2025.8.11.Mon
今日のおじさん語録
「礼儀作法は、エチケットは、自然にその人間に湧いてでてくる。/山口瞳」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
29
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

河毛と小森、
そしてキャンティ(第一夜)
東京〝最後の伝説〟
「キャンティ」がつくった
美しき秘密と謎の時代

撮影/高木陽春
文/山下英介

演出家の河毛俊作さんと、デザイナーの小森啓二郎さん。世代もフィールドも異なるふたりが今宵「キャンティ」に集い、都市の文化をともに語り、笑い、そして憂う。第一夜は、ふたりをつなげたレストラン「キャンティ」と、東京の〝食〟について。

「キャンティ」が繋いだ
演出家とデザイナーの交流

あ、赤ワインに氷入れるんですね。

河毛 うん、なぜか「キャンティ」に来ると、赤ワインに氷入れたくなる。お酒入らないとちょっと恥ずかしいよね(笑)。

小森 お忙しいですか?

河毛 6月の舞台が終わって、今はそうでもないですね。これからまた舞台が入ったり、来年の準備にも入るんだけど。

1952年生まれの演出家・河毛俊作さんと1976年生まれのデザイナー・小森啓二郎さん。奇しくも今日の装いはふたりとも黒ずくめ。
今日は演出家の河毛俊作さんとデザイナーの小森啓二郎さんが仲良しだという話を聞きつけたもので、一度ふたりの会話を聞いてみたい! というざっくりした企画でございます(笑)。そもそもお二方は、どんなお付き合いなんですか?

河毛 もともとはぼくが書いた文章を小森さんが読んでくれていたんですよね。それで編集者の鈴木正文さんを通して、栗野宏文さんらを交えて一緒に食事させてもらったのが初めての出会いかな。それからぼくも小森さんの服にすごく興味を持つようになったという。その後偶然「キャンティ」で会ったんだよね?

小森 そうなんです。

みんな「ぼくのおじさん」に出ている方々じゃないですか!

河毛 聞いてみたら麻布十番の「酒肆ガランス」にもいらっしゃるというし、今の若い方では珍しい嗜好だなあ、と思って。それで一回「キャンティ」でメシでも行きましょうというところから、お付き合いが始まりました。だから、ある意味では「キャンティ」がきっかけなんですよ。

小森さんは1976年生まれですが、その世代でもなかなか「キャンティ」に行くような人はいませんよね?

小森 もともとは70〜80年代のカルチャーに興味があったので、一度は行ってみたかったんです。でも実際すごくいいお店なので、最近は常連というほどでもありませんが、よく行くようになって。でも、「酒肆ガランス」もそうなんですけど、ぼくが居心地いいなと思うお店には、ほとんど同世代がいないんですよ。

河毛 小森さんのように今のファッション界をリードする40〜50代の方たちは、あまり「キャンティ」でお見かけしたことがないような気がする。多分、この世代の新しいカルチャーをつくった人たちは、「キャンティ」のカルチャーがうざかったんだと思うよ(笑)。

小森 大先輩たちの行きつけですもんね。

河毛 昔でいえば、菊池武夫さんとか「アルファキュービック」の柴田良三さんといった方々が集っていたようなお店だったからね。若い世代にとっては、自分たちは違うんだぞ、という矜持があったんじゃないかな。でもそれは悪いことじゃないよ。

ある意味では健全かもしれませんね。

河毛 小森さんの世代がどう思うかわからないけど、ぼくたちの世代には、この時代に合わせて自分をアップデートしなくちゃいけないという気持ちがあるんです。でもやっぱり、自分が「ある目標」をもって生きていた若い時代の価値観って、すべてを捨て去ることはできないんだよね。絶対に。そういう意味では「キャンティ」は、ぼくにとってただのレストランではない、ひとつの学校だったと思うんです。授業料は高かったけど(笑)。

「キャンティ」から始まった
音楽とファッションの変革

そのあたりをゆっくり伺う前に、ぜひ、なにかお好きなメニューを注文してください(笑)。

河毛 ぼくは前菜にラタトゥイユと野菜のマリネ、それとイワシの香草焼き。そのあと「仔牛のフローレンス風」かな。

支配人 パスタはいかがしますか?

河毛 あとで食べられたら頂こうかな。「キャンティ」ではそういう注文のしかたもできるから。

小森 じゃあ自分はラタトゥイユとタコ、それとスパゲティのバジリコを。

支配人 温かい前菜はいかがですか? イワシとか焼きチーズとか。

小森 大丈夫です。

スパゲティバジリコは「キャンティ」が誇る名物メニューですね。

河毛 「キャンティ」のお客さんはだいたい好きだよね。生まれて初めて行ったイタリアでバジルのスパゲティを頼んだら、全然違うものを出されてすごくがっかりした記憶があるけど(笑)。シソもパセリも入っていない。当たり前だけど・・・。

創業時の日本ではバジルが手に入らないということで、「キャンティ」のバジリコは大葉を使っているんですもんね(笑)。河毛さんが初めて「キャンティ」に来られたのは、いつだったんですか?

河毛 多分1972年か73年くらいですかね。高校生か大学生の頃。

早熟ですね(笑)。

小森 レーサーの福澤幸雄さんや伊丹十三さんもいらっしゃってたんですよね?

河毛 ぼくは直接お会いしたことはないけどね。実はそろそろ言ってもいいかと思うんだけど、ぼくの知り合いの女性が、川添象郎さんとお付き合いしていたんです。

川添象郎さんといえば、「キャンティ」創業者の川添浩史さんのご子息であり、YMOなどのプロデュースを手がけた方ですよね。昨年お亡くなりになられましたが。

河毛 そう。荒井由美さんやYMOを見出した目利きであると同時に、フラメンコ・ギターのミュージシャンとしてもすごい人でした。まあ、それと同じくらいメチャクチャな人で、よくも悪くも破天荒な人物でした。だからぼくは、お店よりも先に象郎さんと知り合いだったんです。当時はまだ1階が「ベビードール」というブティックで、そのオーナーは川添浩史さんの奥様だった、〝タンタン〟こと川添梶子さん。ここは日本における高級セレクトショップの走りでした。

キャンティの初代オーナーであった川添浩史さん(1913〜1970年)と、その妻である川添梶子さん(1928〜1974年)。伯爵の血筋をもつ浩史さんは戦前にパリへ遊学し、フランス映画を日本に輸入したり、日本文化を海外発信する事業に従事。神戸の実業家の家に生まれた梶子さんはイタリアで彫刻家エミリオ・グレコに師事し、衣装デザインなども手掛けた人物。世界基準のほんものを知り尽くしたふたりが1960年に創業した、日本初の本格的イタリアンレストランが「キャンティ」だった。
このお二方が「キャンティ」とその文化をつくった方ですね。

河毛 川添浩史さんのお祖父さんは、明治維新における立役者のひとりだった後藤象二郎だよね。日本で初めてルイ・ヴィトンのトランクを買ったと言われる人なんだけど。

う〜ん、そんなところに高校生で出入りしていたとは・・・(笑)。

河毛 いや、当時はなにもわからないで来ていたから(笑)。

荒井由美さんも来られていたんですよね?

河毛 荒井由美さんは、ぼくは面識がなかったけど、プロデューサーの村井邦彦さんがよくいらっしゃっていたつながりで、彼女が2枚目のアルバム『ミスリム』を出した時のコンサートには行った覚えがある。

『ミスリム』のカバー写真は、「キャンティ」の川添さんのご自宅で撮られたそうですね。洋服も「ベビードール」が扱っていたイヴ・サンローランだったとか。

河毛 ちょうど音楽とファッションが一気に変わっていく夜明けみたいな時代だったね。村井邦彦さんや川添象郎さんがティン・パン・アレー(細野晴臣・鈴木茂・林立夫・松任谷正隆のユニット)みたいな才能を見出し、世に放っていた頃だったから。ティン・パン・アレーがレジェンド歌手の雪村いずみさんをプロデュースしたアルバム『スーパー・ジェネレイション』なんて、すごく格好よかったな。いちいち刺激的でしたね。

河毛さんは、どんなときに「キャンティ」を使っていたんですか?

河毛 ぼくは20代後半から40代半ばくらいまでが最盛期というか、毎日ここに来るのが日常だと思っていた。1日1回、多けりゃ2回。

小森 本当ですか(笑)!?

河毛 だってその頃の「キャンティ」って、昼の11時頃にオープンして翌朝の4時までやってたんだよ! 当時は銀座のアフターで来る人もたくさんいたから、夜12時になると客層が変わるんですよ。仕事終わりの芸能人と銀座のアフター(笑)。 今じゃ21時半ラストオーダー(閉店は23時)というから信じられない。

じゃあ「キャンティ」に行くと、ここにもあそこにも有名人みたいな。

河毛 有名な人かヤバい人かどっちかだったね。今じゃお客さんも健全な人ばかりだから、いちばん変な客はぼくかもしれないね(笑)。

〝秘密〟と〝謎〟を楽しめた
最後の時代

戦後〝租界〟と呼ばれていた六本木の外れにお店を出した「キャンティ」には、川添夫妻の幅広い交友関係を物語るように、芸能関係者や芸術家はもちろん、政財界の大物、皇室関係者までが集い、日本唯一のサロンとして機能した。創業時は1階に梶子さんがオーナーを務めるブティック「ベビードール」があり、当時の女優たちから熱烈な支持を集めた。独立したてのイヴ・サンローランやピエール・カルダンの代理店となり、グループサウンズの衣装を手がけるなど、その活動は日本のファッション文化に大きな影響をもたらした。
そこまで河毛さんが「キャンティ」にハマった理由ってなんだったんですか?

河毛 単純に料理が美味しいし、興味深い人も集まってるし。ここでは自分の将来にとってためになる出会いも、たくさんありました。

当時の「キャンティ」は、〝文化人のサロン〟みたいな表現で語られていますが、お客さん同士の交流も盛んだったんですか?

河毛 ぼくが行き始めた頃はまだガキだったけど、ありましたよ。「ベビードール」が70年代後半頃に閉まって「アル・カフェ」になったあとは、そこに常連さんが集まって、知らない人が入ってくるとみんな睨むんですよ(笑)。だから普通の人にとってはすごく感じ悪かったと思う。そのときによくいらしたのが画家の今井俊満さん、カメラマンの沢渡朔さん、ムッシュかまやつさん、「タイガース」の加橋かつみさん・・・。いろんな人がいましたよね。伊丹十三さんもよくひとりでいらしてました。

間違えて入ったらそのまま帰りたくなるなあ。

小森 声の大きそうな人ばかりですね(笑)。今みたいにひそひそ話する人なんて、いなかったんでしょうね。

河毛 いないいない(笑)。あるソサエティの中での情報の漏れなんて、誰も気にする必要がなかったから。そもそも当時の普通の人は、「キャンティ」の存在自体を知るすべがなかったと思うし。雑誌といっても『ミセス』か『婦人画報』くらいしか出ていなかったんじゃないかな。

小森 当時はまだそこまで週刊誌を気にすることもなかったんでしょうか?

河毛 あるにはあったけど、芸能人の不倫とか博打みたいなものに、そこまでニュースバリューはなかったよね。そもそも昔の飲食店の人は、お客様の情報を外に漏らすなんてありえなかったし。それはレストランだけじゃなくて、芸妓さんはもちろんバーマンに至るまでね。

小森 なんでこんなに時代は変わってしまったんですかね?

河毛 ぼくにはわからない。ただぼく自身は〝秘密〟や〝謎〟ってすごく素敵なものだと思うんですが、そう思わない人が増えたんじゃないですか。

小森 その心理自体は、きっと昔からあったんだと思いますが。

河毛 それはそうだろうね。ただ今は情報ツールの発展や、それをビジネス化させることによって、人間の欲望を簡単にくすぐることができてしまう。そういう意味では、ぼくはスマホもない素敵ないい時代に生まれたなとは思いますね。

小森 今、ぼく自身が海外へ旅に行けるのもこのスマホのおかげではあるんですが、これがあるせいで、「なんであなたはこのお店に入れるんだ?」という存在になっていると感じることもあるんです。その場所に違和感を生じさせているという。そういう状況って、過去にはなかったと思うんですよね。それを感じて以来、「ここに自分がいたいのなら、場所の空気を乱したくないな」ということを自然に考えるようになりました。

今は情報とお金さえあれば、どこにでも行けますもんね。

小森 この間、L.A.の「シャトー・マーモント」に行ってきたんですよ。

ソフィア・コッポラの映画『SOMEWHERE』(2010年)の舞台になったことで知られる、ハリウッドのホテルですよね。どこか「キャンティ」の立ち位置とも重なる、サロン的逸話を数々残している、伝説の存在です。

小森 残念ながらその場所の雰囲気なんて全く気にしていないアジア人の旅行者がたくさんいて、ぼく自身アジア人なわけですが、そこでなんだか冷めちゃうんですよ(笑)。昔の「シャトー・マーモント」のムードを感じたくて行ったのに、その雰囲気は完全に乱されていた。そういう意味では、もちろん差別はダメだけど、今の世の中には、ある種のセグメントは必要なんじゃないかなって。

河毛 それはあるね。そもそもメディアが使う〝隠れ家〟なんて言葉が、そもそも矛盾してるしね。あなた方が知ってる時点でそこは〝隠れ家〟じゃないから(笑)。

小森 それ、めちゃくちゃわかります(笑)。

顧客が伝える
むかしの「東京の味」

あ、そうこうしている間に河毛さんのメイン料理が。これが「仔牛のフローレンス風バターライス添え」ですか・・・。

河毛 そう。ほうれん草を挟んだ仔牛のグラタンですよね。バターライスを添えて。ぼくが偉そうに言える立場じゃないけど、「キャンティ」の料理っていうのは、初代シェフである佐藤益夫さんがイタリア料理をベースにつくった〝キャンティ料理〟ですよ。

支配人 仰る通りです。いわゆるイタリアで食べるイタリアンと違って、フランス料理のテイストを取り入れたり、日本人の口に合わせるようにアレンジしております。

小森さんが召し上がっているバジリコのスパゲティは、ムッシュかまやつさんも大好きだったようですね。ミラノ風カツレツと一緒にして。

河毛 あれは「バジリコミラネーゼ」というプレートだね。昔は「ベネチアン」といって、仔牛のレバーソテーとスパゲティアラビアータを一緒にしたプレートもあったんだ。最近レバーソテーはあまり出していないみたいだけど。

河毛さんが通い始めた頃と、味は変わっていますか?

河毛 ほとんど同じだけど、少しは変わったかな。ぼくが大好きな「グレッカ」というヨーグルトソースを使ったギリシャ風サラダがあるんだけど、このソースはつくる人によって全然粘度が違ってくるんだ。

支配人 レタス自体の水分も季節によって変わってきますので・・・がんばります(笑)!

こういう常連さんがいらっしゃるから、時代が変わっても味をキープできるわけですね(笑)。

河毛 ぼくはそういうこと言わないんだけど、業界の大先輩は「キャンティ」でメニューにないありとあらゆるパスタをつくらせていましたし、作曲家の黛敏郎さんはお粥を炊かせて、鰻の佃煮をおかずに食べていたという伝説が残ってます。たぶん佃煮は持ち込みだと思いますが、そういう自由が許されていた。あと「キャンティ」は、ウェイターの方がみんな中年以上の男性であるところもいいんだよね。こりゃ人件費が大変だなあ、と思いながら5,000円のランチを食うんだけど(笑)。

小森 「キャンティ」派に対する◯◯派みたいなお店はあったんですか?

河毛 それはないね。ぼくが若い頃に限っていうと、対立軸が成り立つほど東京には人や場所がなかったし。ただ、単純に東京の食べ物屋さんということでいうと、麻布十番と麹町にある中華料理屋の「登龍」には、なぜか「キャンティ」と同じ雰囲気を感じるんだよね。実は「キャンティ」の二代目オーナーだったみっちゃん(川添光郎さん)が亡くなる前、最後にお会いしたのも麹町の「登龍」だった。昔の東京にあった高級中華料理屋の象徴的なお店かな。

小森 行ってみたいです。

8月10日公開の「第二夜」に続く!

キャンティ飯倉片町本店

ドレスコードは「スマートカジュアル」。
住所/東京都港区麻布台3-17
電話/03-3583-7546
営業時間/11:30〜15:00(ラストオーダー14:00)、17:00〜23:00(フードのラストオーダー21:30、ドリンクのラストオーダー22:00)

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