雄デザインの社屋を見ただけで、その美意識の高さがうかがえます!
武内さんが案内してくれた「メルローズ」本社ビル。安藤忠雄建築のビルに、大楠祐二さんや稲葉賀惠さんが集めたという貴重なアンティーク家具やアートが飾られた、まるでアートギャラリーのような空間だ。写真下は超希少なデザイン資料。

武内 冬はちょっと寒いんですけどね(笑)。

しかし武内さんが自らバイイングを手がけた「マルティニーク」は、開店後〝売れすぎて売るものがない〟からクローズしたという、あまり聞いたことがない伝説を残していますよね?

武内 まだそういうお店は珍しかったですからね。当時はメンズのデザインをやりながら、海外に行っては一生懸命、いろんなものを買い集めました。「ルイ・ヴィトン」のトランクや「エルメス」のバッグみたいな古きよきものが、当時はものすごく安く買えましたから。「バーバリー」のトレンチコートなんて当時は5000円程度で買い付けられましたから、飛ぶように売れましたよ。そういう古いものと当時出たばかりの「リーバイスレッド」をミックスしたり、『Visionaire(ヴィジョネア)』みたいなモード誌を並べたり・・・。本当にいろんなことをやりましたね。でも「ディオール」のハラコのピーコートとか、「エルメス」と「ジャガー・ルクルト」のダブルネームのドライバーズウォッチとか、売れなくてもいいや、と思って買ったような高価で珍しいものから売れていくんですよ(笑)。こういうのを欲するお客さんっているんだな、と実感させられました。

2000年にオープンした、ビギグループ初のセレクトショップ「マルティニーク」。最近ではすっかり定着した〝大人のヨーロッパヴィンテージ〟を手がけた、先駆者的ショップである。
ヴィンテージ好きとしては聞くだけでよだれが出そうです(笑)。武内さんにとって、「マルティニーク」は新しい「ペーパームーン」みたいな感覚だったんでしょうか?

冒険心と責任感をもった
若い才能を応援したい!

武内 スタイルこそ違いますが、間違いなく下地にはありますよね。まあ、ぼくはそれからどんどん会社経営に軸足を置くことになり、デザインやバイイングの仕事は若い人に譲っていくことになるんですが・・・。

デザイナーとして活躍された方がこういう規模の企業の経営をされているというケースは、業界的にはかなり珍しいらしいですね。

武内 稀有でしょうね(笑)。でもそれって、ぼくがDCブランドブームの後期に入社して、苦しい時代と向き合いながら試行錯誤してきたからできたことなんですよ。もしそのままブームが続いていたら、口がうまいだけの人がトップを独占しているかもしれませんし。でも、どんなに素敵なことや面白いことも、ビジネスとして成功させないと続けていけませんよね? ぼくはたまたまそれをうまく繋げられたんだと思います。

身につまされます(笑)。でも、今日は「会長」という肩書きに怯えながらここまで来ましたが、武内さんの装いや、ここに置かれている家具を見ていると失礼ながら親近感が湧くというか、やっぱりクリエイターなんだな、と思わされます。クルマも黒塗りのリムジンとかじゃなくて旧車だし、あんまり威圧感がないというか・・・(笑)。ちなみに今日着ていらっしゃるお洋服はどちらのものですか? 


モダンながらどこかに遊び心のあるリラックスしたファッションに、「パテックフィリップ」のカラトラバ。しかもクルマはBMWが誇る1970年代の名車「3.0CSi」・・・! 世界の名品をサラリと使いこなすセンスには、思わず唸らされる。旧車や機械式時計、アンティーク家具などにも精通した武内さんの趣味の世界に、いずれ迫ってみたい。

武内 ああ、シャツは「ザ・ロウ」で、コートは「オールドイングランド」です。最近ですと「コモリ」もよく着ますね。どちらかというと余計なものを削ぎ落とした、ミニマムなスタイルが好きかなあ。バウハウスの思想に惹かれるんです。

今注目されているクリエイターはおられるんですか?

武内 「I’m donut?(アイムドーナツ?)」を手がける平子良太さんとは仲良くしているんですが、彼のように新しい世界観をつくって世界へ挑んでいこうという若者たちを見てみると、ワクワクしてきますよね。ぼくたちの核はあくまでファッションですが、今後はその範囲を広げていく必要もありますから、そういう意味でも刺激を受けています。

ちなみにこれはちょっと聞きにくい質問なんですが、御社にはそういう存在はおられるんですか?

武内 ・・・もっと出てきてほしい(笑)。いや、みんな頑張っているんですよ! でもやっぱり、ぼくは冒険心と責任感をもった次世代の子を、もっともっと後押しできたらいいな、とは思いますね。

冒険心だけではなく、責任感が重要だと。

武内 それはそうです。やっぱりひとりでものはつくれませんから。社内の様々な部署やお店の方、そしてお取引先の工場の方・・・。みんなを繋げながら一緒に豊かになっていくためには、それ相応の責任を果たすことが大切なんです。

でも、おとなしいと言われがちな今の若い子の声を代弁しますと(笑)、今ってモノや情報が溢れすぎているからこそ、なかなか「これだ!」と思えることに辿り着けない側面もあると思うんですよね。
駐車場でクルマを撮らせてもらっている最中にも、気さくに社員さんと言葉を交わす姿が印象的だった。

武内 そんなときは、モノや情報の角度をちょっと変えながら見るといいと思いますよ。そうすると、そこに小さな隙間ができて、その奥には線路がある。その線路を辿った先に生まれたストーリーには、ひょっとしてみんなが新鮮に感じてくれることがあるかもしれませんから。

これは武内会長の〝仕事の極意〟ですね(笑)!

武内 ぼく自身、そういう発想が好きですね。

でも、やっぱりどこかでクリエイターの魂がうずいてきて、ご自分が何か新しいことをやりたくなったりしませんか?

武内 ・・・それは半分ありますね(笑)。

やっぱりあるんですね(笑)。

武内 いや、でもぼく自身が今までたくさんの方に委ねてもらったからこそ、ここまで成長して来られたわけですから。だからそこは若い人たちに任せていかないとね。ただひとつの目標としては、ぼくが今まで見てきたような古きよきものをアーカイブとして遺して、次世代の方々に伝えていくような活動はしたいと思っています。

期待しております!

武内 もうちょっと心の余裕ができたら、ね(笑)。

  • SHARE
MON
ONCLE
オンライン
\ ストア /
テキストのコピーはできません。