2026.6.12.Fri
今日のおじさん語録
「要するに、その土地で食うものを食え。/獅子文六」
お洒落考現学
25
連載/お洒落考現学

24歳の古着屋店主が
重松理さんに聞く!
80年代DCファッションと
謎のブランド
VALORの時代

構成/市村修蔵・山下英介
撮影/山下英介
取材協力/日本服飾文化振興財団

「ぼくのおじさん」が2年前にインタビューした、〝80年代のDCブランドに恋した22歳〟こと、長野県上田市の古着屋「スノッブ」店主の市村修蔵くん。当時は現役国立大学生だった彼は、この春めでたく卒業。古着屋とDC ブランドの研究に人生を賭けている彼のことを、ファッション業界のおじさんたちは大応援している! この春、そんな素敵な「ぼくのおじさん」のひとり、鴨志田康人さんの仲立ちによって、なんと市村くんが「ユナイテッドアローズ」の創業者である重松理(しげまつおさむ)会長にインタビューできるという、またとない機会が訪れた。「ビームス」の設立にも携わり、日本のセレクトショップ文化を築いた伝説のおじさんに、いったい彼はなにを尋ねるんだろう・・・?

ニッチすぎるインタビュー、
奇跡の実現!

市村くんの記事はこちらを参照!

市村 ぼく、重松会長にVALORのことを聞きたいんですよね。

ば、ばろーる?

・・・聞けばVALORとは、ビームスから1981年に生まれた「インターナショナルギャラリー ビームス」のオリジナルブランドであり、当時重松さん自らデザインを担当されていたブランドなのだとか(ちなみに重松さんの後任として企画を担当したのは鴨志田さん!)。おいおい、キミはどれだけニッチなんだよ! 

もうちょっと壮大なテーマでなくていいんだろうか? そもそも取材の趣旨はちゃんと重松さんに伝わっているのだろうか? ドキドキしながら取材場所に向かう編集人であった。それでは本編はここから!

VALORを通じて
80年代ファッションを知る

業界のレジェンドに囲まれて大緊張の市村くん。今回の取材の実現に協力してくれた元「ビームス」のプレスで現在はフリーランスのPRとして活躍する、安武俊宏さんも立ち会ってくれた。
本日はよろしくお願いいたします! ・・・あの〜、念のため最初に伺っておきたいのですが、重松会長は本日の取材の主旨をご存知でしょうか(笑)?

重松 伺いました。主旨というか・・・(笑)。

1976年生まれの私にとっても耳なじみのないVALORというブランドのことを、20代前半の彼が熱く語る姿に衝撃を覚えました(笑)。

鴨志田 1980年代のことを語っていただきたいというのが、大きな意味での主旨ですかね。

市村 はい。私は今年信州大学の繊維学部を卒業して、主に1980年代のDCブランドを扱う古着屋を経営しているのですが、当時の雑誌やそこに登場するブランドを掘っていくなかで、VALORというブランドに行き着き、集めるようになりました。ただ、たぶん1983年から1988年しかやられていなかったみたいで、残念ながら雑誌にもインターネットにも情報がほとんど残ってないんです。「これは誰かに聞かなきゃ分からない世界だ」とずっと思っていました。今日はぜひよろしくお願いいたします!

重松 もう40年以上前のことなのでだいぶ記憶も薄れているんですが、よろしくお願いいたします。

重松さんはアメリカものを
着ていなかった!?

重松理さんは1949年生まれ。1976年に「ビームス」の設立に携わり、初代店長としてそのビジネスを確立させた、セレクトショップというカルチャーの立役者。1989年には鴨志田康人さんや栗野宏文さんらとともに「ユナイテッドアローズ」を設立し代表取締役社長に就任。現在は同社の名誉会長のほか、公益財団法人日本服飾文化振興財団の代表理事などを務めている。
VALORのことを伺う前に、まずはその背景となる時代について伺っておきたいのですが、「ビームス」が創業したちょうど50年前、1976年頃の重松会長はどんな格好をされていたんですか?

重松 ぼくやその周りは1968年頃からヨーロッパっぽくなっちゃって、実はほとんどアメリカものを着てなかったんですよ(笑)。

市村・鴨志田 え〜っ、そうだったんですか!?

重松 笑っちゃうんですが、「ビームス」の創業前はサンローランみたいな格好をしていました。もちろん本物のサンローランは買えなかったから、当時日本にたくさんあった、コピーばかりでしたけどね。それで「ビームス」を始めるにあたって、これからはアメリカものが売れるということで、改めてアメリカっぽいものを着だしたんです。まあ、仕事だったから。

今回の取材にご協力していただいた日本服飾文化振興財団は、ファッションカルチャーの次世代への継承を目的とした公益財団法人なのだが、じつはこちらに収蔵されているメンズ・ウィメンズのヴィンテージクロージングや書籍、テキスタイル見本などは一般公開もされている! HPから予約をして伺ってみよう。
そういう意味でいうと、重松会長が1980年代に入ってから始めた「インターナショナルギャラリー ビームス」は、自分の趣味に立ち返ったみたいな感覚なんでしょうか?

重松 いや、自分の趣味っていう感覚はないですね。あくまで時代の流れを捉えて始めたんですよ。世界のファッションの〝今〟を紹介する場としてね。

鴨志田 重松さんが一貫して仰る主語って、〝自分の感覚〟ではなく〝世の中の潮流〟なんですよね。

重松 そこはマーケティングと一緒ですよ。ただ自分の趣味はVALORや束矢といったブランドで反映させてきましたが。だって、当時の『POPEYE』の編集者たちだって、アメカジっていうよりはヨーロッパっぽい格好をしていましたからね。

なるほど〜、1976年のファッションシーンにおいて、すでに西海岸アメカジスタイルは最先端ではなくなっていたと(笑)。

重松 最先端だったのは北村勝彦さん(※1)的なスタイルですよね。

(※1)1946年に生まれ、『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』『Tarzan』といったマガジンハウスの雑誌で活躍した、スタイリストやファッションディレクターという職業の草分け的存在。そのレイヤードのセンスは、今見ても新しくて唸らされる! 過去の雑誌のバックナンバーを探してみよう。
北村さんが提唱されていた〝ワイルドシック(WILD CHIC)〟みたいな、アメカジにデザイナーズを合わせるようなスタイルですか? 
北村勝彦さんが1977年の『POPEYE』で提唱した〝ワイルドシック〟。ロクヨンのマウンテンパーカなどに代表されるアメリカンアウトドアウエアと、メンズビギなどのデザイナーズやドレスクロージングをミックスさせた革新的なスタイルは、当時の業界に衝撃を与えた。

重松 あれは早かった。ウールパンツに、当時〝運動靴〟と呼ばれていたスニーカーを合わせたのも北村さんが最初です。それまでスニーカーに合わせるパンツなんて綿パンかデニムだったところを、北村さんはグレーのフランネルパンツを合わせたんです。それも真っ白いキャンバススニーカーを。めちゃくちゃ新鮮でした。

当時はファッション業界の皆さんのスタイルと、ショップや雑誌を通しての発信、そして受け取る側のスタイルに、ものすごく時差があったんですね。

市村 当時重松さん的にお好きだったショップやブランドはあったんですか?

重松 我々が手本にしたお店といえば、ヨーロッパではパリの「エミスフェール」(※2)ですね。一番お洒落でした。ネイティブアメリカンのチマヨベストだって1番最初に見たのは、アメリカではなくあのお店ですから。彼らはそういうものを全世界から集めて、今っぽく着る提案をしていました。あと、当時アメリカに3店舗ぐらいあった「バーニーズニューヨーク」も、まだあの頃はファミリービジネスでよかったです。でも今のアメリカには個人の顔が見えるショップって、ほぼ残っていません。セレクトショップのことを海外では〝マルチレーベルストア〟と呼ぶんですが、表現として残ったのは日本だけなんですよね。

(※2)1978年にパリの16区で創業し、世界中のトラッドアイテムを再編集した独自の概念〝フレンチトラッド〟をつくったセレクトショップのひとつ。1980年代の前半には六本木に日本店がオープンした。創業者のひとりは現在「アナトミカ」を営むピエール・フルニエさんだ。
当時のニューヨークでは「サンフランシスコ」というショップも人気だったそうですが。

鴨志田 映画『アニー・ホール』の世界そのまんまの、ニューヨークトラッドのお店だったようです。ぼくは残念ながら写真でしか見られませんでしたが。

重松 彼らはよくロンドンで買い付けしていましたね。ただかなり早くになくなってしまいましたが。

鴨志田さんは「ビームス」に
ニューヨークトラッドを見た

ちなみに鴨志田さんが「ビームス」に入社したのは何年なんですか?

鴨志田 ちょうど「インターナショナルギャラリー ビームス」がオープンした年(1982年)です。重松さんに面接してもらいましたよ。

志望動機はなんだったんですか?

鴨志田 もともと「テイジンメンズショップ」に内定していたんですが、栗野宏文さんから「3店舗目が渋谷にできるから来れば?」みたいな感じでカジュアルに誘っていただいて。今までの「ビームス」よりドレス色を強めるとのことだったので、自分にはうってつけかな?と思ってすぐに重松さんにお会いしたんです。でも面接なんて「なんかありますか?」の一言で終わった記憶しかないんですよね(笑)。

もはや説明するまでもないけれど、鴨志田康人さんは多摩美術大学を卒業後1982年に「ビームス」に入社。重松さんとともに「ユナイテッドアローズ」の設立に参画し、メンズクロージングの企画やバイヤーなどを歴任した、業界のレジェンドである! 今でも「ポール・スチュアート」のディレクションなど、クリエイティブの現場で大活躍。そのセンスは衰え知らずだ。
じゃあ、そのときすでに、鴨志田さんにとって「ビームス」はアメカジのお店ではなかった?

鴨志田 もちろんアメリカものは多かったですが、どちらかといえばニューヨークトラッドで、創業時のアメカジというよりシティ寄りのイメージが増していった頃でしたね。当時オリジナルのジャケットは斎藤久夫さん(※3)が監修されていて、ボックスシルエットで格好よかったですよ。

(※3)詳細は「ぼくのおじさん」でつくった松山猛さんとの対談記事をご覧あれ。斎藤さんはセレクトショップ業界からもDCブランド業界からもリスペクトされる稀有な存在だ。編集人は何度もお会いしたことがあるが、ご自身のスタイルにも一本筋が通っていて本当に格好いい!
今や世界的なアメカジブームなので、海外での「ビームス」のイメージってかなりそっち寄りのイメージに傾いていますよね。だから比較的初期からヨーロッパのスタイルをやっていたことが、意外と見落とされているような気がします。

重松 ヨーロッパのスタイルって、海外の人にとってはたぶんそれほど新鮮ではないんですよ。そして今はアメリカものもどんどん姿を消して、日本にしか残っていないから、それが新鮮に映るんでしょうね。

クローラからVALORへ

長野県上田市でDCブランドの古着屋「SNOB(スノッブ)」を営む市村修蔵くんは、2002年生まれ。生まれも育ちも兵庫県なのだが、信州大学繊維学部への進学を機に長野県へ引っ越し、在学中に自身のショップを立ち上げる。古着屋オーナーでもあり80年代ブランドの研究家でもあるという、かなりユニークな存在だ。店名は「スノッブ」だが腰は低い!

市村 ここでようやくぼくの好きな時代について伺えそうですね(笑)。重松さんにとって、「インターナショナルギャラリー ビームス」を立ち上げた1980年頃ってどんな時代だったんですか?

重松 ちょうどニューヨークからヨーロッパの買い付けが始まった頃ですね。1970年代はほとんど西海岸で完結していて、1979年か80年頃に初めてニューヨークの展示会に行ったんですよ。なのでフィールドワークみたいなものは、ニューヨークのマーケットと展示会、あとはパリとミラノとフィレンツェの展示会を巡って買い付けしていました。

鴨志田 「ニューヨークコレクティブ」という展示会に、ヨーロッパのブランドがたくさん出展していたんですよね。

重松 それを見て、供給元であるヨーロッパまで行くようになったと。それが1981年くらいのことです。

鴨志田 当時パリには「セム」という展示会があったんですが、最初に行かれたのが重松さん。

重松 いや、一番最初は「ベーリーストックマン」(※4)なんですよ。

(※4)ルーツは明治41年に金子万吉さんが青山で創業した糸商の「金万商店」。創業者の孫である金子順持さんは1974年にウエスタンショップ「ベーリーストックマン」を創業し、日本におけるインポートセレクトショップの先駆けとなる。のちに設立した会社「ストックマン」では、BALLなどのヨーロッパブランドの代理店もつとめている。
あの外苑前にあるウエスタンブーツショップの?

鴨志田 のちにアパレル商社の「金万」(※5)を立ち上げた金子誠光さんのお兄さん、金子順持さんが創業したんですよね。その後「ストックマン」という会社を立ち上げて。

(※5)金子順持さんの弟であり、「ストックマン」のアメリカ法人を経営していた金子誠光さんが1983年に創業したのが「金万」。「エミスフェール」や「ハリス」といったフランスの名店を日本に導入した。現在はトリッペンの輸入代理店として有名。注釈を書いていたら、ぜひ「金万」や「ベーリーストックマン」についても調べたくなってきた!
それは知りませんでした。

重松 「ベーリーストックマン」「ビームス」、続いて「シップス」くらいの順番で、ヨーロッパものが徐々に日本のマーケットに入ってきたんです。これからはニューヨークものとヨーロッパものがメンズファッションの主流になると思っていて、その受け皿として、我々は「インターナショナルギャラリー ビームス」をつくったという。

市村 当時印象に残っているブランドやデザイナーってありますか?

重松 ヨーロッパで買い付けたのはどこだったかなあ。

市村くんが持ってきた当時の雑誌をご覧になりながら、思い出していただければ(笑)。

鴨志田 マーガレット・ハウエルはロンドンで買い付けていましたよね? あとはジェフリー・バンクス(※6)とか?

(※6)1977年にアメリカで創業したデザイナーズブランド。デザイナーのジェフリーさんは、ラルフ・ローレンやカルバン・クラインのアシスタントをつとめていた。

重松 ピンキー&ダイアン(※7)、ポール・スミス、クローラ(※8)・・・。ちなみにその頃からジョルジオ・アルマーニは扱っていましたよ。お店で買ってきて店頭で並べるくらいでしたが。

(※7)1980年にニューヨークで創業したデザイナーブランド。80年代半ばに日本でもブレイクした。
(※8)スコット・クローラさんが設立したショップでありブランド、CROLLA(クローラ)。マーガレット・ハウエルやキャサリン・ハムネット、ナイジェル・ケーボン、ポール・スミスなどとともに、1980年代のロンドンで一世を風靡した。

鴨志田 こ、これは・・・(笑)!

1983年のファッション雑誌『Checkmate』10月号。写真左から3番目をご覧あれ!

市村 ぼく、これを見てVALORの存在を知ったんですよ(笑)。

若かりし鴨志田さんの勇姿が(笑)。

市村 これは1983年の『Checkmate』ですが、VALORを立ち上げたのもそれくらいですよね? この年の雑誌には高橋幸宏さんを起用したファッションページも掲載されていますので。

こちらはVALORがデビューしたときに高橋幸宏さんをモデルに迎えて制作されたファッションページ(『MR.ハイファッション』1983年NO.8)。

重松 だと思います。

市村 ロンドンでいえば、ぼくは「ア・ストア・ロボット」(※9)のようなショップの服も買い付けていますが、「インターナショナルギャラリー ビームス」が提案するロンドンスタイルとはやっぱり違うものだったんですか?

(※9)1982年に原宿でオープンし、現在も営業を続けるショップでありカルチャースポット。セディショナリーズやマルコム・マクラーレン、ワールズエンドといったブランドをいち早く導入し、日本のパンクムーブメントにおける震源地となった。

鴨志田 ぜんぜん違いますよ。「ア・ストア・ロボット」はパンキッシュでアバンギャルドなストリートでしょう? それに対して「ギャラリー」はポール・スミスやクローラなどのデザイナーズを扱うお店でしたから。当時のNO.1セレクトショップといえばロンドンの「ブラウンズ(※10)」でしたから、そこで扱っているものをお手本にしていましたね。

(※10)1970年にロンドンで創業し、現在に至るまで新しい才能を発掘し続けるセレクトショップ。コム・デ・ギャルソンだってこのお店に認められたのが世界的ブレイクのきっかけなのだ。

市村 クローラなんて、今ネットで検索しても全く情報が出てこないですよね。

重松 短命でしたからね。

鴨志田 クローラが、当時金融街だったロンドン・メイフェアのドーバーストリートにお店を出したのは本当に革新的でしたよ。そこからあの通りがファッションシーンで注目されるようになったんですから。すごく格好よかったし、シビれました。

市村 本当に見たくなっちゃうなあ(笑)。オリジナルブランドのVALORは1983年に始まったわけですが、それらの海外ブランドと、どうやって差別化していたのか、すごく気になっちゃうんですが。

重松 実はクローラが大人気だった頃に、ロンドン在住のふたりの日本人デザイナーがクラールというブランドをつくったんですよ。

市村 ク、クラール(笑)。

重松 かなりクローラに近いテイストのブランドで、「ビームス」ではそれを少しづつ仕入れていたんですが、すぐやめちゃったんですよね。それでぼくたちはその後釜としてオリジナルブランドのVALORを立ち上げたんです。



洗濯可能の表示が入ったシルク素材を使ったアルマーニのようなゴージの低いスーツ。小ぶりなカラーに2つ穴ボタン、エスニックテイストが特徴的なシャツ。古代エジプトの壁画のようなプリントにオープンカラー・・・。昨今のブランドには見ることができない仕様の数々が、VALORの特徴。
では、かなりクローラに影響されていたと。

重松 そうです。当時一番格好よかったですからね。

鴨志田 伝統的なブリティッシュの中にアフリカに代表される土着的なエスニックテイストを取り入れたクローラのスタイルは、当時においてはとても斬新でしたよ。そもそもエスニックだってひとつの伝統なわけですが、それを組み合わせることで新しいスタイルをつくる、という発想はそれまでなかったですからね。

重松 イヴ・サンローランしかり、エスニックというのはデザイナーにとっての重要な発想の源なんでしょうね。「エミスフェール」が取り入れていたネイティブアメリカンテイストだってそうでしょう?

市村 VALORもイカット(絣)のシャツなどをつくっていましたよね。

重松 それはまさにクローラが目をつけたんですよ。さっき言ったクラールも、デザイナーのひとりが久留米出身だったから、久留米絣で洋服をつくり始めたのがブランドのはじまり(笑)。

鴨志田 立野浩二さん(※11)ですか?

(※11)1980年に18歳でロンドンに渡り、独学での服づくりをスタートした天才デザイナー。1983年に設立したカルチャーショックで注目を集める。その後ロンドンに「ビスポークテイラーショップ」をオープン、舞台衣装の製作なども行う。あのアレキサンダー・マックイーンさんも彼のもとで働いていたのだ!

重松 いや、古賀譲(こがゆずる)さんが久留米出身だったの。

市村 ええっ、立野浩二さんって、あのカルチャーショック(※12)を立ち上げた・・・? 

(※12)伝統的な絣などの厳選した生地をロンドンの職人が仕立てる、モードなアプローチとトラディショナルが交錯するブランド。一部は1点もので製作され、後年に立ち上げたkoji tatsunoではパリコレでの発表も行っている。

重松 そう。クラールを経て、カルチャーショックで有名になったんです。

鴨志田 ハウンドトゥースとグレンチェックのクレイジーパッチワークのジャケット、うちでも扱っていましたよ。ぼく自身も持ってたし。

市村 うわあ、まさかここで繋がるとは(笑)。あれ、すごくほしいんですが、全く出てこないんですよ。立野さんといえば90年代にやっておられたエヴー(※13)のほうが有名みたいで。カルチャーショックは当時西武SEED館(※14)の2階にあったということだけはわかったんですが。

(※13)1980年代前半に創設し、1995年に立野さんがディレクターに就任した、クラシックモダンな世界観のブランド。メンズのエヴーオムは渋谷の明治通りにもショップを構えるなど、1990年代を代表する人気ブランドだった。
(※14)1986年3月21日にオープンした、渋谷の西武百貨店の別館。現在は「モヴィーダ館」として「無印良品」が店舗を構えている。当時は若手デザイナーを発掘するハイセンスなセレクトショップとしてのみならず、バーやギャラリー、ミニシアターなども併設した、1980年代のセゾン文化を象徴するカルチャースポットとして人気を集めた。90年代に学生時代を過ごした編集人もよく通ったけど、かなりスノッブで入りにくいお店だった。

鴨志田 そうなんだ(笑)。

市村 VALORには「オルタネイティブ」と「ミッド30’S クラブ」というふたつのラインが並行していたと思いますが、そのあたりの棲み分けはどうされていたんですか?



製造期間がわずか2年しかない貴重な「ミッド30’s クラブ」。鴨志田さんが企画を務めた「オルタネイティヴ」。VALORのすべてが今ここに。資料的価値満載です!(市村)
VALORからさらにニッチに(笑)。

重松 「ミッド30’S クラブ」は30年代のファッションからスポーツテイストのものだけを抜き出して展開したラインで、「オルタネイティブ」はまたヒネり方が違うラインでしたね。それぞれコンセプトを変えた3つのラインが並行していたわけです。

鴨志田 「オルタネイティブ」は当時全盛期だった東京デザイナーズの影響を受けて、東京っぽいというか日本っぽい味付けをしたラインでした。

その頃になると、ファッションの世界でも〝日本っぽい〟ことが求められる時代になってきたわけですね。

鴨志田 なんせそれまでのぼくたちはインポート大好き少年だったから、メイド・イン・ジャパンなんて内心バカにしちゃってたわけですよ。それがDCブランドブームで「ラフォーレ原宿」にお客さんを取られたりしていたから、オリジナルブランドの一環としてそういうテイストを取り入れていたんです。なので「オルタネイティブ」ではちょっと山本耀司さんのような匂いを出して、スーツにドクターマーチンを合わせたり、裾にゴムを入れたペグトップパンツをつくったりしていました。まあ、変な時代ですよ(笑)。

その頃重松さんは、どんな格好をされていたんですか?

重松 どんどん変わっていきましたね。「ビームスF」ではなかった。VALORを始めてからはそればかり着ていましたよ。

鴨志田 VALORのスーツはハリウッドスターのミッド30’Sスタイルがモチーフで、広めのショルダーで太いラペルのダブルブレストジャケットに、ワイドテーパードのパンツ。これにインドもののシルクシャツを合わせる提案をしていたんですが、一番似合うのが重松さんでしたね。

市村 あの頃の洋服にローシルク(※15)を使っているのがすごいですよね。

(※15)Raw Silkとは、蚕(かいこ)が羽化した後の破れた繭(まゆ)など、短く切れた繊維を使って紡がれたシルク。ツルツルというより、野趣あふれる質感が特徴。
こちらは重松さんが今でも着用されているというVALORのスカーフ。そのエスニックな柄は、今見てもハイセンスだ。

鴨志田 VALORはローシルクがトレードマークでしたから。

ではVALORは、当時の皆さんが考える〝旬〟や〝格好いい〟がギュッと詰まったブランドだったんですね。

重松 でも、一般的にみんなが格好よく思えるようなブランドじゃなかったですよ。それほど有名でもなかったし。

鴨志田 ぜんぶヒネってましたから(笑)。

市村 出てくるアイテムすべてが面白いです! 重松さん的に、印象に残っている商品があれば教えてもらえますか?

重松 なんだろうなあ・・・。ほとんど覚えてない(笑)。

鴨志田 ぼくは重松さんのつくられたVALORに憧れて、のちに引き継ぐことにもなるんですが、やっぱりインドシルクを使ったシャツやパンツは印象的でしたよ。今までに見たことのないような素材ばかりでしたから。

重松 そうだね、ローシルクとイカット(絣)は覚えているな。それまではインドの素材といえば、バティックとマドラスばかりだったんですが、このあたりはサリーなどと同じような生産背景だったと思うんですよね。たぶんロンドン経由で初めて知ったんだと思いますが。

市村 DCブランドを掘っててもこの生地にはなかなか出会えないから、見た瞬間に「VALORだ!」ってわかるんですよ(笑)。

当時としてはかなり攻めた生地だったと思いますが、つくるときは「これは売れるぞ」と思っているわけですよね?

鴨志田 いやあ・・・。

そうでもなかったんですね(笑)。売れなくて重松さんから怒られたりしませんでしたか?

鴨志田 重松さんは過程ではなくて結果を重視するタイプなので、当然売れないと怒られるんですが、つくるものは自由(笑)。

DCブランドと
セレクトバイヤーたちの
微妙な関係

市村 当時の重松さんは、ファッション業界ではどんな方々と交流されていたんですか?

重松 さっきからお名前が出ている斎藤久夫さんや北村勝彦さん、ポータークラシックの吉田克幸さんといった方々とは、当時から今に至るまでずっとお付き合いさせてもらっていますね。1981年に〝オヤジ会〟をスタートさせて。

そのグループの存在は知っていましたが、45年前から〝オヤジ会〟なんですね(笑)。やっぱりセレクトショップ畑の皆さんって、いわゆるデザイナーズの方々とは、それほどお付き合いはなかったんですか?

重松 誰かを介して紹介されてお会いしたりはしましたけど、それほど多くはなかったですね。ただ、be released(ビーリリースト)の山岸裕さん(※16)は本当にお洒落な方でしたよ。

(※16)山岸裕さんはVAN企画室を経て、ヴィンテージショップのペーパームーンに勤めたのちに独立したデザイナー。スタイリストとしても活動し、雑紙『BRUTUS』にも関わっていた。be releasedはワールドが山岸裕さんをデザイナーに迎えて1984年に創設したブランドで、上質でリラックスした雰囲気のアイテムが多く、ほかのDCブランドより華美な装飾は省かれているのが特徴。山岸さんは当時のインタビューで〝身内ウケ〟を大事にしていると語っていた。
そのブランド名、ぼくは最近になって知りました! いわゆるDCブランドとはちょっと違ったんですか?

市村 ワールドのもとで展開されていたブランドで、ぼくはずっと集めているんですが、どれも格好いいんです。

鴨志田 be releasedは本当に感度が高いブランドでしたよ。カタログはアルド・ファライあたりが撮っていたんじゃないかな。山岸さんは1970年代に表参道にあったショップ「ペーパームーン」で働いたりしていて、ヴィンテージにも精通している方なんです。

市村くんが所有するbe released。肩から胸元にダーツが走るシャツ、4つポケット仕様の2つボタンダブルジャケット。リラックスフィットのチャイナジャケットにフリルシャツ、市松模様のスラックス。80年代にこんなセンセーショナルなメンズウェアを提案していたなんて!
「ペーパームーン」のことも、ちょっと前に知りました!

鴨志田 本当はあまりカテゴライズしたくはないんですが、いわゆるデザイナーブランド畑の方々と、我々のようなセレクトショップ畑の人間たちとではルーツが違うところもあって、要するにぼくたちはトラッドが好きなんですよ。そのベースを踏まえたうえでアレンジしたり、アップデートしながらモノを選んだりつくったりする人間にとっては、ときにデザイナーズのものづくりって表面的に見えてしまうこともあるんです。山岸さんはそういう意味でも、筋が通ったものをつくっておられたと思いますね。

なるほど、そこにはやっぱり深くて長い川が流れているわけですね(笑)。

重松 もちろん菊池武夫さんをはじめ、一時代を築いたデザイナーの方々のことは、大先輩として尊敬しているんですよ。そうした意味でいうと斎藤久夫さんはかなり特殊なケースで、DCとセレクトショップの間を自由に行き来する数少ない人です。TUBEの上位ラインだったKENGUNも格好よかったですよね。斎藤さん、九州が好きだからってそんなブランド名にして(笑)。

ああ、熊本県の健軍から名付けているんですね(笑)。

衰退していく
日本の繊維産業

市村 VALORの洋服を見ていると、インドシルクや絣など、素材への意識を強く感じます。私は信州大学で日本のシルク産業が衰退していく過程を学んできたのですが、今日お話ししたような80年代の国内ブランドの歴史そのものも、十分に記録されていないような感覚をもっています。重松さんは、生産背景や文化も含めて、こうしたものを今後どうやって残していくべきだと思われますか?

重松 私自身は和装の産地において原料をつくるところを残したいと思い、今までそうとう活動してきましたが、正直いって難しすぎてね。個人の力だけではなにもできないという状況に突き当たって、頓挫しています。でも、残したいですよね。京丹後に大きなシルクの背景があって、そこで活動する人たちのお手伝いもしてはいるんですが、なかなか外に売るのが難しいのが現実です。

鴨志田 日本って、海外に売るのがいまだにヘタじゃないですか。ぼくは毎年イタリアの生地展に通っていますが、最近円安ということもあって、また日本の生地に注目が集まってはいるんです。ただ、昔からプレゼンテーションが苦手なので、どうもパッとしないんですよね。暗〜い感じというか(笑)。実にもったいないので、そこを誰かがバックアップできるといいんですけどね。

市村 ぼくが通っていた繊維学部も、国立大学なのに国からのお金はなかなか下りてこなかったです。なので研究者たちは、自分たちで材料を集めたり、企業との提携によってようやく研究費を確保しているくらいなんですよ。

重松 なかなかなす術がありませんね。私はとにかくシルク好きなので、シルクをなんとか残したいんですが。

重松さんが80年代にVALORをやられていた頃には、「日本の産地を残そう」という感覚はあったんですか?

重松 それはなかったですね。業界全体が景気がよかったから、当時は危機に瀕してる感覚なんてありませんでした。日本ではそもそも、国が繊維産業を支えようという思いに欠けているんです。イタリアやフランスでは国策として繊維産業やファッション産業を支えていますが、日本では全くないじゃないですか。そうこうしている間にも韓国ではファッションやエンタテインメントのコンテンツ発信を、国を挙げてやっている。とっくに追い抜かれちゃって、もう全然話にならなくなっていますよ。

和装の達人として知られる重松さんだが、この日着用されていたスーツもシルク生地。重松さんは自身の装いや個人的な活動を通して、陰に日向になりながら、日本のシルク産業を応援している!

80年代の「ビームス」は
世界でいちばん早い
セレクトショップだった!?

やっぱり重松さんにとっての80年代っていうのは、黄金期というか最高の時代ということになるんですか?

鴨志田 楽しかったですよね? 海外に行けば必ず新しい人やモノと出会えたし。

重松 そうですね。1976年に創業した「ビームス」は、創業10年でビジネスモデルが固まったんですよ。1986年にロンドンオフィスができたことによって、情報のタイムラグがなくなり、世界で最も新しいモノが、日本でどこよりも早く「ビームス」に並ぶことになりました。海外の展示会に通うやり方だと、半年は遅れますからね。これはもう絶対にどこにも負けない・・・と思いすぎたのはよくなかったかもしれないな。数年後に会社辞めちゃったから(笑)。

鴨志田 (笑)。今高円寺で「MOGI」というお店をやっている、テリー・エリスさんと北村恵子さんが、ロンドンオフィスの最初のスタッフだったんですよ。

では、1986年の「ビームス」は、自他共に認める世界一のセレクトショップになったと?

重松 世界一は言いすぎかな(笑)。でも間違いなく日本一ではありましたね。だって雑誌社だって、「ビームス」に借りに来るしかないんですから。当時のファッション誌って、がんばって年に1回くらい海外取材で別冊をつくっていましたが、「ビームス」があるから、それが必要なくなっちゃったんですよね。

確かにそうかもしれません。1980年代前半までは『Made in U.S.A. catalog』のようなムック本って、いろんな出版社から発行されていましたから。

鴨志田 さすがにぼくはそこまでの自信はなかったけど(笑)、常に海外の格好いいお店に負けたくない、という気持ちで出張していました。もはやヨーロッパには個人経営店じたいがほとんどなくなりましたが、当時は山ほどいいお店があって、ディスプレイひとつとっても本当に素敵だったんですよ。今みたいに店内で写真を撮れる時代じゃないから、店主に顔をしかめられながら、なんとか1枚だけ撮って・・・。まだアジア人蔑視も強かったですからね。でも、今は向こうに行っても「仕入れたい」と思わせるお店がないんですよ。

市村 1976年からの濃密な10年で、日本の経済力もファッションも、世界に引けを取らないレベルに急成長していったわけですね。

重松 言葉は悪いけれど、フン詰まり感はなかったですね(笑)。

移り変わりの激しいファッションの世界で半世紀ものあいだ最先端であり続け、いまだにクリエイティブの現場で尖りまくっている、重松さんと鴨志田さん。市村くん、ぼくたちも負けていられないな!
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